北山辺の道 山村町〜天理
                             2024年10月11日(金)

2024年10月11日 北山辺の道 山村町〜天理
京都8:47=(近鉄)=9:33近鉄奈良9:48=(バス)=10:21山村町10:22−
10:47交差点−10:45時計台−11:05高樋町−11:12弘仁寺11:23−11:36村道
−11:41虚空蔵町トイレ11:43−12:03古墳公園−12:07白川ダム石碑(昼食)
12:39−12:55トイレ−25号線名阪国道ガード−13:15石上北低区配水池−
三叉路−南へ―山田農園−池―13:37天理環状線−北大路−13:44豊井町次の信号
−13:49水道処理場前(青少年育成広場)14:05−14:05豊日神社14:20−14:27
行留橋ハタの滝14:30−14:41石上神宮14:45−14:04天理教本部(解散)

良く晴れて暑い。13人で北山辺の道の後半13qを歩く。
ちょうど来た山村行のバスに乗る。
終点で下車、点呼があって元気に
歩き始めたら、道を間違える。

「伝・山の辺の道」「高樋町弘仁寺の
案内2.4km」の案内板を見て、
正しい道を歩いていると
確信した。

そこに万葉歌碑がある。
三輪山を 然も隠すか雲だにも
情けあらなむ隠そうべしや
 額田王

納戸原のバス停横の立派な
白壁の家を過ぎて、臨済宗平等寺の
案内板を見るがお寺は
民家の奥にあるようで見えない。

日本語の他、英語と韓国語でも
書かれた案内標識に、
いろいろな表記がある。
「東海自然歩道、奈良盆地
周遊型ウォ―クルート、
山の辺の道」。
その横にコスモスの花がさいている。
村外れになり道路拡張の工事が
竹林を削ってすすんでいる。

奈良県立精華学院近くの
信号のある三叉路に来た。
ここは真っすぐ、正暦寺方向
へ行く。


柳茶屋バス停がある三叉路を
右折する。
ここに時計台がある。
時計の上に御典記念、
下に高樋青年団と書いてある。
その横に公衆電話ボックスがある。

しばらく行くと、「椿尾上城」
の案内板がある。


椿尾上城は筒井氏の「山之城」で
東方約3kmにある標高528mの山城だそうだ。
永禄2年(1559年)松永久秀によって陥落。


「理容アキザワ」は普通の
散髪屋さんだが、高樋簡易郵便局
の看板があり、赤いポストもある。

八十八供養碑をすぎて高樋中町。
ここでルートの確認を行う。
火の見やぐらのそばに歌碑がある。

「一本の なでしこ植えしその心 
誰に見せむと 思い染めけむ
大伴家持


虚空蔵尊参道の石柱と
弘仁寺参詣道の標識があり、
東へ山道を登る。

奥の院の建物の前に
奥の院不動尊略縁起の案内板がある。
弘法大師は立像不動明王の
石仏を自作し、奥の院本尊とした。
また弘法大師は井戸を
掘削し湧き出した水は
眼病に効いた。

昼なお暗い裏参道の石段を
登り詰めると弘仁寺の
山門にでた。
参拝するには200円いるので、
ひきかえした。


弘仁寺は弘仁5年(814年)、
嵯峨天皇の勅願で創建したもので、
十三参りでは文殊様に参拝する。
門前には
「勅願所 虚空蔵山 弘仁寺」の
石碑がたっている。

山を降りていくと
地元の人に出会って、
「てくてくマップ」を
見てこられたのですか?
間違っていますよ。
と言われた。


その先に「右いせ左虚空蔵」の
石碑がある。
弘仁寺から降りてくる道
はここだったのか。

よく整備された「東海自然歩道
トイレ」で休憩。

「白河溜池1.5km」白川ダムは
まだ先だ。
途中で古墳公園に立ち寄る。
白川ダム建設により消滅した
和爾小倉谷古墳群のうち3基を
移築保存したそうだ。

白川ダムの記念碑前に来た。
ここで昼食になった。


白川ダムは樽川に昭和8年に
造られた農業用白川溜池を
平成10年に改築、高瀬川および
樽川の洪水調節を行う。

ダムの中には東屋風の瓦葺の
取水塔があり、釣りをする人が多い。
秋晴れの空にはいわし雲が美しい。



万葉の森の土手をすすんで、
原谷池へ降りた所に
公衆トイレがある。

「天理石上神社4.1km
赤土山古墳」の標識の先に
何か懐かしく感じる実った
柿の木があった。

名阪国道ガードを抜けて
少し行くと、石上北低区
配水池の丸い建物に沿って
V字に進む。


竹林の山越えの道になり、
石上大塚古墳の案内板がある。

約30m 登ったところに
6C前半の前方後円墳が
あるとのこと。

ウワナリ古墳も石上大塚古墳
の横にある前方後円墳とか。

山道を下りた所に
「天理砂岩」があり、
その案内板に
「狂信の渠つながりしは
石上山から飛鳥へ」の
説明がある。

日本書紀 巻第26 斉明天皇の
記述を口語約したもの。

斉明天皇は石上山(天理市の豊田山)
の石(天理砂岩)を運ぶために
渠を掘った。
時の人々は、「たぶれ心の溝工事。
無駄な人夫を三万人余り。
垣造りの無駄は七万人余り。
宮材は腐り、山頂は潰れた」
と言い、また、
「石の山岡を造っても、造った
端からこわれるだろう」
と謗った(そしった)という。

実際、平成4年には明日香の
酒船石の丘陵から天理砂岩が
積まれた石垣が出土したり、
平成11年には明日香村の
各所から幅10mほどの
水路が発掘されたので
この話は本当のよう。

民衆の恨みを買った土木工事
だったのか。

山を下りて広がる畑が
山田農園とか。
その先の菖蒲園で若者
2人が作業している。
どうやら菖蒲園は
天理高校農事部が
管理運営しているようだ。

遠くに天理教の施設が
見えるようになると、
道路工事の誘導員が
車道の「東海自然歩道うかい路」へ
連れて行ってくれた。

水道処理場前に
左「豊田城跡」とある。
豊田城は豊田氏の居城で、
越智氏・古市氏に属していたが
敗れて没落し、筒井氏に
属するようになった。
しかし1568年11月14日に
松永久秀に攻められ落城した。

水道処理場の扉が空いて
いたので疑いなく中に
入ってしまった。
気が付いて扉まで戻る。

扉の横に道があったのだ。
パワーシャベルで
道路工事をしているので
行けないと思いこんでいた。
ヒガンバナの咲く
山辺の道は溝の蓋の上を
歩くようになり、
田畑に出て進み突き
当りに道標がある。


左へ行くと豊日神社。

祭神は菅原道真公と
大山祇神。

案内板によると
もともと火雷天神を祭って
いたのが、菅原道真のたたり
に置き換えられて天神社になった。


豊日は、豊日別(とよひわけ)の
ことで、福岡県行橋市に
鎮座する豊日別宮である。

佐留多毘古乃大神を祀る。
これは道案内の神の
猿田彦(サルタヒコ)の
ことらしい。

小さな拝殿の瑞垣の下に
天神池がある。
アオサギが池に影を
映している。


影媛(かげひめ)伝説で
知られる布留(ふる)の
高橋を渡る。

布留川(ふるかわ)にかかる橋は
コンクリート製だった。
橋から滝が見下ろせる。



橋を渡ると歌碑がある。
石上 布留(ふる)の高橋 高高に
妹が待つらむ 夜ぞ更けにける 
詠み人知らず

豪族物部氏の娘、美しい影媛を巡って
後の武烈天皇となる皇太子と権力者
の息子平群鮪(へぐりのしび)
が争ったが、媛の心は鮪に
傾いていた。
怒った皇太子は鮪を
平城山(ならやま)に追い
詰め殺害した。

恋人の身を案じ、影媛は
ひたすら山の辺の道を
北へ走ったが、時すでに遅し。


石上神社の巨木
石上神社に近づくとイチガシの
巨木がたっている。
樹高約25m、幹周り4.15m 
樹歳はおおよそ300年と言われてる。

石上神宮に到着。
まずは楼門を仰ぎ見る。


楼門 重要文化財
鎌倉時代末期、第96代後醍醐天皇の
文保2年(1318)に建立。
一間一戸の重層で入母屋
造りの桧皮葺。

石上神宮を代表する均整の
とれた美しさで特に回廊の
朱色とマッチしている。


扁額の「萬古猶新(ばんこゆうしん)」
の字は山縣有朋の筆によるもの。

石上神宮伝来の七支刀は
鉄製の剣。
製作年は西暦369年。
『日本書紀』の神功皇后摂政52年に
百済から献上された
「七枝刀(ななつさやのたち)」に
当たると考えらる。


拝殿
白川天皇が宮中にあった神嘉殿を
拝殿として寄進したもの。
その後、幾度かの改造がなされ
今の形になっている。

楼門を出て鏡池へ
周りには烏骨鶏が放し飼い。

鏡池は奈良県の天然記念物に
指定されているワタカという
魚が生息してる。
別名を「馬魚(ばぎょ)」という。

社号標の近くに万葉歌碑がある。

「未通女(おとめ)らが 袖振山
(そでふるやま)の 瑞垣(みづがき)の
久しき時ゆ 思ひき吾(われ)は」
柿本人麻呂。


天理教教教会本部神殿
1838年(天保9年)中山みきによって
開かれた天理教の聖地、
その広さは1万4000u

ここで解散になった。
アーケード商店街で有志で乾杯。




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