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称名寺 珠光忌 2002.5.15
称名寺さんのHP http://www.eonet.ne.jp/~syomyoji/
(写真はクリックすると拡大されます)

学生の頃入っていた、サークルの茶道研究会では、お点前のほかに、茶道についての勉強会があった。そこで、初めて村田珠光を教えてもらった。わび茶の流れが、村田珠光→武野紹鴎→千利休と流れていったと勉強した。奈良女子大の近くに、この珠光ゆかりのお寺、称名寺があり、一度訪ねてみたいと思っていた。普段は予約なしの一般公開はしていないようで、特に年1回5月に珠光忌というのがあり、その時お茶室が公開されるとガイドブックに書いてあった。今年は、5月15日、村田珠光の命日に行われるということ、訪ねて見ると、偶然にも500回忌だった!
近鉄奈良から、やすらぎの道を奈良女子大のほうに向かうと、左に曲がるように書かれた石の標識があり、曲がるとすぐお寺らしきものが見えた。
お寺に入ると、ご住職が本堂の説明をしてくださった。ご本尊や、珠光の塑像を拝見し、ご焼香させて頂く。真ん中の、厨子の中は秘仏だそうで、ご住職自身も1回きりしか、見たことがないそう。
写真下右は、千体地蔵尊。戦国時代に松永久秀が奈良に多聞城を築城した際に、城壁用に石がなくて、お地蔵さんを集めて利用したとか。落城後に散乱していたものがここに集められたらしい。戦国時代って、なんでもありの、恐い時代だなー。お地蔵さんを石垣にするなんて、罰があたると思わなかったのかなあ・・・。後で、松永久秀をHP等で探すと、1567年に東大寺に火を放ち、織田信長に「大仏を焼いた男」と紹介されたそう。また、後に信長と戦い、「平蜘蛛」の茶釜を差し出すように言われたが、従わず、茶釜に爆薬を詰め爆死したのはこの人だった。
村田珠光についての説明(お寺で頂いたパンフレットより)

1422年、検校(けんぎょう:国語辞典で調べると、社寺内の事務を監督する僧侶のことらしい)村田杢市の子として現在の奈良市中御門町で生まれ、幼名を茂吉と称した。十一歳の時、出家して称名寺の僧となり、十八歳の時当寺の搭中法林庵に住したが、二十五歳の頃一旦還俗して世俗の生活を送った。その後三十歳の頃京都紫野の大徳寺に入り、参禅工風を重ねて茶禅一味の境地を開くに至る。その一心に徹する姿を良しとして、その師一休禅師(1394-1481)から宋経山円悟禅師の墨跡を授けられた。珠光が喫茶に礼式を興し、その名を天下に響ろかせるや、時の第八代将軍足利義政(1436-1490・銀閣寺建立)は珠光に就いて茶道を学び、六条堀川に庵を贈り珠光庵の扁額を授けた。珠光はここにおいて四畳半の座規や台子の法を定め、京都銀閣寺東求堂に代表される書院茶の華美に対して、真の茶道は質実にして敬と礼を重んずべきことを説き、詫び茶の基礎を確立した。この珠光が立てた礼式作法は、武野紹鴎(1505-1555)、千利休(1521-1591)を経て今日に伝わり、現存する各流儀のいづれもが村田珠光を以ってその祖としている。---
獨盧庵(珠光庵)

本堂をでて、獨盧庵(珠光庵)を、見学させて頂く。このお茶室は、珠光の時のものではなく、1704年に焼失し、その後再建されたが1762に再び火事に会い、1800年くらいに再興されたものらしい。ここで、先代ご住職より茶室の説明を受ける。写真下左から2枚目は、珠光の骨が収められているところ。つくばいの横には、珠光が水を汲んだといわれる、井戸があった。(写真右下)
前から少し聞いていたが、ここのお茶室は、3畳と4畳半に変えることができるという。話だけでは、何かぴんとこなかったが、実際に見せていただいて、びっくりした。

今日は、3畳と1畳半のところに敷居があるのだか、場合によってこの敷居を壁側に移動させ、4畳半にすることも。また、3畳の端に移動させ、そこに竹の柱を結合させ、壁襖(普通の襖ではなく、壁のようにみせたもの)や障子をつけて、全くの3畳として、使うことも出来るらしい。とりつけ可能な竹の柱の真ん中は、壁襖がうまくはまるよう、切り込みまであった。
このお寺は興福寺関係のお寺だったそうで、その昔興福寺の偉い方が来られた時には、3畳と1畳半にわけて、偉い方は3畳側の普通の建具の入った入り口からはいり、お供の人は1畳半側のにじり口から入り、横の障子から、お茶をいただいたそう。また、茶事の懐石料理の時には、4畳半でいただき、中立の後、柱、壁襖、障子をつけて3畳にして、お茶を頂くということも。部屋を壁襖で仕切ると、多分随分雰囲気が変わると思う。4畳半だと障子とにじり口が見えているが、3畳にすると、全く壁になってしまう。
また、良く知らないのでイメージがわかないけれど、11月の夕方に行われれる夜ばなしという趣向のお茶会では、この仕切られた1畳半にすわり、3畳のほうからもれてくる一筋の明かりを、障子をとおして楽しむらしい。全然古さを感じさせない、斬新な、からくり茶室だと思った。
その他の特徴としては、お床は洞どこになっていて、少し奥まっていた。天井は真行草の3種類。点前畳の壁のむこうには、しつけ棚がとりつけられていた。25坪のお茶室らしいが、草庵式で、屋根には竹が放射状に並んでいた。
お茶席見学の後、お薄のお茶を頂けるらしかった。晴れていれば野点の予定だったらしいが、今日はあいにくの雨で本堂内で行われていた。イメージとしては、喫茶店ふうにお茶とお菓子がでてくる感じかなと思っていたが、予想に反し、お茶席の感じで、ゆっくりお点前を拝見した。お客さんで和服姿の方もいて、皆さんは懐紙や扇子も持参されていた。今日はジーパンで来なくて、本当に良かった。私の席は、主客の方が、このお寺のことをよくご存知で、お茶の先生らしく、(この方は珠光庵での夜ばなしのお茶会にも度々参加されているそうな)、いろいろお弟子さん達に説明しているお話を横で聞いていて、興味深かった。お道具では、お茶杓、蓋置きはご珠光庵主作のもの。このお寺には珠光手植の竹林というのがあり、茶器の素材として愛用されているらしい。茶杓には、茶色の筋など入っていて、種類なのか、こんな竹がよくあるなと思った。茶杓の銘は「ほととぎす」。棗は珠光好みの赤い線が入っていて、蓋は竹の節が模様のようになっていた。正玄作。
久しぶりにお茶を頂いた時、まあ惜しげもなく、たくさんお茶が入っているな、と感じた。(こんなこと今まで感じたことがなかったのに・・・。)実際3回では、飲めきれなく、またもったいないような気がして、コーヒーでも飲むように、ちびちび飲んでしまった。庶民のお茶ですから、許して・・。

久しぶりに思いもよらず、お茶会に参加できて、とてもうれしかった。一般の人を受け入れてのお茶会は、いろいろ大変で敬遠されると思うのだが、ジーパンで行こうとしていた者にも、お茶が頂けるとは・・。珠光庵の説明をしてくださった先代ご住職は、ご自身も裏千家のお茶を教えているらしかった。先代ご住職やご住職が、珠光のイメージにだぶってしまう・・。
村田珠光。検校の子供で、一休さんに禅を学んでいたというのには、びっくり。
また、広間のお茶室から4畳半のお茶室にして、無駄なものを取り除いたところもすごいですよね・・。
この人の「月も雲間なきには、いやにて候」とか「藁屋に名馬をつなぎたるがよし」とかいう言葉も勉強したことを思い出してきた。