李登起さんと、遺族:李仁さん・李勇さん

 李登起さんは1944年8月に藤永田造船所へ連行されました。死亡診断書では、44年10月26日「慢性腹膜炎」により26歳で亡くなったとされています。大阪への連行後2カ月しか経っていません。
 李登起さんには子どもがいませんでした。母親と喧嘩して家を出たきり半世紀以上行方不明のままでした。
 同じく藤永田に連行された幸存者高文声さんは次のように証言しています。

 「李登起という、30才ぐらいの人。仕事に慣れないながら、働いていたがある日点呼をしてみると一人いない。翌日になってもいない。彼は逃亡していたということで、数日後警察に捕まって送り返されてきた。理由を聞くと、家には80数才のおばあさんがいてだれも面倒を見るものがいない。それが気になって逃げたという。罰として食事抜きということになった。後で彼が死んだということを知った。」
       (96年8月17日北京での聞き取り)

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 李登起さんには兄の李eさんがいました。その孫の李仁さん、李勇さんから手紙を頂いています。曹嗷さんのところで触れたように、その甥の曹万興さんが李さんらに連絡しました。その知らせを受け2004年に李さんから大阪に初めての手紙が届きました。両者は、別の卓本海さんの遺族卓興志と共に互いに数q以内の距離に住んでいます。
 李登起さんについて李仁さん、李勇さんは次のように語っています。

 「彼は家にいた頃は、農作業もしっかりやり、小さな子どもたちの面倒もよく見ていたそうです。彼の母方の祖母の実家が大曹村にあったので、そこには今も親戚がいます。」
            (07年2月27日の手紙)
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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