三井寺〜追分
                             2022年09月10日(土)


京阪三井寺9:41−9:50三尾神社−9:54長等神社−10:10長等公園10:15―9:29長安寺
10:34−10:39妙光寺−10:46安養寺10:50―11:00旧逢坂山トンネル11:05−
11:17関蝉丸神社上社(昼食)11:43―11:59逢坂の関記念公園12:04−12:16蝉丸神社−
12:23京阪大谷12:26―12:33車石―12:36月心寺−12:53摂取寺13:01―
13:05京阪追分(解散)

久々のウォーキングである。
京阪三井寺駅に11人集まった。
天気くもり28℃71%。

駅のすぐ横の琵琶湖疎水は土手が
鉄柵で囲われているが、「びわ湖大津」
の文字の入った鋳物製の鉄柵の
デザインは、疎水を流れる桜と
三角屋根を乗せた第一トンネルが
うまくデザインされていて、鉄柵の
殺伐感を和らげている。



東に歩き、北国橋と門を見下ろした。
琵琶湖の水位は、疏水路の水位よりも
高いため、水門を開閉し、琵琶湖と
疏水路の水位差を調整し、舟を通す
役割を果たしている。

北側に水量をコントロールする
1枚の制水門があり、南側に
通船用の2枚の閘門がある。

三尾神社(みおじんじゃ)を参拝した。
三尾って何のこと?
「長等山の山頂に腰に赤・白・黒の
三つの帯を付けた伊弉諾尊が降臨し
長等山の鎮守神となり、祀られた。
また、腰に付けた三つの帯が尾に見えた
ためにこの神は三尾明神といわれる
ようになった。」とのこと。



次は長等神社に参拝。裏口から
入ったら、五間社流造の本殿にでた。
「西暦667年頃の天智天皇の御世、
近江大津宮の鎮護として長等山岩座谷
の霊地に須佐之男命を祭祀された
ことを起源とする1300年の
歴史を持つ神社です。」とのこと。
表に回ると、豪華な朱塗りの楼門。
これは大津市指定文化財

南に歩いて、長等公園にむかった。
伊勢灯籠が並んだ奥に滋賀県神社庁
がある。



ここは桜の名所だが、今は緑が
うっそうとしている。
平忠度が平家都落ちの際に詠んだ
「さざ浪やしが(志賀)のみやこは
あれにしをむかしながら(長等)の
山ざくらかな」の歌碑がある。

一番奥に長等山不動尊があり、
そこから南へ行くつもりだったが、
通行止めになっていた。
仕方がないので、三橋節子美術館まで
もどった。
野草や、近江琵琶湖の伝説を措き、
35才で夭折した画家「三橋節子」の
美術館である。

山辺の道にはハギの花、白いセンニンソウ
が咲いていた。
ムカゴを見つけた人もいる。

左が開けビルの立ち並ぶ大津の町が
広がっている。



「長安寺西国三十三所」の石柱があるが
見送って、京阪上栄駅におりて、
線路沿いに歩く。

「長安寺踏切」を右折すると長い
石段があり、左手に「獣魂碑」
右手奥に「牛塔」とよばれる
高さ3.3mもある茶壷のような
石塔がある。
鎌倉時代初期につくられたものとか。

さらに登って長安寺の境内に入った。
住職が普段着で忙しくしている。
裏山は大木を機械を使って
切り出している。

境内には織田信長による
比叡山焼き討ちゆかりの
百体地蔵がある。



また小野小町供養塔は、能楽「関寺小町」
で有名である。

七夕の宵、寺のほとりに住む老女が
和歌の名人だと聞き及び、星の祭りに
誘おうと老女の庵を訪れる。
星の祭りが始まると、
美しい音楽が奏され、舞を
披露する稚児(子方)。
その優美な姿に、 小町の心中には若かりし日の
記憶が蘇り、自らも舞う。

「暇申して帰るとて
杖に縋りてよろよろと。
もとの藁屋に帰りけり 百年の姥と聞こえしは
小町が果ての名なりけり」

国道に出てすぐにイチョウの
大木があり、「妙光寺」の
踏切の向こうに日蓮宗
妙光寺がある。



運悪く踏切が閉まって、
先頭から取り残された。
山門前を京阪電車が走るのが
カメラスポットになっている。

JR東海道本線のトンネル「上関寺」
の上を京阪京津線が走る。

旧逢坂山隧道東口の前に来た。
明治11年10月5日東口から
又同年12月5日西口から
それぞれ掘索を始め、
約1年8ヶ月の歳月を費やして
明治13年6月28日竣工したもの。



全長664.8m。大正10年8月1日まで
東海道本線として使用された。
入口から10mほどが公開されて
いるので入ってみた。
トンネルの壁は小口の段
と長手の段を交互に積層させる
積み方で、強度に優れる
イギリス積み。その奥は
「京都大学防災研究所附属地震予知
研究センター逢坂山観測所」として
利用されている。
湧き水が出ているが、集められて
大津市の水道用水として使われている。
そのため大谷加圧ポンプ場」がある。

名神高速道路の高架橋の下を
過ぎると関蝉丸神社上社である。

横断歩道を渡ると水準点149.2mがあり、
石段の上に赤い鳥居と赤い柵がある、
さらに石段を60段ほど登ると拝殿である。

本殿は屋根がトタン張りでその上に
「蝉丸本宮」と書かれている。
拝殿の周りで昼食にした。



能楽「蝉丸」では、
蝉丸は延喜帝(醍醐天皇:885年?930年)
の第四皇子で、生まれつき盲目だった。
「蝉丸を逢坂山に捨てよ」との勅命を受け、
廷臣の清貫(きよつら)は蝉丸を
逢坂山に連れて行った。
蝉丸の髪を剃って出家の身とし、
蓑、笠、杖を渡し、別れた。
蝉丸は、琵琶を胸に抱いて涙の
うちに伏し転ぶのだった。
第三の御子、逆髪は、皇女に
生まれながら、逆さまに生い立つ
髪を持ち、狂人となって、
辺地をさ迷う身となっていた。
都を出て逢坂山に着いた逆髪は、
藁屋よりもれ聞こえる琵琶の音を
耳に止め、弟の蝉丸がいるの
に気づき、声をかけた。
ふたりは互いに手と手を取り、
わびしい境遇を語り合うのだった。

拝殿の表には、「せみのしみず」の石に
囲まれた水場がある。今は枯れているが
「蝉丸」では
逆髪が関の清水に自分の姿を映して
「げに逆髪の影映る 水を鏡と
夕波の現なの我が姿や」と嘆く。



国道沿いに歩いて、旧東海道との
分岐に付近に「逢坂山関跡」の石碑と
逢坂常夜灯が建っている。
石碑は昭和6年〜8年にかけて
行われた工事の時に建てられた
そうだ。
ここで記念写真を撮り、トイレ休憩。

ウナギのかねよの駐車場横から
石段を登って、蝉丸神社に着いた。
猿田彦命に琵琶の名手の
蝉丸霊を合祀している。



「これなる藁屋の内よりも。 
撥音高き琵琶の音聞こゆ。
  これ程の賤が家にも。・・
藁屋の雨の足音もせで。
密かに立ち寄り聞き居たり」と
逆髪はついに蝉丸を探し出す

京阪「大谷」で3人が帰った。

「大津算盤(そろばん)」の
案内板がある空き地に来た。
大津算盤(上が2個 下が5個の7つ玉)
は,慶長17(1612)年、片岡庄兵衛が,
明国から長崎に渡来した算盤を参考に、
製造を始めたものと伝える。

隣に「車石」を再現している。
荷馬車用に道路に敷かれていた
もので、案内板によると
「京都の心学者脇坂義堂は、
文化2(1805)年に
1万両の工費で、大津八町筋から
京都三条大橋にかけての約12kmの間に
牛車専用通路として、車の轍(わだち)
を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ、
牛車の通行に役立てました。」とのこと。

かつては東海道随一の賑わいを
していた追分の地で繁昌していた
走井茶屋の跡。
この辺りは元々、
豊臣秀吉が一里塚を築いて
休憩場所にした所。
蝉丸の庵があったと言われる場所には
「三聖祀堂(小町・蝉丸・芭蕉合祀)」が
あるそうだ。



石垣を登ると月心寺の山門である。
走井茶屋は、明治初期まで賑わったが、
茶屋はなくなった。
旧跡は大正四年(1915)、日本画家の
橋本関雪が自らの別邸として購入し、
後に天龍寺慈済院より村上獨譚老師を迎え、
1954年に「月心寺」となる。

追分に来た。
ここは東海道と奈良街道の分かれ道になる。
歩道橋から攝取院が一望できる。
攝取院の山門をくぐる手前の西側で
こんこんと湧き出る湧水は
おいしい。
近所の人が汲みに来ている。
浄土宗攝取院を参拝した。
京阪追分で解散になった。





















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