玉水〜三山木
                             2025年01月23日(木)

京都8:13=(JR奈良線)=9:00玉水9:19−9:28玉水橋東詰−
9:39玉水橋西詰−南へ―9:48三山木橋−△24.4−10:04三山木橋−
19:22玉水橋−久保田樋門−10:30ふ船休み10:40−飯丘バス停−
10:41薬師山古墳−10:57ゴロコロ山古墳△66.8−11:19飯丘区墓地
「穴山梅雪の墓」−キョパト−11:19近鉄ガード−11:45JR片町線踏切−
11:58妙覚寺12:01−12:04田辺天神山遺跡(昼食)12:42−
バス通り東へ―12:54日光寺入口−12:57同志社女子大正門前駐車場−
13:02日光寺−13:12妙覚寺−13:06△61.8 13:04−同志社住宅−
13:54同志社南−<22>−14:07フォレストモール14:20−
14:25同志社山手病院−同志社山手さくらの丘公園−
14:58△86.9の登り口−同志社山手2丁目−15:08同志社山手1丁目−
南田辺三山木駅線−JR三山木−15:33近鉄三山木(解散)

JR奈良線の玉水駅に11名が集まった。
地図を頼りに三角点を探す企画である。
京都駅発の時刻が間違って予告されて
いたようで、遅れて来る人を待つ。
木津川に向かって歩く。

「赤福 ここたん弁当」は地元の
人に人気とか。
しかし今日は閉まっているようだ。
昭和3年に立てられた「井手史跡名勝」の
石碑を見て、井手町庁舎を過ぎると木津川に
架かる玉水橋が見えてきた。

橋の手前に井手町の案内板が立っている。
井手の玉川は日本六玉川の1つ。
橘諸兄と万葉の里。
桜、山吹かわずの里。


木津川を渡ると「京田辺市」になり、
木津側西岸堤の車道を南に歩き
三角点を探す。
堤の下に見える大きな工場は
株式会社朝陽 田辺工場。
その上の堤に、「山本の渡し場跡の」
石柱が立っている。
「昭和四十九年三月建立 田辺町
文化財保護委員会 」
和銅4年に「山本駅」が設けられ、
ここから船で木津川を渡り
宇治田原を経て、瀬田へ通じる
交通の要衝で、古い歴史を
もつ渡しであった。

遠藤川に架かる橋を渡り
田園の水路におりた。
リーダから貰った地図では
水路に立つ小屋あたりに、
三角点△24.4 があるはずで、
隅々まで捜索したが、
見つからなかった。

あとで国土地理院の三角点を
検索してみると△24.4は掲載されて
いなかったので、現在は
無いようだ。


堤の下の自転車路(京奈和自転車道<801>)
を引き返し北に歩く。
玉水橋の地下通路に
「嵐山35km 木津10km」の表記がある。

久保田樋門を過ぎて大きな
杉の木2本が見えると舟形の
休憩所である。
「ふ舟休み」と言うらしい。


堤の分岐には自力で用水排水路を
開削した飯岡の豊田武兵衛
(とよだぶへえ)の碑があり、
「文政十一年回國供養塔」や
「飯岡の渡し場跡」もある。








その手前の民家の前の露岩は、
流れてきた岩ではなくて、
基盤岩で木津川の両側の山と
同じ頁岩。
どちらが上でどちらが下かは
わからないが、地層面は
地平面から80度傾いている。





「飯岡」バス停を右折し、これから
飯岡(いのおか)丘陵にはいっていく。
「玉露の産地」で茶畑の黒いシートは
「被覆栽培」で、玉露や抹茶などの
生産では日光を遮ることで
うまみを引き出すのだそうだ。


電波塔めがけて茶畑の急坂を
登ると桜井古墳の石碑がある、
さらに登ると標高72mの
薬師山古墳に出る。

飯岡古墳群の案内板がある。
薬師山古墳(径38m)は継体天皇の
皇子椀子王(まりこ)の子に
あたる桜井王の墳墓と伝える。

円墳で、直径38m、高さ6m 。
墳頂部に江戸時代の石仏を
安置した薬師堂がある。

薬師山古墳から木津川から
山城平野が一望できる。
飯岡(いのか)丘陵は木津川の
川の浸食により削りとられて
できた孤立丘陵で、この岩盤の
上に段丘が堆積した。


三角点を探し始めた。
どうやら裏山にあるらしい。
落葉が深く積もり滑り易い急斜面
を登って、ゴロゴロ山に上がった。

ゴロゴロ山古墳(茶臼山、釈迦山古墳)
は、薬師山の西にある古墳で
継体天皇の皇子椀子王の墳墓と
伝えられている。



南山城地方でも最大級の円墳である。
古墳の直径は60m、高さは9m、
墳丘頂部は直径20mの平坦地
になっている。
葺石の存在もあり、
北東部には堀がめぐって
いた跡がある。

継体天皇の筒城宮に近い
ところから伝説になった
ものと思われる。

ここに三角点があるはずだが、
落葉に埋もれて分からない。
三角点を示すプラスチックの
筒が転がっていたので、
これを三角点に見立てた。
三等三角点(66.8m点名飯岡)。

田辺病院の裏におりて、西に
向かって歩くと、飯岡車塚古墳
の標識がある。
その反対側は共墓地(飯岡区墓地)
のようだ。


リーダがその中に入って行って
何か探している。
「穴山梅雪の墓」の石碑があり、
小さなお墓が3つほどあった。

案内板によると、
「家臣団は家康を脱出させ、2組に
分かれて宿泊し、最も信長に
痛めつけられた普賢寺郷を通り、
草内の渡しに至るコースを
梅雪が引き受けた」
そして「木津川原で土民衆団に
囲まれ自害した」そうである。

木津川は度々氾濫しており
梅雪の墓は飯岡(いのおか)から
移したもの。
地元には「木津川傍らに放置
されていた武将の遺体を
旧墓地に埋葬しこの武将を
穴山梅雪」と伝えているそうだ。

ビワの木に白い花が咲いて
その中をメジロが飛び回っている。

飯岡権田の交差点を渡ると
黄緑一色のはでな建物「キョパト」
から南東に折れて畑の中を歩く。
近鉄線のガードをくぐると
普賢寺川にでた。
JR片町線踏切を渡ると
「関西文化学術研究都市」
の看板がある。
その先に見える山に
三角点があるはず。


どこから取りついたものか、
迷った先に金網のフェンスに
たどり着いたが、入口が
見つからない。
探し回って、やっと入れた。
竹藪や雑木林の過ぎ急坂を
よじ登って墓地にでた。
その先に日恵上人の像が
あるお寺(普賢山 妙覚寺)
があった。

先頭が住職に三角点が
あるか聞いている。
裏口から登ったことを
咎められて、北側の階段
道から上がれと言われた
そうだ。
ぐるりと山1周を回ら
なければならない。


隣の田辺天神山遺跡に
登って昼食になった。

多くの窪地は弥生人の住宅跡
である。
広場を取り囲むよう約20棟の
竪穴住居跡が、発掘された。
竪穴住居は円形と方形があるが、
造られた年代を調べると
円形から方形へと変化した
ことがわかるそうだ。

高いところは不便なはずだが、
河川の氾濫などをさけて
めったに起こらぬ災害を
さけて高所にすむように
なったとか。

また標札では
「倭国乱れ相攻伐すること歴年」
の動乱期だったことを示す
遺跡になるかもしれない
と言っている。

主な遺物には中国製とみられる
半球型の青銅器や鉄製の刀子(
とうす)という
ナイフ、石鏃や砥石などがあり、
石器から金属器への移行期だそうだ。

バス道を下ると同志社女子大学の
前に出た。
そこに日光寺に入る階段道があったが、
柵が閉じて中に入れなかった。

同志社女子大学正門バス停
まで来て駐車場に入ると、
お寺に通じる石段を登った。

古い住宅のような所は
日光寺(普門山 徳豊院 日光寺)
だった。
浄土宗で本尊は阿弥陀如来。
月誉上人の丸い碑、石仏の祠、
ブロックの小屋にも石仏
が祀られていた。


さらに進むと初めに訪れ
妙覚寺に出た。
手分けて三角点を探した。
最初に登った墓地まで戻って、
急坂の道に入る手前で
ついに三角点が見つかった。
四等三角点(点名妙覚寺61.8m)。

散っていたメンバーが集まって
きて記念写真を撮った。

同志社山手のフォレストモールで
お茶休憩をして、<22>
山手幹線を南下して、
次の三角点をさがす。


同志社山手病院の間の路に
下りて東へ山手幹線の下を
くぐって田園にでた。
山に取りつく道を探したが
見つからず、見上げると
高い築山の上にフェンスが
張り巡らされた宅地が見える。
階段が出てきて登ったところが
さくらの岡公園。

住宅街を巡って山に入れ
そうな所を探す。
整備された階段道が見つかったが、
なんとフェンスに囲まれ扉は
厳重に鍵がかかっている。
これでは山に入れない。
四等三角点奥山田86.9mは
まぼろしに終わった。

今日はこれまで、三山本駅で
解散となる。
有志はビールで乾杯。





















戻る