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私は子供の頃から演芸好きでテレビで演芸番組をよく見ていた少年でした。
その頃、親が外食でよく連れて行ってくれたのが大阪ミナミで、道頓堀の角座の前をよく通っていました。角座には芸人さんのパネルが沢山飾ってあり、私は『テレビで見る人をここに来たら本当に見られるのかなー?』と興味が湧いて来て、中学1年のゴールデンウィークに、ためたお小遣いで待望の角座に行くことが出来ました。
その時、テケツ(入り口)では当日のプログラムと一緒に、月末の日曜日に行われる『角座精進落語会』の催しのチラシが配られていて、故春蝶師や鶴光兄さんというテレビの人気者の名前が書いてあり是非見てみたい!と思い、またまた月末に出かけて行きました。(その時は正直うちの師匠の事は・・あまり知りませんでした・・・)
その日は超満席のお客さんです。中入り後、鶴光兄さんの『手水廻し』で爆笑その後、黒紋付を着た恐い顔のうちの師匠の登場でネタは『らくだ』で45分の大熱演をされ、割れんばかりの拍手を見てそのド迫力とパワーに感激し、落語の大ファンになってしまいました。
それからは落語のレコードやテープを聴き、中学3年の6月、憧れの師匠にお会いすることが出来て弟子入りを申し込みました。
初めてお会いした時の師匠はとても優しかったです。制服姿の私に『兄ちゃん高校だけは出とかなあかんで!
噺家てな食われへんで!だいたいうち来たらもっと年上の兄ちゃんらもボロクソに怒られてるし・・・それでよかったら学校の休みの時におっちゃんとこ来るか!』と言われ、中学生の私は生活の事も何も考えていないので、
喜んで『はい!』と即答し、次の日曜日から通わせて頂くことになりました。師匠は中学生だから途中で気が変わるだろうと思われてすんなりOKしてくれたのだと思います。親もさほど反対はしなかったです。師匠のお家へ行かせてもらうと最初にお会いした時とは違い、メチャメチャ恐い師匠でした。『あれ取ってくれ』と何かモノを指差して言われ、カンの悪い私は別のものを取り、師匠に『違うがな!』と大きな声で怒鳴られ、ビックリして持っていたものをひっくり返し、師匠と奥さんに大笑いされた事がありました。
名前を貰ったのは*高校1年の時、師匠が『先に名前やる』と言われ『「つるじ」や!鶴に二ちゅうのがあるけど、学生やから二ではおもろない・・・
お前まだ子供やから「児」にしとこ』と言われ『鶴児』という名前を頂きました。名前を頂くとすぐに師匠が『お前なんぞ出来るやろ。
若手会に出え!」と言われ『何にも出来ません・・・』『情けない!お前落語ファンで入ってきたんと違うんか・・ 何か早よ覚えー』と怒られ大急ぎでテープで『平林(たいらばやし)』を暗記しましたが、本番で緊張してムチャクチャになったのを覚えています。
それから学校の休みの日は、ずっと師匠のお家へ通わせてもらい、高校を卒業して正式に入門させて頂きましたがその後、すぐに病魔に襲われ半年後にお亡くなりになりました。それからは兄弟子達と奥さんのところで師匠の1周忌までいさせて頂きました。
兄弟子や他の一門の師匠にも沢山お稽古を付けてもらい、中でも亡き7代目松鶴(松葉兄さん)には10本お稽古をして頂きました。師匠の奥さんには三味線を教えてもらっていたのですが途中で体調を崩され、現染丸師匠のところにもしばらくお稽古に通わせてもらいました。
修行時代は何をしても物覚えが悪かった私は、師匠にはよく怒られました・・・ 今も物覚えの方は・・相変わらずですが・・・まったりとした舞台を勤められる様に日々精進していきますので今後共、皆様ご声援よろしくお願いいたします。鶴二
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