「木の文明」単元の構想案

森川正彦(法則化中学太子サークル)

1.単元の主張
 
 日本の伝統的な工具に込められた職人の知恵と技を知る。日本の伝統文化を誇りに思うとともに、これらの技術を未来にどうつないでいくかを考える。

2.単元について

(1)石の文明と木の文明
 西洋の「石の文明」に対して、日本は「木の文明」と言われる。
 日本書紀の中に、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が言ったとされる言葉が残されている。

 杉とくすのき、この両樹は舟にせよ。桧は美しい宮殿を作る材料にしなさい。槙は人々が奥城(墓)に臥す棺材にしなさい。

 これらの史料からも、古来より日本は森林資源に恵まれ、豊かな「木の文化」を育んできたことが分かる。
 有史以来、明治になるまで、日本人は主な建造物をすべて木で作ってきた。その中で多種多様の木工具が発達してきた。今回はその中の「鉋(かんな)」と鉋以前に使われていた「槍鉋(やりがんな)」を取り上げる。

(2)道具に見る日本と西洋の違い
 日本の鉋と、西洋の鉋を比べた時に、その違いが道具の形の違いとなって現れている。 西洋の鉋には
 @押して削るように作られている
 A持ち手(グリップ)がある
という特徴がある。
 西洋で多く使われている材は「オーク(樫)」である。広葉樹であるオークは木目が詰まっており、堅い木である。こういった木材を削るためには、力を入れやすい、「押し削り」が効率的である。また、持ちやすい取っ手をつけるのも合理的である。
 作られる製品、特に家具などは、「石の文化」と調和するように、表面はきれいに塗装された仕上げとなる。
 朝鮮半島や中国では松が多く使われ、同じように鉋は押して使い、取っ手もついている。
 一方、日本の鉋の特徴は「引いて削る」ということである。世界的に見てもこの使い方は大変珍しい。
 日本でも鉋は押して使う時代があったらしい。「ツキガンナ」という道具名が残されている。しかし、大陸から鉋が伝わってそれほど時間が経たないうちに、日本人は鉋を引いて使うようになった。それと時期を同じくして、中国の鉋についていた「持ち手」が無くなり、日本の鉋はまっすぐな平面を持った現在のような形になった。
 日本には「檜」「杉」という木目がきれいに通った木材(針葉樹)が豊富に産出されていた。
 日本ではこれらの材をきれいに削り、塗装をせずに「白木仕上げ」として使ってきた。日本人は白木に対して「清浄なもの」というイメージを持っているが、これも檜があってこそのものだと考えられる。
 比較的柔らかいこれらの材の表面を美しく削るには、切れ味の鋭い刃物が必要となる。
 日本には日本刀に代表される、素晴らしい刃物を作る技術もあった。
 研ぎ上げた繊細な刃物を使って、日本の大工は白木の表面を鏡のように削ることに力を注ぐようになった。外国のように力任せに削るのではなく、精密に引いて削るように鉋を改良していったと考えられる。
 同じく外国では押して使うのに、日本では引いて使う道具に「鋸(のこぎり)」がある。のこぎりの持ち手も海外ではグリップがついているものが多いのに対して、日本の持ち手は一本の真っ直ぐな棒である。持ちやすさよりも、指先の感覚を大事にしたのだろうか?ここにも職人の気質に根ざした、日本独自の文化の特徴ががあるのではないかと考える。

(3)日本の木工技術の変遷
 日本はその風土的な特徴により、豊かな森林資源を持っていた。その中でも「檜」は最高のものとされており、神社など重要な建造物には檜が使われた。ちなみにヒノキの「ヒ」は「日」つまり「最高のもの」を表しているという説もある。(火をおこすために使われたから火の木、という説もある)
 檜は日本の他には近い種のものが台湾にあるのみである。
これらの木目の通った針葉樹を豊富に使えた日本では、古来より楔(くさび)により木目に沿って割る「打割」という方法で木材は製材されてきた。
 割って製材された木材は、その後「ちょうな」で荒削りをし、「やりがんな」で表面を削って、板や柱として使われてきた。
 鎌倉時代に縦引きののこぎりが日本でも使われるようになった。
 手近にあった檜が不足し、松(まつ)や欅(けやき)などが建造物に使われ始めた。これら割って製材できない木材を使うためには、縦引きの製材用の大鋸(おが)という鋸を使い、木目に関係なく切断する必要が出てきた。
 鋸で製材した板の表面は平滑である。やりがんなでは削りにくい。こういった状況の中でかんな(台鉋)が使われるようになった。 室町時代にはやりがんなは姿を消していったと考えられている。
 台鉋が使われるようになって、加工の精度は格段に向上した。

(4)精度を高めた台鉋
 日光東照宮に国宝の眠り猫という彫刻がある。これを彫った左甚五郎には次のような伝説が残されている。
 自分を雇ってくれと棟梁に頼みにいった甚五郎は「腕を見せろ」といった親方に「俺が鉋で削った二枚の板をぴったり合わせて水の中にいれて、板が少しでも濡れていたら代金はいらない」と言ったという。甚五郎が削った二枚の板は、ぴったり貼りつきはがれなかったと伝えられている。
 優秀な大工が削った時の「鉋の削り屑」の厚さは「3ミクロン」にもなるという。
現在の技術では、0.1mm単位で木材を削れる機械を作ることも出来るが、削るたびに木材の表面は乾き、収縮してわずかだが狂いを生じるという。

(5)木を自然のままに使う
 過去の技術となった「打ち割り法」だが、構造学的に見て優れた面もある。
 鋸では木材の木目を無視して製材してしまうのに対して、打ち割り法では木目に沿って柱を作ることになる。木目が曲がっている木はその方向に沿って製材されるので、木材の持っている強度を十分に発揮させることになる。
 法隆寺の宮大工を務めていた西岡家には次のような口伝が残されている。

 木を買うな 山を買え

 山にはいろんな性質を持った木が混在している。右に捻れている柱と左に捻れている柱を組み合わせ、木の持っている本来の力を十分に発揮させ、建物全体で強度を増すという考え方である。
 一つひとつの部材を見ると不揃いでも、全体をみると調和が取れている。過去の日本人は「木の性質を見抜き、自然のままに使う」高い技術力を持ち、優れた文化遺産としての建造物を我々に残してくれた。

(6)法隆寺宮大工「西岡常一」
 歴史の中に埋もれ姿を消した槍鉋(やりがんな)であるが、それを復活させた人がいる。
法隆寺の宮大工である西岡常一氏である。
 やりがんなを使って仕上げた表面には、小さな波形の跡が残る。
 こういった微妙なカーブの仕上げが、法隆寺の柱を優しい曲線に仕上げるのだと西岡氏は言っている。
 また、西岡氏は機械で削った檜と、やりがんなで削った檜を、雨の当たるところに置いておくという実験をした。実験の結果、機械で削った檜は微妙に表面がささくれ立っており、壊された細胞の間から雨水が染みこみ一週間も経たないうちにカビが生えたそうである。一方、やりがんなで削った檜は、木の細胞を壊さずに削れているので、水をはじき、内部まで水がしみこまないことを確かめた。やりがんなを使うことにより木の寿命が伸びることも確認された。
 西岡氏は常々このように語っている。

 樹齢千年の檜は、大工の技と知恵で、建物になっても千年は持ちますのや。

 そのためにもやりがんなの復元は西岡氏にとって大切なことだったのである。
 西岡氏がやりがんなの復元に取り組んだ中で、大きな問題が2つあった。    
 1つ目は、やりがんなの現物が残ってなかったことである。道具というものは美術品ではない。いい道具ほど、どんどん使われて、やがて使えなくなるという運命を持っている。唯一奈良の正倉院に儀礼用に使われたと考えられるやりがんなが残っていた。西岡氏は絵巻物に描かれた絵や、法隆寺に残された刃の跡からやりがんなの形や大きさを推定していった。
 2つ目の問題は、試作品の刃が切れなかったということである。刀鍛冶とも相談した西岡氏は、その原因を「現在の鉄の質」にあると考えた。日本には古来「玉鋼」という質のよい鋼が生産されていたが、刀鍛冶によると、中世を境にその鋼の質が落ちていっている。特に近代的な大規模な製鉄の中では、刀鍛冶の求める鋼は手に入りにくいとされている。
 ここで西岡氏が準備したのは「法隆寺に残された飛鳥時代の和釘」であった。これにより満足のいく切れ味のやりがんなが完成した。

(7)伝統技術の発掘と再生
 技術が進歩する中で消えていった古い技術もある。
 しかし、ここで述べてきたように古い技術の中にも新しい技術以上に優れたものもある。そういった技術を再生し、未来につなげていく、そういった視点も必要とされている。
 森村誠一氏の「小説道場」に次のような文がある。

 単なる発掘でなく、現代への再生である。発掘と再生はどこが違うか。再生された過去は、必ず現代の光が当たっていなければならない。

 そういったテーマで本単元を展開した。

3.単元の計画

 新しい学習指導要領(中学校・技術家庭科)解説から引用する。

 ものづくりを支える能力を育成する観点から,実践的・体験的な学習活動を通して,工夫して製作することの喜びや緻密さへのこだわりを体験させるとともに,これらに関連した職業についての理解を深めることにも配慮する。

 授業において、体験させる前に必要なのは、動機付けである。先人の知恵や工夫を知ることにより、その後の学習活動が一層意欲的に展開できると考えている。
 向山・小森型理科 プレ大会で、TOSS代表向山洋一氏から、四つの大きな目標が示された。

 @理科教師は国の根幹を支える気概を持たなければならない。
 A日本国の根幹はものづくり、科学技術立国であることを再認識せよ。
 B理科は感動だ!日本人のものづくりの歴史と感動の物語を伝えよ。
 C理科好きの子を育てる。


 技術科においても、この四つの目標を念頭に置いて、単元を組み立てる。
 木材加工を中心とした「ものづくり」の授業を「日本=木の文明」というテーマで貫いた単元構成を考えた。

(1)森の文明を持つ日本
 ・豊かな森林資源を背景に日本独自の発展を遂げた。
 ・三内丸山遺跡(直径1m 高さ17mの柱)
 ・出雲大社(高さ48m 36mの柱 100mの階段)
 ・東大寺大仏殿(30mの柱を84本使用)
 ・最古の木造建築法隆寺

(2)木材の性質・特徴
 ・室町時代まで木は割って製材していた。
 ・木の癖を活かした構造物を作ってきた。
 ・桶は柾目、樽は板目材を使う
 ・縦引きの「大鋸」が生んだ功罪。
 ・千年もつ寺社を建てために槍鉋が復元された。《中学関西セミナー2009で提案》
(3)道具の素晴らしさと職人の技
 ・さしがねに秘められた知恵とは。
   《中学関西セミナー2006で提案》
 ・玄翁、曲面を使った木殺しの工夫。
 ・日本の鉋はなぜ引いて使うようになったのか。《JAPAN2008美技家分科会で提案》
 ・機械には真似の出来ない手仕事の素晴らしさ。

(4)技能を伝えるシステム
 ・鉄をつくる技術が一番進んでいたのは鎌倉時代である。
 ・鎌倉時代の規矩術は失われてしまった。
 ・古い技術は何代にもわたって確認されてきた安定した技術である。
 ・伊勢神宮の20年ごとの遷宮(習う→造る→伝える)

(5)伝統技術と新しい技術のドッキング。
 ・木材の自給率は20%以下になった。
 ・過去も森林は荒廃した。そのたびに新しい技術が生まれた。
 ・海外への技術援助。(ヘルプよりサポート)巨大な発電所より水車を作る。

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