帝国の記憶


 

 

 

撮影場所 : 大久野島 撮影日時 : 09年9月

世の中には「戦争遺跡」という呼び方があるらしい。戦争に関連した破棄された建物などといったところだろう。
だが国内に限った限り、殆どが例えば軍需工場だったとか、基地だったとかで、戦場になったわけでも戦跡というほどのものでもない。
空襲にあったものもあるだろうが、それなら京橋駅も湊川神社も戦争遺跡になってしまう。
軍需工場でも戦後に民需転換したものは「近代化遺産」なのに、この違いはなんだろうか。
「戦争遺跡」という言葉自体に、嫌なもの、悪いもの、忘れ去ってしまいたいものというニュアンスが込められるようになってしまったのではないか。
もし過去の歴史を正しく伝えたいのであれば、真っ先に避けるべきはレッテル張りであるはずなのに。

脱線が長くなってしまった。写真は大久野島の毒ガス工場跡です。地図から消され、GHQに焼き尽くされ、とても民需転換はできなかったのでしょう。
戦後この島が国民休暇村になっていなければ、本当に忘れ去られていたかもしれません。
今はウサギの楽園と言われる観光地として「民需転換」に成功しています。

 

 

撮影場所 : 標津のあたり 撮影日時 : 09年8月

北海道で標津を目指している時に見つけたもの。これは航空機用の掩体壕。
戦前の飛行場は戦後空港になったものもあるが、開墾で綺麗サッパリと痕跡を消したものもある。
そして、掩体壕が作られた飛行場であれば、このようにひょっこりと撤去できないままのコンクリ建造物だけが残ってしまうこともある。
宮崎空港あたりでも見に行ったことがあるけど、当時の劣悪な資材状況もあってボロボロと崩れて限界に達しつつありそうだった。
こういったものを保存しようという話は・・・出てこないんだろうなぁ。

 

 

撮影場所 : 夕張炭砿 撮影日時 : 09年8月

ハイル・ホクタン(?)多分、意識していると思うけれど・・・こんな像を作るのに何の意味があるのか?は疑問。
戦時中も炭鉱夫の待遇は他業種と比べて比較的高く据え置かれたようで、余裕があったのかもしれないが。
無駄な物資を使わないためかセメント製というのが珍しい。
しかし、政治家や独裁者の銅像を作って崇め立てるのではなく、無名の炭鉱夫を救国の英雄として扱ったセンスは素晴らしいと思う。
それに、昭和19年という年に理由はどうあれ、全力で彫刻という芸術に取り組んだ作者達の熱意には敬服せざるを得ない。

 

 

撮影場所 : 戸井線 撮影日時 : 09年8月

未成線というのは無念さが伝わってくる。砲台への軍需線とも、青函連絡船の迂回航路設置のためとも言われる路線だが、列車が走ることはなかった。
コンクリートアーチという様式も、鉄道ではほぼ戦時特有のものであり鉄筋などなくとも60年以上原型をとどめているのは凄い。
それでも補修しなければ破片など落下してくるだろうし、下に民家もあることだし保存するなら補修もする決断が必要なのかもしれない。

鉄やコンクリートで作られた帝国の痕跡達は、語り部の減少とともに次々と寿命を迎えているように思う。
建造物や構造物はただ作られるために存在するのではなく、使われる為にこそ存在するはず。
当時の人達がこれらを必要と信じたのは、なぜだろうか。そしてなぜ立派な建造物や構造物を打ち捨てなければならなかったのだろうか。

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