1 釈迦牟尼仏は、最初の説法(初転法輪)において、五比丘(僧侶)のひとり阿若憍陳如を最初に救われ、[八十歳のこの日]最後に訪ねてきたバラモンの須跋陀羅に教えを説いて救いました。まさに救うべき縁のある者はみなすでに救いおわり、一株から二本生えている沙羅の木の間において、いままさに涅槃に入ろうとしていました。それは夜半であり、だれひとりとして声を立てるものはありません。仏陀は弟子たちのために略して教えの要をお説きになりました。

【戒律】
2 あなた方僧侶方よ、私が入滅後においては、波羅提木叉を尊重し、敬いなさい。そうすれば、闇夜に明かりを得、脅しい人が宝を得たように救われるでしょう。まさに知るべきです。これこそ、あなた方の大師なのです。たとえ私がこの世に生きつづけたとしても、この波羅提木又と別物ではありません。[だから私をあてにしないで、自らを頼りにすべきです」浄らかな戒(慎み)を保とうとする者は、販売や貿易をしたり、田畑屋敷を所有したり、労働者や使用人、家畜などを蓄えてはなりません。すべて農耕と財産とは、火の穴を避けるように遠く離れるべきです。「なぜなら、所有欲は煩悩の根源だからです」草木を伐採し、土地を耕し、薬を調合し、吉凶の占いをし、星の占いをし、月の満ち欠けで月日をはかり、暦を計算したりしてはなりません。それらは、苦しみからの解脱を求める人にはふさわしくありません。身に節度を保ち、ふさわしいときに食べ、こだわることなく清らかに自立して命を養いなさい。世間の政治に参画し、敵味方の間に立って調停したり、まじないや霊薬をつくり、高貴な人にとりいり、おべっかを使うなどはあってはならないことです。それらはいずれもふさわしいことではないからです。まさしく自ら心をただし、正しい思い(正念)にして救いを求めるべきです。心のなかに自我の瑕庇(きず)を内包し、異様な行動をし、仲間を惑わすことがあってはなりません。飲食・衣服・臥具・医薬の四種の供養を受けたときには、必要な量の限度を心得、満足することを知るべきです。わずかな供養を受けて、蓄えをしようなどというさもしい心を起こすべきではありません。ここにすなわち略して戒を保つ在り方(相)を説明しましょう。或は、正しい解脱の根本です。それゆえに<別解脱>と名づけられるのです。この戒をよりどころにすれば、いろいろな落ち着き・静けさ(禅定)および苦を滅する智慧を生みだすことができるのです。それゆえにあなた方僧侶は浄らかな戒を保って、壊し欠くことがあってはなりません。もしも人がよく浄らかな戒を保てば、[真実と徳という]善き教えがあります。もし浄らかな戒がなければ、さまざまな善き功徳はみな生まれてこないでしょう。このゆえにまさに知るべきです。或は、第一番に穏やかな功徳のすみかであるということを。

【五根、五欲】
3 あなた方僧侶方よ、あなた方はすでによく戒に安住しています。それゆえにこそ、眼・耳・鼻・舌・身という五根を制御すべきです。わがまま(放逸)にして、[色欲・声欲・香のこだわり・味のこだわり・感触のこだわり、あるいは財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲(怠惰欲)という五つの]欲望に陥ることがないようにしなさい。それはたとえば、牛伺いが杖を見せて勝手放題に他人の植えた苗を荒らさせないようなものです。もしも五根を好き勝手にすれば、欲望を制限する畔がなく抑制することができないだけでなく、暴れ馬の轡を押さえて牽制しなければ、人を引きずって穴に落とすようなものです。強盗の被害は、苦しくても、この人生一代のことです。しかし、五根[による欲望]という賊の禍殃は次の世まで続き、その害毒たるや、甚だしいものがあり、慎まなければなりません。それゆえに智慧ある人は自制して[欲望に]従わないのです。この五根をもつことは賊に対するように、勝手放題にならないようにしなくてはなりません。たとえ、この五根を好き勝手にしたとしても、みな近いうちにその消滅を見ることになるでしょう。
この眼・耳・鼻・舌・身の五根は「心」を主人としています。それゆえにあなた方は心を制御すべきです。心というものの恐ろしさは、毒蛇・悪獣・敵や賊よりも甚だしいものです。大火事が手に負えないさまも喩にならないほどです。たとえば、ある人が蜜の入った器を手にもって、喜びのあまり動転して蜜ばかり見て、深い穴に気がつかないようなものです。また、狂った象に足カギがなく、猿が樹に登って跳ねまわって、とり押さえられないようなものです。だから急いで、この心をとり押さえて、わがままにならないようにすべきです。この心を好き勝手にすれば、人として書きことを失ないます。心をひとところに制御すれば、物事をわきまえないということはありません。そのゆえにあなた方僧侶はまさしく努め励んで、己の心を説きふせて従わせるべきです。


【飲食】
4 あなた方僧侶よ、いろいろな飲食の布施・恵みをいただくときは、まさに薬を服用するようにいただきなさい。好みのものであっても嫌いなものであっても、あるものは多くあるものは少なくしてはなりません。最低限、命を維持することを得たらよいのであって、それで飢えを除くのです。蜜蜂が花から蜜をとるときに、ただその蜜の味だけとって、花の色や香りを損なわないようなものです。僧侶もまたそうです。人様の供養をいただいて最低限に己の悩みを解消しなさい。必要以上に求めて施主の善き心を壊し傷つけてはなりません。たとえば、智慧ある人は、牛の力に見あった荷物をおもんばかって計算し、能力以上に積んで、その牛の力をすり減らしてしまうことがないように配慮するようなものです。

【惰眠・慙愧】
5 あなた方僧侶たちよ、昼間は心を励まして人として善き教えを修行して、時間を無駄にしてはなりません。夜の初めも(中ほども)夜の終わりもまた、励みの心を廃止してはなりません。夜半に仏の教えを口ずさんで自らを確かめなさい。限度を越えて眠り、やる気を失って、大切な人生を無 益に過ごしてはなりません。まさしく無常という火があらゆる世間を焼いていることを思いだして、早く自分で救いを求めるべきです。居眠りや怠惰で過ごしてはなりません。あらゆる煩悩という盗賊はいつもスキを狙って人を殺そうとしていることは、敵よりも甚だしいのです。どうして眠りにふけって自分から気づき目覚めないでいいものでしょうか。煩悩という毒蛇は、気づかないうちにあなた方の心のなかにいるのです。たとえば蜥蜴があなたの部屋に入りこんでいるのに知らずに寝てしまうようなものです。まさしく戒を保つというカギで、急いでこれをとりのぞくべきです。居眠りや怠惰という蛇が出ていったら、それから安心して眠りなさい。出ていかないのに眠るのはそれは恥知らずです。恥を知るという服は、多くの荘厳のなかで第一番なのです。恥じらいの心は、鉄のカギのように、よく人の悪しきことを制御します。それゆえにあなた方僧侶はいつも恥じる心をもつべきです。片時も忘れてはなりません。もしも恥じる心を忘れると、さまざまな功徳を失います。恥を知る人には必ず善き真実があります。恥を知らない者はいろいろな鳥や獣と違いがありません。

【怒り】
6 あなた方僧侶方よ、もしもある人がやってきてあなた方の手足をバラバラにしたとしても、まさに自分の心を内に落ち着かせて、怒り・恨みの心(瞋恚)を起こしてはなりません。また、正しく口を守って、ののしったり恨んだりする言葉をいってはなりません。もしも内心の怒りを好き勝手にすると、そのこと自体が自分の道を妨害し、功徳の利益を失います。忍耐は偉大な徳であって、戒を守り、苦行をすることなどは及びもつきません。よく忍耐する者は、それこそ名づけて「力のある人」(有力の大人)というのです。もしも悪口雑言という毒でも[縁として]喜んで忍耐し甘受して、美味しいものを飲むように受けとることができない者は、仏の道に入った智慧ある人とはいえないのです。理由はなにかといえば、怒りの害毒は、つまりいろいろな善き真実を壊し、善き噂を壊すのです。いまの人も、のちの世の人も、見たいとは思わないでしょう。まさに知るべきです。怒りの心は燃えさかる火よりも恐ろしいものです。常に口を守って、怒りの欲望に入らないようにしなければなりません。功徳を奪いとる賊のなかでも怒り以上のものはないでしょう。在家の純白の服を着て欲望のなかに住む、戒をもたない人であっても、相手への怒りを許すべきです。ましてや世間を出て修行し、欲望を離れた人でありながら、怒りを心に抱いているのは、甚だよろしくありません。たとえば、涼しい雲のなかに突然雷が起こるのはふさわしくないようなものです。
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[驕慢] 
7 あなた方僧侶方よ、まさに自らの意思で頭を剃りなさい。もうすでに飾りを捨てて、もとの色がわからない色の衣(袈裟)を着て、応量器(鉄鉢)をもって、乞食で自立して生きています。私を見てもこのとおりです。もしも慢心(驕慢)が起こったら、早くこれをとりのぞくべきです。慢心を増長させることは、在家の純白の服を着た人であってもあるべきようではありません。ましてや世間を捨てて仏の道に入った人は、煩悩の繰り返しから解放されるために、自らその全身をへりくだして、こうして乞食を行っているのではなかったのですか。

8[諂曲(へつらい)
 あなた方僧侶方よ、へつらいの心(諂曲)は解脱の道とは相反します。それゆえに己が心を正して質実かつまっすぐにすべきです。まさに知るべきです。へつらいの心は、ただ欺きと偽りをつくることを。仏の道に入った人にはそのようなことはありません。それゆえにあなた方は心をきちんと正して、質実かつまっすぐな在り方を基本とすべきです。

(以下は八大人覚) 
「小欲」1

7 あなた方僧侶方よ、まさに知るべきです。欲望の多い人は利益を求める気持ちが多いので、苦しみ悩むことも多いのです。欲の少ない人は求めるところも欲望もないからこうした心配はないのです。すぐにも欲の少ない人でさえなお修行すべきです。ましてや、欲の少ない人はさまざまな功徳を生むのですから。欲の少ない人はへつらって人の好意を欲しがることはありません。また、五根による煩悩に引きずられないのです。少欲を実践する者は、心が平らで憂いと恐れがありません。事態にふれても余裕があり、いつでも不満に思うことはありません。欲望が少ない者には静けさ(涅槃)があります。これを「少欲」というのです。

【知足】2
8 あなた方僧侶方よ、もしもいろいろな苦しみ・悩みから抜けだしたいと思うならば、まさに足るを知ること(知足)を観察すべきです。足るを知る教えは豊かで楽しく穏やかな世界です。足るを知る人は地面に寝ていても安楽だといいます。満足することを知らない人は、御殿に住んでいても満足することがありません。満ち足りない人は物があっても、心は貧しいのです。足るを知る人は、物はなくても心は豊かです。満足を知らない人はいつでも欲望に引きずられて、足るを知る人から哀れみの眼で見られることになります。これを「知足」というのです。

【遠離】3
9 あなた方僧侶方よ、静寂で損得を忘れた世界の安らぎを求めたいと思うなら、乱れてうるさいところを離れて一人居に静かに暮らすべきです。静かなところの人は、インドラ神(帝釈天)等の神々がともどもに尊重するところです。それゆえに自分の仲間や人々を離れて、静かなところに一人居して、苦悩を消滅させる根本を思うべきです。もしも人の群れにいたい人は大勢のために起こる悩みを受けます。たとえば、大きな樹に多くの鳥が集まると、枯れて折れる心配があるようなものです。俗世間の束縛と執着は大勢から起こる苦悩に埋没するのです。たとえば年老いた象が、泥沼に足をとられておぼれ、自分のカでは脱出できないようなものです。これを「遠離」というのです。

【精進】4
12、あなた方僧侶方よ、努め励んで心をこめて進む努力(精進)をすれば、物事として困難ということはないでしょう。それゆえにあなた方はまさに努め励んで、心をこめて進む努力をしなさい。たとえば、わずかな水が常に流れて石に穴をあけるようなものです。もしも修行者の心がしばしばやる気を失えば、たとえば火おこしの鑚をもむのに、まだ熱がたまっていないうちに疲れてやめてしまえば[すぐに冷めてしまい]、火を求めているのに、火を得ることは難しいようなものです。これを「精進」というのです。

【不忘念】5
13 あなた方僧侶方よ、善き導き手(善知識)を求め、善き道の友を求めたいと思うならば、心の方向を忘れないこと(不忘念)です。心の方向を忘れない人は、あらゆる煩悩という賊も入りこむことはできないでしょう。それゆえにあなた方はいつでも心の方向を内に落ち着かせておくべきです。もしも心の方向を失う人はさまざまな功徳を失います。心の方向を思うカが強く確かであれば、欲望という賊のなかに入っても、そのために欲望の危害ぽ受けないでしょう。たとえば、鎧を着ていれば戦場に入っても怖いことはないようなものです。これを「不忘念」というのです。

【定】6
14 あなた方僧侶方よ、心の方向を内におさめている人は落ち着きの静けさ(定)に安住しています。心が落ち着き、安住しているから、世間の生死無常の姿<縁起>がわかるのです。それゆえにあなた方はいつでも励んで、いろいろな落ち着きの修行をしなさい。落ち着きの静けさを得た人は心が散乱しないのです。たとえば、水を大切にする農家が田の畔や堤防をよく管理して修理するようなものです。修行者もまた同様です。[真実についての]智慧という水を大切にするからこそ、よく坐禅の静けさ(禅定)を実践して智慧を漏らさないようにするのです。これを「(禅)定」というのです。

【知恵】7
15、あなた方僧侶方よ、もしも真実なる智慧があれば、貪り・執着の心は起きないでしょう。いつでも自ら内省して、過ちなきようにしなさい。これは、私の教えのなかでよく煩悩の繰打返しからの解放を得ます。もしも、その智慧をもたない人は、もう仏道者とはいえません。また、在家でもなく、名づけようがありません。真実なる智慧の人は、老・病・死の苦しみの海を渡るしっかりとした船なのです。また、それは智慧の明かりがない闇夜を照らす大灯明です。すべて病む人の良き薬です。煩悩という樹を切る鋭い斧のようです。それゆえにあなた方よ、まさに聞法・思惟・実践の智慧をもって、自身で智慧の利益を成長させましょう。もしも人に真実なる智慧の明かりがあれば、肉体的な眼で見ているのであっても、智慧の眼で見る人といっていいでしょう。これを「智慧」というのです。

「不戯論(ふけろん)」8
16 あなた方僧侶方よ、もしも、さまざまなつまらない会話(戯論)をすれば、その心汚れ乱れます。それでは、出家して世間を離れたといっても、まだ世間の煩悩を脱出していません。それゆえにあなた方僧侶は急いで、心が乱れるつまらない会話を捨て離れるべきです。もしも、あなた方が静寂・静けさの喜びを得たいと思うなら、ただただ、つまらない会話を消滅すべきです。これを「不戯論」というのです。

17、あなた方僧侶方よ、さまざまな功徳をいただくなかで、さまざまなわがまま・気のゆるみは、敵や賊を避けるように、いつでもひたすらに捨て遠ざけるべきです。大いなる慈悲の仏の説くところのさとりの利益は、みなすでに完成しているのです。[それらを放免によって壊してはなりません]あなた方は、ただただ、努め励んでこれらを実践すべきです。山のなか、谷あいでも、あるいは大樹の下、静かなところ、静かな部屋にいても、いただいた教えを思いつづけて忘れてはなりません。いつでも自ら努め励んで、この教えを実践すべきです。人として為すべきことがなくて無益に死んだなら、あとで後悔するでしょう。私は名医が病気を珍断して薬を処方するようなもので、薬を服用するかしないかは医師の責任ではありません。あるいは道案内する人が人を正しい方向へ導くようなもので、案内を聞いても行かないのは、道案内する人の罪ではありません。

【四諦】
18、あなた方僧侶方よ、もしも苦諦(苦という現実)・集諦(苦の原因)・滅諦(原因の消滅)・道諦(その方法)という<四諦>の真理について疑問のある人は、急いでそれを質問しなさい。質問があるのに決着しないでいてはなりません」このとき、仏陀世尊は、このように三回仰せられましたが、問う人はありませんでした。なぜなら、人々に疑問がなかったからです。

19、そのとき、阿ヌ楼駄尊者は、人々の心を深く観察して、仏陀に申し上げました。「仏陀世尊よ、月が熱くなるようなことがあっても、太陽が冷たくなるようなことがあっても、仏陀のお説きくだされた<四諦>の真理に間違いはありません。仏陀のお説きくだされた苦諦の真理は真実苦であります。けして楽ということはありません。集諦の真理は確かに苦の原因です。ほかに原因はありません。苦がもしも消滅解消すれば、その原因である我愛も消滅します。原因たる我愛が消滅するから結果である苦も消滅するのです。苦を滅する<八正道>の教えは確かに真実の道です。そのほかの道はありません。仏陀世尊よ、これらの多くの僧侶たちは、<四諦>の真理のなかに安住し決着して、疑問はないのです。

20、この人々のなかに、もしも為すべき行いをまだわきまえていない人があったら、仏の入滅を見て悲しみ嘆くでしょう。もしも新たに仏の道に入る人であっても、仏陀の説くところの教えを聞いてみな救いを得るでしょう。たとえば、闇夜に稲光を見て、ただちに道を見つけることができるようなものです。為すべき行いをすでにわきまえ、すでに苦しみの海を渡った人は、このような思いをもつべきです。仏陀世尊の入滅は、なんとこのように早いものかと[あるがままに観察すべきです]

21、阿ヌ楼駄尊者が、このように説いて、人々はみな(四諦)の真理をさとったのですが、それでも仏陀世尊は人々のさとりをより確信させようとおぼしめして、大慈悲心をもって、再び人々のためにお説きくだされました。

22、「あなた方僧侶方よ、悲しみの心をもってはなりません。もしも私がこの世に生きることが一カルパ(一劫)ほど長くても、会い遇う人間同士はいずれ死に別れるのです。会って別れないことはありえないのです。自らを利益し、人を利益する教えはみな十分そなえています。もしも私が長く生きたとしても、これ以上に利益することはないでしょう。
まさに救うべき人は、天上界の者も人間界の者もみなすべてもう救いました。そのまだ救いにあずかっていない人には、みなすでに救いの縁を結びました。いまより以後、私の多くの弟子たちが伝え伝えてこれを実践すれば、つまり如来の真実の命はいつでもどこでも実現して、なくなることはありません。
それゆえにまさに知るべきです。世間はみな無常です。会う人は必ず別れるのです。憂いと悩みをもってはなりません。それが世間の真実の姿なのです。正しく励んで精進して早く解脱を求め、智慧の明かりをもって、多くの愚かさの閤を滅ぽしなさい。世間はまことに危うくもろいものです。確かなものはありません。私がいま入滅を得ることは、悪い病気をとりのぞくようなものです。執着のもとである命は、結局、捨てるべき罪深いものです。仮に名前をつけてか”身体”というのです。生き死にの大海に浮き沈みしているのです。どうして智慧ある人はこれを、敵や賊を殺すようにして、とりのぞくことを喜ばないということがあるべきでしょうか。


23、あなた方僧侶方よ、いつでもひたすらに世間の苦しみから脱けだす道を求めるべきです。世間で変化するもの変化しないものすべてはみな壊れ、よりどころとならない姿です。

24、あなた方、もうやめてください。もう、話さないでください。時はまさに過ぎようとしています。私は、完全な静けさ(般涅槃・無余涅槃)に入ろうと思います。これが私の最後の教え戒めるところのものです」

 仏陀が入滅にあたって、その教誡を簡略に説かれたお経です 参考:曹洞宗のお経解説HP》

(コピペーです)