2004/01/14
行ってきました「オノ・ヨーコ」展
 行ってきました、水戸まで。遠かったよ。ほんまに。全部バスだよ。安かったけどつかれたよ・・・。
 で、まあ体力的なことは置いといてー、良かったです。オノヨーコさんの作品は前から気になる作品群だったのだけれど、NYで列車の作品(弾丸で打ち抜かれた列車)を見てから、実物をもっと見たいなーと思っていたら、やってきました水戸に。喜び勇んでいってきました。
 感想は「いい感じ、学ぶことがたくさんあった」でした。電話の作品(会場内の電話にときどきオノヨーコさんから電話があるかも・・・と設置されれいる)はただの普通の電話があるだけなんだけど、なんとなくその前に立つと緊張してしまう。その他の作品も何かが自分の中で動く気がした。作品ってこういうことなんだろうなーと痛感しました。自己満足でもいけないし、他人を気にし過ぎてもいけない微妙な中で、自分というものがあり、そこに戦略として鑑賞者が考慮されている。なんか絶妙感がありました。あの「鑑賞者に対する絶妙なアプローチ」はなんなんだろうね。ほんまに。水戸まで行く価値は十分にあった。作品を鑑賞して悔しさもあったがそれ以上に心地よさがあった。林檎の作品(林檎が提示してあって何をしてもいいという作品)では、思わず食べちゃいました。ワックスぬるぬるで気持ち悪かったけど、食べました。その場所にもう一回帰ってきたら、もっと食べてる人がいて悔しかったが、皆をこんな気持ちにさせる作品って素敵だよね。それを許す水戸芸術館も素晴らしい。

 で、話は変わり、そこで偶然関西での知り合いに会いました。びっくり仰天。まあ、見に来る人はいるとは思うが、こんなところで再開なんてね。この人は先日の15人展をご一緒させていただいた人です。まあ気になる人は、想像をめぐらしてみてください。・・・いいものには人が集まるもんだなー。うわさでは巡回するらしいので、そのときはまた行こうと思います。

 で、森美術館のハピネス展にも行ってきましたが、その報告はまた気が向いたらってことで。六本木ヒルズの夜景は良かったよ。これが一人じゃなけりゃもっと良かった。周りを見渡して少し悲しくなりました。一人なの俺だけだもん。

 

2004/01/03
あけましておめでとうございます
 新年があけました。皆さんいかがお過ごしでしょうか?私はいつもどおりのらりくらりと生きています。でつい先日直島にぶらりと足を運び、完成した家プロジェクトなどを見てきました。
そこでひとつ感じたことがあります。それは

 「直島いいとこ、一度は行ってみて」

ほんといいところでした。マジで。とにかく鑑賞空間が良い。自然と調和していると思います。具体的な内容は避けますが、しゃれも効いている。風景と展示作品が・・・。という感じ。それとご飯がうまい。皆さん、食べるなら夕食も朝食も和食です。瀬戸内をみんなで食らいましょう。それと、とまるところがテント・パオ・ホテルとあるんですが、ホテルがいいよ。オーシャンビューがほんとにいい感じ。夏ならパオでもいいかも・・・。でも、ホテルがいい。建築も安藤さんが作っているので、歩いているだけで良しです。大手のリッチなホテルより好きです。今回は一泊しかしていないけど、今度は二泊ぐらいしたいよ。
 まあミーハーに喜んでしまいました。けど、あのような試みはいいと思います。現代美術のある空間が、納得できます。かなり人気沸騰らしいので、予約は早めにしないとだめだけれど、計画立てて皆さん行ってください。ああ、それと家プロジェクト鑑賞ツアーには参加したほうが良いです。1000円なんですが、ツアーに参加しないと見れない作品があるんです。直島まで行って、あれを全部見ることができないとなると、悲惨ですね。気をつけてください。少しの出し惜しみが、悲惨な結末を生みます。

てなことで、今年もよろしくお願いします。

 

2003/10/19
今日は搬出、みんなに風邪をうつした様子
  今日は搬出でしたが、皆さんから続々と「お前からうつされた」という報告を受けることになりました。それ以外にも、この一週間で接触を持った人が、風邪をひいているなどかなり広範囲に風邪の菌を撒き散らしたみたいです。皆さん本当にすいません。しかし、私もまだ頭左半分はいたいのです。ぜんぜん治っていません。こんなことでよいのだろうか。ああ、それとうがいはやはり素晴らしいです。せっせと皆さんうがいをしましょうね。ひいてからもとても効き目があります。製薬会社の回し者ではありませんが、イソジンでうがいするのが一番です。

 そんなことばかりを書くのではなく、作品のことについて書きます。今回は犬仮面の展示をしていたのですが、その展示内容の中の「バッチ」がかなり人気がありました。私もかなりびっくりしましたが、うそみたいにありました。皆さんありがとうございました。で、なぜ人気が出たのだろうか・・・ということを考えていました。それは、やはりラブリーだったのだなと思います。人によっては癒し系なる評価をいただきました。ほんまかいな・・・と思われそうですが、真実です。本当に皆さんありがとうございました。

 前回から続いているこの「15人」は非常に面白い面子であります。前回もそうだったのだけれど、15人いても不思議と統一感が出ます。これが本当に不思議と出るんです。しかし、作品に個性がないかと言われるとそうでもないんです。個々の作品はきっちりと主張しています。しかし、会場全体は15人いても破綻はしないのです。なぜなのだろう。これは多分私の推測ですが、全員がある一定の安定感を持っているからではないかと考えています。つまり「変に乱す人がいない」ということではないでしょうか。これは良い意味で使っています。よくギャラリーでグループ展を見かけますが、ひどいものが多いです。グループ展だからといって手を完全に抜いていたり、本当にばらばらだったりとしんどいものが多いのです。これがよく私が言う「混ぜご飯状態」です。これまではグループ展はこの状況になるしかないのではないかなと感じていたのですが、どうもやる面子によっては違うようです。こんな感じで書くと「自分で自分をほめて演出する」ような印象を与えてしまうのですが、これは本当にそうではありません。子のグループ展が始まるまで「絶対に展示はうまくいかないはず。」と私は考えていましたから。展示責任者として今回は「打つ手なし」状態に近かったのですが、なんとなく収まって行きました。本当に神がかり的です。そんな感じでグループ展が終了したわけですが、多分好評だったと思います。また機会があったらこの15人と出会ってみてください。

 

 

2003/10/11
今日は搬入、しかし風邪引き

 こんにちは、風邪を引いてしまいました。最悪です。腰がかなり痛みますが、多分熱のせいです。
 風邪はいやだなあ。今日の搬入も頭が働いているのか、寝ちゃっているのかあまりわからん状態で搬入していました。皆さん、本当に戦力になれなくてすいませんでした。
 で、展覧会自体はなんとかおさまりました。詰め過ぎず少なすぎずといった感じではないでしょうか。いい展覧会になっていると思います。よかったよかった。
 ビタミンCでも大量に取ってもう寝ます。皆さん見に来てくださいね。それでは。

 

2003/09/28
ひさしぶりに書きます

 おひさしぶりです。このHPも作ってからかなりたちますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?私は元気に仕事や制作に打ち込んでいます。皆さんも季節の変わり目ですので、お体に気をつけてください。
 けど、そんなことを話すために書いたのではなくて、今回は作品についての話です。私が「犬仮面」なぞやっていることは過去の作品を知っている人は少しびっくりものかも知れません。三田でやったときは、あまり過去の私を知らない人がよく見てくれたのでそんなにショックはなかったようですが、私にとっては自分がびっくりでした。だいぶ前の私しか知らん人もびっくりだとおもいます。
 なぜあんなことをやったのかというのは「作品」っていったい何よ、作品ってどういうことを訴えればいいのよ・・・と疑問に思ったからといえばありきたりですが、実は単に「やってみたかった」というのが真実です。そのやってみたかったとは「純粋にインパクトと味で勝負するような作品がしたい。あまり難しく考えないで地域に還元できるような作品がしたい。」ということです。
 では、なぜあれが地域還元なのかというと「思い出」「ショック」ということです。普通の生活をしていればあんなものに出会う機会は皆無に等しいし、普段にやったら「変態」になってしまい鑑賞者の心には届かないとおもいますが、祭りという狂気の状態であれに出会うと不思議と許せてしまうものです。許せるだけでなく積極的に受け入れることもできるはずです。その出会いという経験がひつようがよいのです。あの作品に出会った人はどんな内容であれ、翌日学校や会社その他その人が属しているコミュニティで話題に上げるでしょう。そこで活気が生まれ、いろんな関係やイベントに発展してゆくのではないでしょうか。芸術にはそういう地域還元のあり方もありだと思うのです。平たく言ってしまえば話題提供なのですが、そんな単純なことが大切だと思うのです。なんにしろその経験は心に響いたなら、何かの思い出となりこの人と人のつながりの薄い中で少しでも、関係の強化に役立てるはずです。
 まあ、そんなことも考えているのですが、実際はどうなんでしょうね。悩むところですな。
 これは私の考えですが作品はなんの分野にしろ「何かのきっかけ」にならなくてはいけないと思います。それが会話であり思考であり転機でありいろいろなもののきっかけです。
 私の作品がそのようなきっかけになればうれしく思います。

 

2002/11/20
シリーズ化ということの意味
 美術家はなぜ、自分の作品をシリーズ化してしまうのであろうかと、ふと考えた。そこには精神的な防御機能が実は働いているのではないだろうか。
 創造ということは、とてもエネルギーが要ります。まあ、この言葉を使うととても神秘的な意味合いが強くなりすぎてしまう(この言葉自体に信仰の対象のようなことが存在するから)ので、あまり好きな言葉ではないのですが、造り出すという意味で使います。ああ、話がそれましたね。で、失敗もあったりしますが、とにかくエネルギーをかなり消費するので自分の中に力が充満していないと難しいことですね。この、消費エネルギー量と関係があるのかなーという気がします。たいがいの場合、ゼロから始めようとすると失敗します。失敗すると使ったエネルギーの代価(造ったという満足感と感動)がなくなります。すると人間は、精神的にダメージを受けます。しかし、避けて通れる問題ではないので造る側の人間なら誰でも「ゼロから作る」といったことを経験するはずです。そのときにかなりの「生みの苦しみ」を味わいます。時にはそれは成功します(自分の達成感や満足感を充足させるレベルに達したということ)。そして、それをベースとして作品を多数作ります。この「多数作る意味」は、特にないと思うのです。しかし、もっとこの表現を追及するという名目で作りつづけます。その間に、作者はこのベースを基に工夫を上乗せしていくわけですから、自分の作品の満足するハードルが高くなって行きます。さて、その表現に飽きたとします。作風を変えて造ろうとします。上手くいきません。痛みます。落ち込みます。元気があったら再チャレンジです。・・・というような流れってないですかね。
 話がどんどん論点をはずしていってしまいそうですが、このベースを基に積むからこそ、少ないエネルギー消費で安全圏のレベルの作品が作れるのではないでしょうか?しかし、それは別に怠けてるとかではないと思います。いわゆる、精神の休息期間みたいなものです。また、そこから学ぶものもあるかもしれませんが・・・。まあ、私にとってだけかもしれませんが満足感と達成感が付随していないと、精神がかなりのダメージを受けるのですね。だから、シリーズ化したりしてたんですが・・・そこになんともいえない罪悪感もありました。が、今はそんなことは罪悪ではなく、そういうものではないかなと思います。こうしないと、精神が持たない。精神に負担がかかりすぎて、発狂してしまいます。
 無意識か意識的かはわかりませんが、こういうようなことはあるかと思います。精神的な治療の分野では「絵画表現を通して、無意識の自分に気付き精神的な治療が促される」というようなことがあるみたいですが、美術家のこのようなことにも一種の癒しのような効用があるかもしれませんね。それは本人が自覚してすることなのだろうけど、多分勝手にそうなるもんなんですよ。シリーズ化もそう見れば、こっち側の意見なんですが、多分精神の癒しや休養なのです。それがあり、また今の表現に飽きが来て、その飽きを我慢しているようなことのほうが精神的な負担が大きくなってくると、そのときにまたその状態を改善するべく、新しい表現や創造を企てます。かなり、消極的な意見になりますが創造なんてものは、美術家の人生の中にそうあるものではないのだと思います。だから、同じようなものをたくさん造っている人は、決して怠け者ではないのです。
 新しいことを創造すること、新しいことを処理する能力、それに生じる精神のダメージと報酬、自分の満足のハードルと実際作ったものとの差、これらのバランスをとらないと、多分作り続けることは無理なんだろうなー・・・精神的な報酬がゼロの場合の、創造なんて土台無茶です。だから達成感と満足感は準備しておかないとだめなのです。満足するまでする、考える、練るということはほんとのところ、精神には健康的なことなんでしょうね(けど、エネルギーは消費する)。そして、なんとなく作った物のほうが、精神的には悪い影響があるのでは・・・。そして、その報酬を得るために最短でしかも精神に負担をかけない方法がシリーズ化なのでしょうか。書きすぎましたが、そんなことを今はボーっと考えています・・・。

 

 

2002/10/26
リアルな書籍たち

こんばんわ。この日記ももうかなり続いていますが、読んでる人いるんでしょうか?
かなり自己中心的なことを悶々と書いているので、自分でも「これでいいのか・・・」と考えてしまうことも多々あります。
で今日は書籍でも紹介しましょう。最近読んだいい本についてです。

 一番よかったものは、「認知障害者の心の風景 著:R・キャンベル 訳:本多仁視」ですかねー。別に障害児教育がどうたら・・・という本ではありません。症例研究の報告書みたいなもんです。これが結構興味深い。単純に自分が見ている風景や物事に疑惑を感じてしまいます。どういう機能(モジュール)がないと、どういうことになるのか?こういうシステムが人間の中で働いているのではないか?人間の認知過程をかなり科学的に書いてあります。認知心理学に興味のある方は一度呼んで見ると良いかなーと思います。専門書でありながら、一般の人にも優しく読めるいいものです。自分の能力についてもかなり深刻に考えてしまいます。しかし、人間に無限の可能性があると信じてやまない方にはお勧めできません。脳の可塑性と補完性についても触れられていますから、もしかすると鬱になってしまうかもしれませんし、多分心には響きません。自分をできるだけ客観的に他人のように見れるか、自分の能力の限界を冷静に判断できる人は読んでも大丈夫だと思います。とか言ってる私は、少し憂鬱な気分になりましたけど・・・。

 二番目は、今読んでる最中ですが「はじめにイメージありき 著:木村重信」です。これは原始美術に関しての考察が主の作品ですが、美術の生まれたわけや人類の知的発達過程と美術の相関関係が少し見えてきます。かなりのスペースを事例の研究にさいておられますが、美術って何なのよ?という問いにかなり良い知識を与えてくれます。古い本なので、古本検索(EasySeek)で探すと多分激安で手に入ります。私は200円で買いました。これを読むかぎり、やはり美術は道具です。言葉より意味の内容に直結する記号です。それの割り切りに少し自分の役に立ちました。

 この種の書籍から私が感じたのは、「感覚や感性を表現するのが美術なのではなく、感覚や感性に影響を及ぼしやすい特性をもつ道具として美術というものがある」と言う意見です。言葉で考えることに慣れきってしまった私達ですが、そうではなく言語とは違う種類の記号であるものとしてあるから意味があるし、そういうものであると感じます。言葉で思考するという方法論が今の私達を作っているという事実や恩恵は膨大な量として、我々の中にあるのですが、美術的な言語は言語とは違う認識経路をたどり、かなり直接的な記号として機能します。それを文字を書くよりも膨大な時間を費やし作るということが、我々のやっていることだと感じます。だから、言語で考えながらその限界の隙間に出会い、その隙間から美術的な言語を垣間見て、それをつまみ出すかそこで止まるかということが、作ることなのではないでしょうか?言語に関連付けられていない知識はすぐに忘れ去られてしまいますが、そこを忘れないようにコツコツやっていくことが、言語の領域(境界)から一歩だけ外に出て行くということになるのでしょうか。

 えらそうなことをまた書いてますが、そんなことはまだまだできません。まだ私は、言語で頭が動いていないと考えることができないレベルです。だからそんな理論から演繹的な制作はまだできません。

 さて、そんなわけで皆さんはどう思われるのでしょうか?どうも思わないでしょうか?何か思い当たる節ががあるでしょうか?これを言語で書いている時点で矛盾があったりするのでしょうけど・・・。それでは、また皆さん。さようなら・・・

 

 

2002/09/23
科学と美術

 皆さんおひさしぶりです。採用試験も終わり、ゆったりしているかと思いきや、結果待ちで少し不安定になっています。
 で、そんなことはどうでもいいのですが。最近「科学と美術」についてよく考えます。何のことかといいますと「美術と科学は根本的に仲が悪そう・・」と考えています。実際は科学の発達が今の美術に役に立っていることは多々あります。例えば絵具、例えばパソコン、例えばビデオカメラ・・・言い出したらキリがありませんね。そう、技法や道具の面では非常にお世話になっています。科学者の皆さんありがとうございます。しかし、何かふに落ちない点があるのです。「ビデオができたからビデオ、パソコンができたからってパソコン、って安直すぎやしないですか?」ということです。根本的なところである主題はどうなっているのですか?と感じる今日この頃。美術自体が持っているはずの特性というのがいまいち感じられない。流行に流されているという感じさえある。映像だったらいいのかよ・・・ちょっと不思議な感じがすればいいのかよ・・・先取りすればいいのかよー!
 ああ、だんだん愚痴のようになってきました。ここらで少しブレーキを。一息つきます。
 
 芸術は「対人間のものである」と言うことが軽視されているようなねー、感じがするのね。いわゆる、鑑賞者不在の作品が多い。それに対してインタラクティブってのもあるけど、それも罠に近い。鑑賞者が操作できればいいんですか?それも参加だけどさー・・・。「対人間」と言うことは「対人間に対する影響・効果」を考える必要がある。表現方法が斬新とかにはあまり意味が無いようにかんじる。人間に与える効果が凄い、ということに主眼を置いてもよいのではないだろうか。けど、ここでいっていることは「感動」とかではない。あくまで「効果」です。精神面に関係するやつね。で、なにが言いたいのかといいますと「芸術が手を結ぶ科学の種類をもっと考えて見てはどうか」です。もっと考える余地があるはず。美術家は油断すると知らず知らずのうちに「独り言」のような作品を作りがちです。だから、ちゃんと鑑賞されるということを頭に入れて作んなきゃいけないと思うんですが、その頭に入れたとしてもそれが自分独自の経験に依存しすぎていたり、それを盲信していたりするのでは・・・。科学にはそんな人間の仕組みを研究している分野もあるのです。

 えらそうなこと散々書きましたが、このままでは美術は「たまにはアナログもいいね」とか「ああ、重箱の隅をつつくような道具の使い方してるね」や「変なことやってるけど、ただの変なことだね」など、生産性ゼロゾーンに入ってきます。写真機が発明された19世紀のように、もっと探ってはどうかと思います。美術なりの有意義さをね。だからといって、ステラのブラックペインティング方向に行く必要はすでにない。ああいう純化の方向は発展しない。美術を道具、人間を対象としてみた場合、美術といわれる分野が得意なことは何なのか、美術はどこまで効果を生む力を持っているのかという切り口ももうそろそろ必要な気がしてきます。カラーセラピーや基礎造形程度の文法的なお決まりごとで止まるのではなく、それらをさらに高次の段階での効果にまで発展させ、それらを駆使し組み合わせた結果、人間という構造をもつ動物にどのような反応を意図的に生むことができるのか。そのように考えると、作品一つで人間をどうにかしてしまう可能性をはらむメディアではないかと感じたりします。ここまでいうといいすぎですが、そのような技術を磨くことも、また意味があるのではないかなと思います。
 それではまた次回に・・・。

 

2002/08/02

智力で人を殴る

 最近は「智の力」の重要性についてよく考えます。「自分はあまりものを知らないなー」と痛感することが多いのです。よくよく考えてみると、自分がすることややろうとすることの中で「知っていればできること」と「訓練しないとできないこと」の比率を考えてみると、圧倒的に「知っていればできること」のほうが多い。また、訓練も「知っていなければならない」ことがたくさんある。それでなければ、無駄足を踏むことが多い。私の年齢でこんなこと言うのもなんですが、人生はことをなすには短い。特に、現代社会においては特に短い。だから、できるだけ効率よく自分を訓練する道を見つけなければならない。どの方向に自分を訓練したらよいかも決めなくてはいけない。と考えると、物事はしっかり知っておく必要があるのだと思う。とか言いつつも、毎日情報の多さに着いて行くだけで精一杯になっている私がいますが・・・

 自分の興味なんていうのも怪しいものである。自分がそんな風に思い込んでいるだけで、実際調べてみたら「あれ?こんなことなの?」なんて感じてしまうことも多々あります。自分が自分の周りを把握するために、膨大な想像で自分の知らないことをフォローしているかと思うと頭が痛くなりますね。それにすら気づきにくい始末です。ちょっと立ち止まって情報を吸収するのも長い目で見たらよいことなのかもしれません。国は「生涯学習」なんてこと言ってますが、そんな生易しいもんではない。世間とのいたちごっこに近い。また、歴史を振り返ると、文明というのは発展が進むと、加速度が増すようです。ということは、これからも加速度が増しながら発展してゆくのでしょう。そう考えるだけで、反吐が出そうになりますが、着いて行くしかないのだなと感じます。若しくは、自分についてこさせるか・・・。後者は今のところ非現実的ですが。

 しかしながら、人間自体はそんなにすばやく進化しません。文明の発達に比べたらゆっくりしたもんです。かなり。しかし、世相が「ついて行きなさい、さもないと・・・」というような強迫観念を自分に押し付けてくるので、やるしかないんですな。このバランスももうすぐ限界がくるんじゃないかな?話が少しずれましたが、そんな世の中なので「力が強い」ことより、「多くのことを知り、分析できる」人間が社会的に強くなります。なぜなら、暴力は法律でしっかり否定されているし、「無知は恥ずかしいこと」という世の中になっているからです。昔の人々が競って身体を鍛えたように、自分の知力を磨かなくてはなりません。もう、今は「智力」を使ったサバイバル戦争なのです。昔もそうといえばそうなんだけど、比重が今のほうが大きい。かなり。世間では「癒し」とか「ゆとり」とか言ってますが、そんなぬるい世界じゃないですよね現実は。本当の今は、実は個人の力によるサバイバル戦争なんだなーと痛感します。

 こんな世の中なんで、お題にも書いた「智力で人を殴る」ほうが「腕力で人を殴る」より、痛くて深いダメージを与えられるのであろうなと・・・。殴り方によっては、存在価値を根本から刈り取るようなダメージを与えることが可能です。怖い世の中です。しかし、武道と同じく「私は人を傷つけるために修行しているのではない」なんて感じになると良いですよね。今はそんな人がほとんどでしょうけど。しかしその力の存在は認識しておく必要があるのではないでしょうか・・・。これからの時代「強い人間」とはいかなる人種なんでしょうかね。

 

2002/07/23
今、個展中です

 久しぶりの書き込みです。何を書こうかなー。てなわけで、個展のことを書きますね。
今は、個展中なので会場に居て結構いろいろ考えてしまいます。会場に居ると、いろいろな人がやってきて、いろいろな意見を言ってくれます。うーん、勉強になるなー・・・と考えながらも、自分が何をしたかったのか考え直してしまいますね。実際作っていたときは、結構はっきりしていたのだけど、実際展示するときは「できるだけかっこよくなるように・・・」とばかり気をつかいます。人間必至になったときは「とりあえず、最低体裁だけは・・・」と考えるんでしょうね。実際は作り始めるときから、すでに決まっていることなんですけどね。けど、やっぱりいろいろ余計なことを考えてしまうんだよなー。それが人間ってやつですかね。
 前回と同じく、今回もインスタレーションなんですが、こういう分野に入ってくると、簡単に鑑賞者を煙にまけません。まあ、まく気も無いのですがね。作品の形態に対しても、発言の内容に対しても、いろ いろと厳しい意見が出てきます。私の作品は結構わかりやすい形態をとるので、びしびし意見がやってきます。良いことですがね。
 わかりやすい作品というのは、自分にとって逃げ道が無く、それで「ええやないか、うん」というのは非常に厳しい道のりだと思います。うん。実際そうです。うんうん。
 だからといって「わかりやすい作品万歳」というわけでは無いのよ、みんなわかってね。しかし、煙にまいてしまえば楽だし、自分のお決まりのパターンを作ってしまえばそれが市民権を持ってしまうので「あの人はこれね」となってしまい、意見を出しようにも出せない。それは、自分にとってはあまりよろしくない。第一、あまり作ってて面白くない。ある作家が言っておられたのですが「自分はやりたいことを、やりたいようにやってきたよ。自分が何をしたって自分の責任だし、誰も自分のことに責任を持ってくれない。だから、自分のやりたいことを素直にやるようにしないと、やってる意味が無い。」という感じでした。私もその意見に賛同です。こういうものはやってて面白くないとねー。また、こんなことを言っていると「甘いんだバカヤロー!」なんて言われてしまいそうですが。そして、私はまだどちらかといえば若いし、自分にまだ作家としての価値もあまり無い(資本主義の中でってことね)。将来価値が出るかどうかわかんないですが、若いうちからあまり自分のやることを決め付けすぎず、いろいろなことをしてみようと思っています。だから、これから「こいつ気が狂ってんじゃねーの?」とか「なんか、きちゃってるなー」とか、感じてしまうかもしれませんが、当の本人はいたって普通だったりするので、安心してください。だから、バンバン意見ください。自殺したりしませんから。
 個展をしてて最後に一言「美術万歳!美術に栄光あれ!美術はまだまだいろんな可能性があって、文化として復興できるんだ!」てな感じでしょうかねー。

 

2002/04/29
美術表現と根拠
 個展も近づいてきたせいか、表現とは何ぞやということをいつにも増して考える毎日であります。そのときに「自分の表現内容は正しいのか?」ということをよく考えます。これは私の「美術は仮説であるべきだ」という考え方から来るものです。美術表現はあまり根拠というものを必要としません。それがたとえ「分析的な考察に基づく作品」だったとしてもです。もし根拠を発表したとしても、それすら「表現活動の一部」となります。他の学会などは発表するにあたり、明確な根拠となる実験や調査を重ね、納得させるだけの「根拠」をつけないと、罵声が浴びせられ、ただのばか者扱いをされてしまうでしょう。美術の場合は違います。それがたとえ推測レベルであろうと、根拠を論文発表レベルで明確に求められることはまずないでしょう。それが良いところでもあり、だめなところであると思うのです。つまり、不確定な仮説であっても発表が許される。直感による仮説ってやつですね。だから、真実をいち早くつく可能性を秘めている。また、宗教的・神秘的なことを作品に盛り込むことも可能です。誰も文句なんか言わないでしょう(完成度や手法に関しては別ですが)。ですから、ある意味「自由」が守られている。だが、それが隠れ蓑になり、「なんとなく作ってみました、美術は何でもありでしょ?」というようなやつを擁護する結果ともなる。こんなことを書いていると「感覚だけで作るような作品を忘れているよ、君。美しさや面白さを追求する作品があってもいいのではないかい?」というような意見が聞こえてくるような気がする。が、私がここでいっていることは「必然性」という言葉の方が近いかもしれない。つまり「いくらコンセプチュアルでなかったとしても、それでよいのだというあなたの仮説に対する気持ちを持ってください」ということです。「説得力のない作品」「見たってしょうがない作品」はやはりだめだと思うのです。すべての作品に対し「無視」するのではなく「対峙」して「否定もしくは賛同」すべきです。まあ、これは作家であるならの話ですが・・・。口で言ってもしょうがないこともありますが「美術は感性だ」というならそれを聞かれても胸を張ればよい。それぐらい自分に対して「根拠」を突きつけていれば、美術も少しは改善されるのではないかなと思います。緊張感は自分で作りだすことが難しい物ですが、自由と緊張が同居しない限りいわゆる「良い作品」は生まれないのではと思います。自分の中での実験と反省・再構築の繰り返しではないかと・・・。
 まあ、「自分は趣味だからほっといてちょうだい」という人は別ですがね。

 

2002/04/14
もう四月中旬なのね
いろいろと自分の状況が動き、いろいろと準備に追われていると、ふと気づくともう四月中旬です。早いものです。私は個人的に「春」があまり好きではありません。なぜかというとこの空気に着いてゆけない。なんか、ふわふわとして、周りが流動的で、木々が生命感にあふれすぎ、自分の居場所が不安定になる。だから、春は基本的に苦手です。熱いのではなく「あったかい」というのがあまり好きではない。気持ちよすぎるから。普段気持ちが良い(快適)だと、気持ちの良い場所の価値がわからなくなってしまいます。快感や快楽は相対的なものですから、普段がこのようであると自分の生活に快楽や快感が少なくなる。これが、面倒くさい。快楽や快感がなくなるということは感動や感激がなくなるということに等しい。非現実的なイベントはおいておくとして、日常生活におけるささやかな快感や快楽は私にとっては重要なものです。例えば、寒い屋外から自宅に帰ってきてストーブをつける。寒い中であったかいコーヒーを飲む。このようなイベントは私にとって一種の「開放感」や「達成感」にも似たような錯覚を呼びます。だが、春はそれがない。だから、別のことで代価する必要がある。でないと、毎日の平凡さに自分が気づく。現実が見えすぎる。心地良すぎるというのは、ある意味暴力的であると思います。春は強制力が強すぎる。だから、春は苦手です。

 

2002/03/29
おセンチな私

今、風邪をひいてしまいました。頭も痛いし、のども痛い。今日やることはだいたい終わったので、そろそろ寝るとします。
しかし、風邪をひいているせいか少し弱気になっている私であります。みんなどうやって生きてるんだろうなーなんて思ってみたり、俺って生きていけんのかなーとか考えてみたり、いろいろいらん事を考えています。まあ、そんな話はさておき、先ほどアメリカのWEBを見ていました。美術系大学のWEBです。日本の大学のWEBと違っていろいろ学生の作品が掲載されています。有名な大学ともなれば、載せているだけで結構閲覧者がいるんだろうなーってな感じでコンセプト読んだりしてたのですが、ふと思った率直な意見は「ちゃんと見せる気あんのかこんちくしょー!」でした。字が小さすぎて見にくいし、レイアウトも懲り過ぎて操作しにくい。ただでさえ頭が痛いのに、さらに痛くなった。しかし、私の頭の中には「これが世界標準だったりして・・アメリカだもんなー・・・」という島国コンプレックスの塊のようなことが頭をよぎります。私は欧米至上主義ではありませんが、グローバルスタンダードって何なのよ?やっぱりアメリカですか?なーんて考えてます。しかし、機能性まで考えると、日本人が作ったWEBのほうが読みやすい気がするね。うんうん。文字が崩れるほど文字の表記を小さくしてんじゃねーぞ、こんちくしょう!・・・なーんていったって食い入るように読んでしまう私でありました。しょせん私を含めて日本人は島国コンプレックスの塊なんでしょうね。この便利な国に生まれた幸せをかみ締めつつ、その幸せに飼いならされて牙を丸くしてしまった人々に乾杯しつつ、その中に私も含まれてしまっていることを否定しつつ、今日もなんだかんだ言って世界的に見ればかなり裕福な環境で寝るとします。・・・私って考え方ひねてますね。

 

2002/03/22
美術なんてラララ・・・

先日、大阪の国立国際美術館に行って「O-JUN」の展覧会を見てきました。非常に良かったです。お暇な人は行ってみてください。最近の国立国際美術館の展示内容は非常に良いですね。キューレター変わったんだろうか?休日ということもあり、国立国際美術館にしては人がいましたが、閲覧できる文を全部読んでいたら、結局二時間ぐらいいましたかね。
で、書きたいことはそんなことではなく「良い」と思ったことについてです。作品を見ながら「良い作品だなー」と思っていましたが、と同時に「良いって俺は感じているが、何で良いって感じているんだ?」と頭に浮かんできました。「良い」という言葉も非常に曖昧な言葉で、具体的ではない言葉です。造形から?色彩から?表現しているコンセプトから?・・・と外部刺激に対して考え、そして、自分が高揚してきているから?コンセプトに興味を持っているから?自分にとって刺激的な表現技法だから?・・・と自分の内部反応を分析してみたりしました。また、文章表現の展示もあったので「良いな」と思った文を読んでいるときの自分と、造形作品を鑑賞している自分の反応を比較してみたりもしました。そんなことを考えていると、結構頭が整理されてきて「ああ・・」ということがなんとなく見えてきました。多分(多分ですからね・・)、人間は自分を基準にしてある一定の知覚レベルを超えているが自分の知識範囲を超えないものに対して初めて、美的感覚の食指を動かされるのではないかと。ここでいう知識や知覚は「言葉」だけではなくその作品が構成されてる「文法的なもの(要素の組み立てられかた)」の使い方もさします。いわゆる、「自分では作れなかったけれども、理解でき批評できる範囲でしかも自分の中で目新しいもの」しか興味をもてないんじゃないかな・・と。まあ、こんな言い方は極端ですが多かれ少なかれこんなことはあると思います。また、そこに錯覚からくる感情の刺激があったりなんかしたら、もう感動もんですよきっと。とこんな感じに今は思います。美術作品で大切なのは「知性」と「錯覚」です(描写も錯覚を利用した技法の一種ですからね)。決して神秘的なもんではないと思うのです。今まで知らなかった手品のタネがわかったら面白くなくなったり、自分ができそうな事には興味をもてなかったり、新しい物に飛びついてみたり、日常にありふれたものより少し異世界に見えるだけで本質は大して変わらないのではないでしょうか。・・ああ、あと歴史的な価値にも弱いよねー。と、言いたい放題ですがそう考えてみると美術って「芸」の内のひとつなんですね。きっと。

 

2002/03/04
自己教育について
最近、いろいろと勉強することがたくさんあります。それに付随して、読まねばならないものや暗記しなくてはならないものがたくさんあります。それを消化するのは、大変です。しかし、今のところは何とかがんばって気力が持っています。やっぱり必要性を感じて勉強するのと、やらされていたりして仕方なく勉強するのとでは、ぜんぜん学習スピードと効率が違いますね。あたりまえの話なんですがね。早い話が今は生きた目的をもって勉強しているということですね。で、その勉強なのですが、人間弱いもんで強く「意味付け」がないと耐えられないもんです。特に、私なんかはそうですね。根が飽きっぽい性格なもんで・・・。受験のころなんかは結構勉強しましたが、勉強しなくても良い環境にいたりするとしなくなるもんですねー。しかし、今は何とか「動機付け」に成功し何とかいけてます。
何でこんなことを書くのかといいますと、その「やる気」はどこからくるのであろうかということを最近考えていたからです。単純に多分「困るから」とか「将来不安だから」とかいう感情から「自己実現欲」を源泉として湧いてでるのでしょう。しかし、その「自己実現欲」というのは「出て来てください!」とか念じたらでるもんでもなく、本当に本能が「このままではだめだ」と感じないと出て来ないようです。じゃあ、いったいどうしたらでるんだよ!という話になりますが、多分タイミングです。いろんな自分の条件が重なってやっと人間は現状に気づくのですよ。しかし、私は「待ち」の戦法が性に合わないので、いろいろ出し方を試して見ました。言い換えれば「自分の本能を都合のいいように騙せないだろうか・・・」と思案したわけです。・・・無理でした。だって、自分が自分を騙しにかかってること知ってるんだから無理ですよ。しかし、ひとつだけなんとなく解ってきたのは「情報や思考の輪を閉じてはだめだ」ということです。周りを知り、それと対比させて自分を見ることが一番大切なのだなーと感じます。その情報収集も勉強のうちのひとつかなと思うのですが、この勉強が勉強を生むスパイラルをどれだけ維持できるのであろうか・・とふと頭をよぎります。
私はよく「感情の自分」と「理性の自分」を馬と騎手にたとえて考えたりします。騎手である理性が原動力である感情をもっとコントロールできれば、もっと自分を奮起させたり抑えたりして目的に向かえるのになあと。しかし、時に「あー俺って、駄馬だ・・」と落ち込んでみたりしますが・・・。上手いラインで自分を騙し騙ししながら、本能に気づかれすぎぬよう今日も慎重に行きましょう。暴走馬は暴走馬でしかありませんから。

 

2002/02/26
親方日の丸
私は今日改めて、自分がフリーターであるということを思いました。特に、つらいことがあったというわけではないのだけれど、雑誌の「使い捨ての二十代」とか言う記事を読んだからです。まあその、それがどうしたということではないのだけれど、あまり好きではない響きの言葉ですな。早い話が「経済的安定の上で弱い立場にいる」ということですね。いつ雇用者に「さよなら」といわれてもおかしくない立場ということです。その延長線上には契約社員という立場の方もおられますね。今はそんな方がたくさんおられます。で、そんなご時世なので「やはり日本国に就職でしょ」と考える人が私も含めて多いようです。芸術系の人なんかは「学校の先生」という立場を目指す人も多いのでは。しかし今は空前の少子化で教員採用数は悲惨な状態です。芸術系なんかはほとんどとらないというのが現状ではないでしょうか?スーパーマンでないと教員になれない時代です。と、ここまで書いておいてこの話はおわりで、本当に書きたいのは「経済的安定と自己研鑽欲の関係」です。概して、経済的な必要以上の安定は人間を怠慢に導きます。まあ、自己研鑽が趣味みたいな人もいますがそんな方は特例ですので・・・。昔から言われる「ハングリー精神」は人間にパワーと持続力を与えてくれます。つらい状態から抜けだしたいという欲求は誰しも強いもんですから、その力は「抵抗」だとか「あがき」に似たものとなります。力の源はどうでも良いのですが、その力たるや凄いもんだなと感心せざるおえません。しかし、経済的安定を得たとたんその力はどこへやら・・・という感じで消えてなくなってしまうのでしょう。困ったものです。で、私はそんなハングリーの状況が結構好きです。その力を出している状態は心の裏側で「ここちよいな・・・」といつも思います。しかしそれはこれに終わりがあると思っているから(終わりの中には目標達成も含みます)しているのであって、それがなければ多分何もする気が起きないでしょう。だから「いつまでもいろんなことにハングリーでいたいもんだなー・・」と良く思います。とはいっても、こんなことを書いておきながら私は心の底で強く経済的安定を望んでいます。不思議なもんです。人間所詮、どんなえらいことを言っても「心地よい命」なんですね、多分。精神と身体の栄養と安定を得すぎると人間対外的な考えがてきとうになってしまい、怠慢に陥ります。その怠慢パワーは歯止めを知りません。自分でとめるなんて無理無理。無駄な抵抗です。そんな自分には将来なりたくないもんです。「将来的自己不安と自己研鑽」は密接な関係にあります。そんな「ハングリー精神もったいない病」と「生命の保証願望」の狭間で、一石二鳥の計画である「親方日の丸でハングリー」という都合のいいことを夢想しつつ、自分に「そんなこと考える暇があったら、安定のために勉強しなさい。」と言い聞かせる毎日。スターなお仕事や人物にはあこがれるものの「王将での食事は自分へのご褒美」となっている今の生活は正直に言うと、いやだなー・・・。

 

2002/02/23
芸術家ということ
今日、テレビを見ていたら「ジョアン・ミロ」のテレビをやっていた。みなきゃと思い布団にもぐりこみ、タバコを吹かしながらテレビに見入る。しかし、最近美術史の本を読んだせいか、少し作品や芸術家を見る姿勢が不良になってきた。ミロの経歴や残した言葉の和訳なぞをふんふんと聞きながら、心の中で「ホンマにこんなやつやったんかー?」なんて思ってました。テレビなので奇麗事が多く多少誇張されているとは思うのですが、次から次へと頭の中で「ミロの裏の顔」なぞを想像してました。「海岸を一日中歩きまわり、砂浜に造形を描いていました・・・」なんて言ってはいるが、実は「ひまだなー」とか「今日は何を食べようかなー」なんて思ってんじゃないの?電話しているときとかにメモ帳にいっぱい落書きするような感じで指が動いてんじゃないの?・・とか「求道者づらしてるけど、ちゃんと芸術で食ってるあたり画商とかとなんかグルになって、汚く売ってたんじゃないの?」とか・・・なんか不純だなーと自分で感じながら、テレビで見る「純粋な求道者としての世界」にあこがれたりしていた。いったいどっちなんだ!と自分でも思いますが、現代においてはやっぱり「作品で食っていくなんて、俺には無理っぽい・・。」と感じるので、映画を見てその幻想の世界に少し浸っている人のような気分でした。作品で食ってくことと作品を創ることってやっぱり共存できないんじゃないかな、多分。・・・そんな心の整理がつかぬまま、さて今日も少し美術史の本を開くとします。しかし、そこには芸術家の心情や生き様を無視した「流行の分析」がつらつらと書いてあります。それをなんか現実だし面白いと思う私もいるし、それを批評家の罠と感じる私もいる。あー、定義のないものにあこがれてそれであろうとすることって難しいですね。ほんとに。今日も分厚い本を見ながら「これをまとめた人って、根性あるよなー」と単純に感心しつつ、芸術家とは何ぞや?と千日問答に入る私でありました。

 

2002/02/14
出口なし・・・

この前雑誌の記事を読んでいたら、「今の少子化はえげつない」てな感じで書いてありました。そらそうだろうな・・という感じも受けますが、まだ今は第二次ベビーブームの終わりかけ世代が社会人になって2・3年しか経ってないから皆口々に少子化少子化といってはいるものの、まだ市場への経済効果は顕著に出ていない。けれど、このまま行けば我々の生活にまで影響が出てくるのであろうな・・・と感じています。記事によると2006年をピークに人口は減少の一途のたどるらしい。そらそうですわ、だって今の出生率は1.38人ですから。ねずみ算の逆を行く形で減ってゆきます。国立の人口問題研究所なんてところがあるらしいのだけれど、国民の精神的な不安を和らげるためか将来の出生率と人口推移の予測を常に大目に予測していて、発表している。当の研究所は「これが正しい」と言い張っているみたいです。しかし、本当に問題なのは国がこの数字をあてにして将来設計立ててるってことです。早い話が「無謀」なんですね。
まあ、国の話はおいておくとして、人口問題は深刻ですね。生めといって生んだら終わるという問題ではない。生んでも経済的に養育が無理とか、いっぱい理由があるんです。けど、増えなきゃ日本がやばい。このペースで行くと100年後には3500万人ぐらいに日本の人口はなってしまうらしい。そのうち老人は何人になってしまうんだろうか・・。国内市場は崩壊しています、多分。そのとき日本はどうなってしまうんでしょうかね。
少なくとも10年後には日本の国際的位置付けはかなりのランクダウンをして「だめ国」の烙印を押されてしまっているでしょうし、裕福な社会に慣れきっているのでそれを盛り返す力もないでしょうし・・。このままでは国外移住か日本にいてスラム化するのを待つかという感じなんでしょうか。今の政治家なんてどうせ「自分が死ぬまで持ったらいいかな・・」とかかんがえてるんだろうなー。
さあ、みなさん、今から必死に英語でも勉強しましょう。・・いや・・中国語だろうか・・・。では。

 

2002/02/02
かえってきました

二週間前ぐらいに、突然車にはねられました。最悪でした。しかし、いろいろな本を読んだり、入院している患者の方と話をしたりと、猛烈にひまを持て余しながらもいろんな体験をした入院生活でした。最悪なことが続いていた日々だったので、まあ落ちがついたという感じでした。入院生活はまだ終わっていないのですが、一応試験退院(外泊)ということで今は自宅に戻ってきています。なんだかいろんな筋肉がなまっていて、歩くだけでもしんどい日々です。足もまだ痛いので、普段の生活に戻れるのはいつのことやら・・・
しかし、普段はしゃべらない人たちと喋ったということは財産です。いろいろなことを学びました。みんな時間があるので自分の過去や考え方をいっぱい喋ってくれます。私のような美術畑で育った人間には非常に驚きでした。私はやっぱり「美術」に対しての美術を行っているのかな・・・とかも感じてしまいました。それについてはまた詳しく書きますが、心配をかけた皆さん、何とか生きていますので安心してください。いろいろありがとうございました。

 

2002/01/19
人間て他と何か違うんだろうか・・・
私はまだ年齢が若いのですが、生きていてよく「所詮は動物だな・・・」と自分のことを思います。なぜかというと、理性があるようでも自分の感情には勝てないからです。「人間そんなもんだよ」という方もおられると思いますが、そうとはあまり感じません。人間は言葉を発明しました。その後文字も発明されました。まあ、どっちが先かは詳しく知りませんがね。ということで、人間は先人が思ったこと・経験したことをを受け継ぐことができるようになりました。そのおかげで人類は知識を蓄積することが可能になりました。それと同時に自分の中に知識を蓄積することも覚えたのでしょうね。で、先人たちの知識を無駄にしないため「教育」というものが生まれたのでしょう。なので、私たちの中には先人たちの知識と我々独自の知識・経験が共存しています。まあ、ほとんどの人間の中にはブラックボックス化した知識もたくさんありますが・・。何が言いたいのかというと、文字や言葉を使う工程を自分から抜いたと仮定すると(自分の中に言葉として記憶する行為、言葉をきっかけとして思い出す行為を含む)特に本能しかのこらないなあ・・と感じるわけです。どこまでが本能でどこまでが理性かは不明瞭な線引きになりますが、たいしたものは残らないのではと感じます。イルカなんかは人間と脳の大きさが変わらないらしいのですが、水中にいるから文化なんかが発達しなかったし、知識の蓄積もできなかったのではと考えています。多少の知能があろうがなかろうが今の人間とその他の動物ほどの差は根本的にないだろうと思います。だから、延長して考えると賢い賢くないなんてどれだけ記憶しているか(知識に方法論も含む)だけなのかな・・と。だから存在自体が尊いものではないのだな、多分。

 

2002/01/17
この前、雑誌の記事を読んでいたら

人間の臓器移植の切り札は「豚」だって書いてありました。なんだか恐ろしい話だな・・・と感じます。去年までは豚の抗原が人間の体内に入ったとき、拒絶反応が問題となっていたらしいんだけど、今年に入って2社がその抗原を持たない「クローン豚」を開発したらしい。人間ってなんかすごいなって感じます。一昔前までフランケン・シュタインなんて夢だね、なんて思っていたのに、あれよあれよという間に「豚」が移植できる時代になってしまったらしい。しかし、これで助かる患者がたくさんいる(アメリカだけで七万五千人らしい)んだなと思ったら、喜ぶべきことなんでしょうね。副作用とかはないんだろうか?気になります。企業側は多少あっても公表しないだろうし、もし私が移植される立場だったら正直戸惑います。まあ、先入観の問題だけなんだろうけど。そのうち気軽に人間は、部品を交換するみたいに体の一部を交換できてしまうのでしょうね。私が生きているまでには多分なるんだろうなぁ。
そのころには必死に交換できる臓器を探している自分がいるのですよ、多分。そのころには「神秘」という言葉が死語になっていたりしますね、きっと。けど、助からないといわれている方が助かるというのは大変良いことです。

震災で犠牲になられた方に、黙祷。

 

2002/01/08
このHPを上げるにあたって・・・
なんだかこのページを見てくれる人が居るのだろうかと不安になってきたりします。けれど、考えを整理したり、新しい考えを自分内に作って行こうと考えているわけです。実際どこまでそれが実現できるかはわかりませんが、このページを見ていろいろ批判や賛同をしてくれる方が居ていただけるとありがたいと感じます。またそれが、いろいろな方々にいろいろな刺激やヒントになれば幸いです。重要なのは鑑賞者も制作者も傍観しているだけではいけないことだと思うのです。もっとお互いに言いたいことを言えばよいと感じます。それは作家同士・鑑賞者同士も指します。画廊空間ではお互いが顔を合わすので言いにくいこともあるでしょう。作り手が大家っぽかったらなおさらです。現代の日本だったらなおさらかな・・・とも感じます。多分、鑑賞者・制作者ともにいろいろな意見が美術作品に対してあると思います。ですので、顔を合わさないで済むネットでの交流だったら多少過激な意見も率直に出てくるかな・・・と感じています。自分を隠すことができたら、人間関係気にしなくて良いからね。と言うわけで、多少過激な意見でもバンバン書きこんでください。ね、みなさん。