宇治 仏徳山〜朝日山〜明星山
                             2022年04月9日(土)


京阪宇治駅9:08−さわらびの道−9:19宇治上神社−9:45仏徳山展望台
9:50―9:45△仏徳山(131.6m)9:57−10:11朝日山10:25−10:48志津川車道−
11:01志津川訓練場登山口11:06-11:16鉄塔−11:30Ca204−11:01明星山229m
−11:42Ca249m (昼食)12:19―12:24明星山−12:32 Ca204 12:37-12:48鉄塔−
12:55登山口−13:12明星町児童公園登り口13:28十字路−13:49 P159−
14:11車道−14:37塔ノ島14:57―15:17太閤堤15:20―15:29京阪宇治

桜も散り始めた京阪宇治駅に16人参加。 
気温18℃、暑くなりそう。宇治川東岸に
沿って朝霧通りを歩き、
「さわらび」の道を歩く。
宇治神社を過ぎると、その奥に
宇治上神社の赤い鳥居。



その前の見事なシダレザクラ
に感激、宇治上神社は平安時代に
平等院の鎮守府となり、本殿は
一間社流造り(いっけんしゃながれつくり)
で、内殿3棟を並列させて、それを
覆屋根で覆った特殊な形式。
左右の社殿が大きく、中央が小さい。



宇治上神社境内の裏に、
「源氏物語宇治十帖 総角古蹟」の
碑があり、ここから整備された道を
ジグザグに登っていく。
東屋の休憩所を過ぎると展望台
にでた。

ここで案内役の地元のNさんが
待っていた。



白い桜(オオシマザクラ)から
南西に展望が開け、遠くまで
宇治の町が見える。

餌を入れたペットボトルが
木につるされていて、そこに
小鳥たちが飛んでくる。

さらに登ると、石がいっぱい
詰まれたケルンがある。
その裾に埋まりそうな
三角点があった。



三角点131.6m(点名「旭山」)。
ここが仏徳山で、大吉山とも
いうそうだ。

南東に降りた鞍部にも
ケルンがあった。







上の方から般若心経の読経が
聞こえた。

ここが朝日山観音、標高124m。

南西方向が開けて、平等院の屋根が
見下ろせる。

平等院から見ると朝日が
さす山である。

石の五重塔があり、ここにも
大きなケルンが築かれていた。



観音堂に戻ってなかに入ると、
ボクシングの選手が
少年の頃練習した丸太が
奉納されていた。

古い石碑は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
の墓所という。
菟道稚郎子は応神天皇の皇太子。

雑木林の尾根道をひたすら西へ進む。
台風で林は荒れていて通行禁止
の道もある。
所々に雨水をためる丸い槽がある。



志津川側の車道に降りた。
北に向かって車道を歩くと
送電線の訓練所になってその
北詰めから南下すると、側壁に
明星山の登り口があった。

一息入れて急斜面にとりつく。
雑木林の明るい森で見失いそうな山道を
上に上にと登っていく。
送電線の鉄塔に出た。
塔は緑に塗られているので、
周りの林に溶け込みやすい。



Ca204を超えると鞍部に降りて、
登り返すと、明星山
229mの山頂である。

ここで昼食かと思っていたが、
まだ先に進むらしい。





ゴルフ場の中だという五雲峰に
行くつもり行くつもりらしい。
つぎのピークCa249mまで来て
昼食になった。

ここから来た道を引き返すこと
になった。

Ca20の広い尾根で道を間違えかけたが、
GPSでチェックして修正、
無事下山した。

これから宇治川の塔ノ島まで行くらしい。
宇治発電所の導水路に沿って
明星町4丁目に移動、
下草が刈られた広々した
「明星児童遊園」から送電線の
巡視路を登っていく。



今日歩いた朝日山からの縦走路と
交差、さらに南下、
志津川の方から野球でも
しているのか
掛け声が聞こえる。





やっと247号線の車道におりた。

天ケ瀬吊り橋が見える。観光客と
すれ違いながら、朝霧橋をわたり、
塔ノ島の入口にでた。

そこにこの計画の指導者、
大先輩のN氏が待っていた。

記念写真を撮って解散。

希望者は太閤堤跡を見に行く。
京阪宇治駅の北側に
「お茶と宇治のまち歴史公園」があり、
その奥に丸山古墳がある。
これは莵道稚郎子皇子御墓ということで、
朝日山の莵道稚郎子皇子と同じ人物の
墓ということになる。
莵道稚郎子は遺言で散骨したそうだ。



その奥に太閤堤があった。
以前の宇治川は、宇治橋より
下流ではいくつもの流れに分かれ、
主要な流れは西へ向かって
巨椋池(おぐらいけ)に
流入していた。
秀吉は、築堤によって宇治川の
流路を一本化し、宇治川と巨椋池の
分離を図った。

こうした治水工事によって、
伏見への舟運交通を整備しまた、
築堤は陸上交通の整備にもつながった。

太閤堤の築造によって水流が変化し、
河岸に砂州の形成が促され、
砂州はやがて茶畑となった。

太閤堤の石積み護岸と「止め杭」と
呼ばれる杭列をみることができた。

























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