雷智玉さんと、遺族:雷発祥さん

 雷智玉さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部安治川へ連行されました。当時の使用企業の記録では雷振玉と記され、その死亡診断書では、45年3月15日午前11時0分「肋膜炎」によって36歳で死亡となっています。死亡場所は「大阪市港区湊屋町2ノ1 済生会大阪府港病院病室内」。発病年月日が「45年2月1日頃」となっています。  彼の死亡について別の記録があります。
 空襲被害者としての記録として、「昭和20年3月14日死亡、磯路収容所、雷振玉、36才、市岡浜通2-2」というものです。その磯路収容所分には空襲犠牲者として集められた主に日本人318人の名が連ねられています。3月13〜14日の大空襲によりあまりにも多数の死者が出て、臨時に学校や公園の広い場所に集められたということのようです。「市岡浜通2-2」は現在の南市岡2丁目付近(jr環状線沿い弁天町駅の南)となっていますが、安治川収容所からも離れたその場所が、現住所として記載されたのか被災場所として記載されたのか不明です。
 この記録の出典は、港区の西栄寺にある過去帳です。その元になったのは西栄寺住職が60年9月12日から10月6日にかけて何度も港区役所を訪れ書き写されたものです。「昭和20年3月14日死亡」「昭和20年6月1日死亡」「昭和20年6月26日死亡」と大空襲ごとに各収容所に集められた犠牲者が列記されています。港区役所に残されていた「火葬許可証」の控えなどが原本と思われますが、元資料については確定的なことは言えないそうです。西栄寺では60年以降毎年空襲犠牲者への法要を続けられてきました。
西栄寺 西栄寺(港区)

 雷智玉さんについての二つの記述が正しいとすると、空襲直後の混乱の中、病死者も空襲被害者と同様に、火葬許可に基づき野焼きされたということになるのかも知れません。安治川収容所の少し南に済生会大阪府港病院があり、さらに南が磯路町で比較的近距離でした。どちらかの記録が間違っているのかも知れません。現在の真実を決定づける根拠を私たちが持たないのが現状です。

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 私たちの方で2004年に古い住所宛へ手紙を送ったのですが、その返事により雷さんについてのいくつかのことが分かりました。当時の日本側資料では「雷振玉」となっていましたが、正しくは「雷智玉」と分かりました。雷智玉さんは結婚していないし、子どもがいませんでした。雷智玉さんには弟の雷牛旦(正式の名前はないとのことです)がいました。その子が雷明徳さん(60年2月死亡)で、雷明徳さんの子が雷発乾(30年頃生まれ)と弟の雷発祥さん(38年頃生まれ)。二人とも学校の行けなかったそうです。弟の雷発祥さんと手紙のやりとりをしています。  最初の返事は次のような言葉で始まってました。

二重の驚き(クリックで手紙へ)

 そして最後は次の言葉で閉められていました。

質問(クリックで手紙へ)

 半世紀以上もの間、日本側から何も伝えなかった現状を示しています。その後私たちはできる限り判明している状況を伝えましたが、先の空襲のことを含め、遺族に事実をちゃんと伝えられないもどかしさと、すまなさを感じています。
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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