頼政道を歩く・大谷〜石田
                             2022年11月04日(金)


山科=(京阪)=大谷9:30−9:50月心寺−10:09摂取寺10:14−
10:26京都東IC−10:29小山鎮守公園10:35−11:22岩屋神社11:27−
11:41歓喜光寺−12:03隋心寺(昼食)−12:47醍醐天皇陵−
13:02「頼政道跡」碑13:02−13:02長尾天満宮13:12−13:08醍醐寺
女人堂−13:30頼政道の痕跡13:33−13:53一言観音14:08−
14:23平重衡お墓14:26−14:51地下鉄石田駅(解散)

京阪大谷駅に10名集合。
昨日の登山にも参加した人が
3名来ていた。



前回立ち寄った走井餅の
月心寺を見て、湧き水が
おいしい摂取寺に来た。
大津警察の藤尾交番からドームに
囲われた名神高速道路に沿って歩く。
もう少し西に髭茶屋追分があるが、
東海道と奈良街道の分岐点に
なっていて髭づらオヤジの茶店が
あったそうだ。

名神京都東料金所の下をくぐると、
西に音羽記念病院が見える、
小山鎮守公園で休憩。

道端にユズ、ミカン、カラムシ、
白いサザンカが咲いている、長い
下りの舗装路を歩いていく。

名神を跨ぐ高岩橋と天神橋を
過ぎると藪の池になり、
京都市立東総合支援学校を
過ぎて、特老ヴィエラ山科を
回り込むと、岩屋神社である。



本殿背後の山腹に奥之院
あるいは岩屋殿と呼ばれる
陰陽2つの巨巌があるそうだが、
ここから400m先と聞いて
行くのをあきらめた。

(9月1日)には百の灯が
神前に捧げられる。


「岩屋こども園アカンパニー」が
併設されていて子供たちが
元気に神社の中で遊んでいる。



(天照皇大神宮)の御札の
神宮大麻。
大宅(おおやけ)御旅所前
には大きなクスノキがある。
高さ 10m、幹周 2.8m。
「山科区民の誇りの木」の
一つに選ばれている。
また大石内蔵助が大石神社に
あった居宅に隠棲していた時、
岩屋神社に参篭して大願成就を
祈ったそうだ。

つぎの大きな寺は歓喜光寺で
時宗六条派本寺の寺院。

橘大学を過ぎると「山科けいさつ」
の看板がみえてきた。
ここで府道36号線を右折、
府道35号線(旧奈良街道)を行く。

小野御霊町の交差点を
過ぎると左手に「随心院総門」がある。
随心院は真言宗善通寺派の大本山で
格式の高い門跡寺院。



真言宗小野流の祖である仁海
(954年 - 1046年)が創建した。
仁海は通称「雨僧正」。
雨乞の祈祷を9回行い、そのたびに
雨を降らせたそうだ。

化粧池の前の苔むした
庭の一角で昼食になった。


竹垣に囲まれた奥には
「小野小町化粧井戸」がある。
絶世の美女小野小町が顔を
洗ったそうだ。

奈良街道に出ると「小町化粧橋
」の標識がある。

醍醐上の山の交差点を左折すると、
みごとなイチョウ並木の道になり
、醍醐天皇陵に着く。



松の並木の奥深くに鳥居が見えた。
御陵名は後山科陵
(のちのやましなのみささぎ)で円墳。
醍醐天皇の治世は34年の長きに
わたり平穏だったが、菅原道真を
大宰員外帥に左遷したことは
不運をまねいた。

北醍醐小学校の西側を南下して
畑の畔に入り、川に沿って歩く。
カラフルな旗が靡く四明山一条寺に
沿って、朱雀天皇陵の裏当たり
に出た。


長尾天神裏参道を登ると、リーダは
「この当たりが、源頼政が
逃げた道です。」という。
藪なので階段を登って迂回し
途中から広場に降りた、その先に
「頼政道」の石碑があらわれた。

やっと頼政道を実感できた。



治承四年(1180)五月、以仁王が
諸国の源氏に平氏追討の令旨を
発し蜂起を促していたが、
これを平清盛に察知された。



以仁王は平氏政権の専横に
反感する園城寺(三井寺)に入り、
源頼政も以仁王に合流するため
園城寺に入った。
しかし、協力を仰いだ延暦寺が
動かず、危険を感じた
以仁王・頼政の軍勢は南都に
向かって出発した。
その道が頼政道である。
逢坂関と宇治を最短距離で
結ぶ古道と伝えられている。

洛東用水路跡を見て、階段を
登って長尾天満宮に参拝した。

醍醐寺境内に入ってきた。
修行の滝のある無量寿苑から
女人堂へ行くと、府道782号線
にでる。
この道は山に入ると細くなり
身動きが取れなくなるそうだ。

782号線を少し下ると
南側の丘(醍醐上端山町)に
よじ登った。
そこに石を積んだ形跡があった。
それが頼政道であるという。

川に沿って南下した。
下端山町、勝口町の住宅街を
抜けると、一言寺観音
(ひとことかんのん)である。



ただ一心に祈ると一言だけ願い
が叶うといわれている。
門を入ると「紫陽花光生」の
石碑がある。
ここはアジサイの名所で、
梅本光生が3000本のアジサイ
を植えたそうだ。



参道階段の中ほどを
横切る小道があり、地元の
人はこの道を「頼政道」と
呼んでいる。

正面の本堂には阿波内侍
(あわのないし)坐像が
安置されているそうだ。
阿波内侍は平清盛と時子の娘で、
建礼門院に仕えた。
池には弁財天、南に
賓頭盧さん(びんずるさん)
がある。

一言寺観音の南に栢杜(かやもり)
遺跡があるが今回はパス。



南へ歩くと従三位平重衡御墓の
石柱がある。
その西に平重衡(たいらのしげひら)
の墓がある。

平重衡は平清盛の五男、
以仁王の反乱を鎮圧、
園城寺の焼き討ち、
南都焼き討ちを行ったが、
一の谷の合戦で捕虜となった。

焼き討ちを憎む南都衆の
要求で南都に引き渡され、
木津川畔で斬首された。



能楽「千手」では捕虜と
なった重衡を源頼朝が不憫
に思い、千手という侍女を
遣わした。
酒を進め、舞を舞い、琴を
かなでると重衡も琵琶を
吟じた。
翌朝、南都へ送られた。

能楽「重衡」は廃曲になって
いたが、復曲された。
それによると木津川畔で斬首
されようとする時、従者の
知時が人垣を分けて重衡に
近づき懐中から弥陀仏を取
り出し、念仏を唱えた。

さらに南へ行くと交差点に
「親鸞聖人日野誕生院」の
石碑がある。
これを右折すると、地下鉄
「石田」に着きここで解散。










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