王玉才さんと、遺族:王友安さん

 王玉才さんは1944年8月に藤永田造船所へ連行されました。死亡診断書では、44年12月1日「慢性(?一文字不鮮明)肺炎」により46歳で死亡となっています。
 王玉才さんには王孝書さんという足が少し不自由な息子がいました。44年民権県で日本軍は最初王孝書さんを連れて行こうとしました。足が不自由なまねをしていると、というのです。それで王玉才さんが「この子は足が悪いんだ。代わりに俺を捕まえろ」と息子の身代わりとなって連行されました。
 (2006年11月31日、安治川の遺族張忠杰さんの聞き取りによる王友安さんの証言)

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 証言の王友安さんは王孝書さんの息子、王玉才さんからいうと孫にあたります。遺族・王友安さんが見つかった経緯を、同じく藤永田の王道標さんの遺族・田景周さんが次のように教えてくれました。

 「高さんは友人に頼んで、『難友を探す』をいうチラシを印刷して貼って回ってもらいました。そのチラシを呂明訓と王玉才の家族が目にしたのです。彼らはすぐに自ら白雲寺まで高さんを訪ねて来ました。そして、彼らの肉親が日本人に連れ去られてからずっと何の便りもなかったので、自分たちは何も分からずにいたのだと、その訳を語りました。彼らには本当にこれまで何の知らせもなかったのです。」
            (06年12月28日の手紙)

 05年10月の追悼記念碑“彰往察来”除幕式から帰国した高文声さんは、その年の暮れから06年にかけて田景周さんと共に民権県内の藤永田の生存者・遺族調査に全力を注ぎます。高さんの記憶を頼りに田さんが各村を訪れ調べていきました。各人訪問に際し田さんも随分と苦労されたようです。そうした積み上げの中で06年6月12日“民権県労工聯誼会”を作ります。(正式には“中国河南省民権県被強[才虜]去日本労工聯誼会”)

 その後11月3〜5日に、より構成員を増やし“大阪藤永田被日本強[才虜]中国労工聯誼会”が結成されますが、当初の高文声さん、田景周さんらの積み上げによる“民権県労工聯誼会”なくしては不可能だったでしょう。

 昨年の追悼会の報告を初めて王友安さんに送りました。王友安さんから次のような返信がきました。

王友安さんからの手紙(クリックで手紙へ)
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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