安堂来 [事業場名簿で安清路]

築港121 〔本人証言1995年8月16日付け手紙(河北大学経由)〕
    〔本人証言1995年8月22~23日、保定で聞き取り〕

 ・当時23歳で石家荘の鉄道労働者だった。1944年5月のある日夜8時頃、仕事が終わって家に帰るとき、警務段の者に呼び止められた。自転車の荷台の横に掛けている物入れの袋がでこぼこしているので怪しいとにらんだようだ。袋の中には家で燃料に使う石炭を少しばかり入れていた。そのまま家にも帰されずに「鉄道の物を盗む」罪で石門警務段に3ヵ月間もぶちこまれた。八路軍のために石炭、医薬品、塩などを盗んだと言い掛りをつけられ、それを認めないと棍棒や鞭で散々殴られた。私は全身傷だらけになってしまった。約3ヵ月監禁された後、私たち十数人は縛られた上で幌の付いたトラックに乗せられて南兵営(石門捕虜収容所)に送られた。
 ・南兵営に着くと、すぐ服を脱がされ、髪を丸坊主に切られ、圧縮空気を送って霧状の消毒液を私達の頭から体にかけた。まだ、乾かないうちにボロの着物をもらって着た。
 ・夜寝る時は服を脱がされ裸で寝なければならなかった。大便も小便も許可を得てから順番にいかなくてはならない。ちょっとでも身動きすると棍棒で殴られた。
 ・南兵営での仕事は、日本軍の兵舎に行き倉庫に置いてある品物を運びだしたり、積み上げて片付けたりする仕事をさせられた。作業員が必要とされるときに、2、30人が連れていかれた。仕事をしている私達の回りには、逃げださないようにいつも銃を持ち監視する日本人がいた。強制連行される数日前、南兵営で隊列を組まれた。中国人が一人ひとり私達の名前を確かめ記入していった。同じ場所で日本人が私達の写真を撮っていった。出発前に撮った写真は個人記録に貼りつけてあった。公に見せる帳簿ではなかったと思うが、一人ひとり記録していたので、私は自分が登記するときのぞき見した。すると、逮捕理由の欄には共産党との関わりや、どんな名目で捕まったのかが書いてあった。他に家庭状況や戸籍、犯罪の事実が書いてあった。罪の決定では、私は八路軍でも国民党でもないので、土匪と書いてあった。
 ・塘沽から大阪への船の中で、中国人の死体を日本人が海に投げ入れているのを思い出した。何の儀式もなくゴミのように捨てられた。
 ・大阪では主には貨物船の荷役で、全て中国から運んで来た物ばかりだった。布、落花生、銅、錫などがあった。仕事の無いときは一日2食で、一食につき黒い饅頭(マントウ)が一つで、仕事の時は船の上であと一食が加わる。それでもやはりお腹を空かしていた。一銭の賃金も支払われたことがない。
 ・港では満足な食事や衣服も与えられず、激しい重労働を強いられた為に、今に至も多くの病気を患ったままだ。長年来腰が痛み、脊椎がひどく曲がったままになっている。心臓病、肺病などによって42才の時には働くことさえできなくなり、退職せざるを得なかった。
 ・連行される前に受けた数々の拷問によって、私の肉体と精神はかなり弱っている。今に至ってもよく日本人に虐待される夢を見る。夜中に悪夢にうなされ、そのまま寝つけないことも度々だった。
 ・私が捕まった後、家の両親は2ムーしかない畑を売り払って私を救い出そうとしたが、何の成果もなかった。母は私を想って泣き続けついには両目を失目してしまった。父も怒りの余り病床に臥せたままになった。家に残る兄弟6人は全員まだ成人もしていない。一家8人は働き手を失い、至る所で物乞いをしながら死線を彷徨った。