第一章(総序)
《赤色文字が原文、黒色文字がその意訳です》
生を明らめ
我々が生きているということは、どういうことか、死とはどういうことか、その真実をはっきり見極めるのが
死を明きらむるは
仏教者として最も根本的問題であります。生まれてから死ぬまで、我々は迷い、
仏家一大事の因縁なり、
苦しみのまっただ中に生きているようですが、その生まれてから、死ぬまでの生きている現実の
生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、
中にこそ仏(覚ったひと)はいるのですから、迷い苦しむ生活としての生死はないのです。
但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、
ただこの生まれてきてから死ぬまでの現実そのものが、不生不滅の涅槃(さとり)の境地と心得たらいいのであって、
生死として厭(いと)うべきもなく、
そうなると、いやがり、きらうべき生死という迷いの生活もなく、ねがいを求めるべき
涅槃として欣(ねご)うべきもなし、
涅槃(さとり)の境地というものもありません。こうなった時、はじめて生まれてから死ぬまで迷い苦しむ
是(この)時初めて生死を離るる分(ぶん)あり
世界から完全に縁が切れた生き方が自分のものになります。生を明らかにし死を明らかにする、
唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。
ただこれこそが一番大事な根本問題であるということに徹底しなさい。
人身(にんしん)得(う)ること難(かた)し
人間の身に生まれてくることは、非常に得難いことであり、
仏法値(お)うこと希なり、
その上仏法にめぐりあうことも滅多にないことです。
今我等宿善(しゅくぜん)の助くるに依りて、
我々は今、前世で行った善根の力に助けられて、
已(すで)に受け難き人身を受けたるのみに非(あら)ず、
このように得難い人間の身に生まれてきたばかりでなく、
遭い難き仏法に値(あ)い奉れり、
滅多にめぐりあえない仏法にもめぐりあわせていただいているのです。
生死の中の善生(ぜんしょう)、最勝(さいしょう)の生なるべし
生まれては死ぬ存在の中では、一番善(めぐま)れた生涯であり、
最勝の善身を徒(いたづら)にして
最高にすぐれた生涯でありましょう。この最高にすぐれた
露命(ろめい)を無常(むじょう)の風に
善(めぐま)れた身を無駄にして、露のようにはかなく消える命を
任(まか)すること勿(なか)れ。
無常(死)の風の吹くに任せて終わらせてはなりません。
無常憑(たの)み難し、
死(無常)というものは、いつやってくるか、予想も
知らず露命(ろめい)いかなる
つかないものです。草叢に宿る命のようなはかない命は、いつ、どこで消えるか全くわからないものです。
道の草にか落ちん、身已(すで)に私(わたくし)に非ず、
大体、自分のこの身体というものが、(因縁和合でできているのもので)自分のものではありません。
命は光陰に移されて暫くも停(とど)め難し、
命は又、光陰と共に先が短くなるもので、ちょっとの間も引き止めておけるものではありません。
紅顔いづくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし。
少年の日の若さにあふれたあの顔は、どこへいってしまったのでしょう。探し求めようとしても、あとかたもありません。
熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢(お)うべからざる多し、
よくよく観察してみると、過ぎ去ったことは、二度とめぐり逢えないことです。
無常忽(たちま)ちにいたるときは国王大臣親昵(しんじつ)従僕(じゅうぼく)
死(無常)が突然にやってきた時には、国王も大臣も、親しい友も従う部下も、
妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉(こうせん)に趣(おもむ)くのみなり
妻子も財産も、手を貸してはくれるわけにはいかないのです。たった一人で黄泉(あのよ)へ旅立つばかりです。
己(おのれ)に随(したが)い行くは只是れ善悪業等(ごっとう)のみなり、
どこまでも自分についてくるものといっては、ただ自分が作った善行・悪行ばかりです。
今の世に因果を知らず、業報(ごっぽう)を明らめず、三世(さんぜ)を知らず
現代において、因果の道理を知らず、善悪の業(おこない)にはかならず善悪の報いがあることをはっきりさせず、
善悪を弁(わき)まえざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず、
現世があれば過去世もあり、未来世もあるということを知らず、善とは何か、悪とはなにかという分別もない
大凡(おおよそ)因果の道理歴然(れきねん)として私なし、
間違った見(かんがえ)の人々が多いのです。そういう人々の群(なかま)になってはなりません。すべて因あれば果ありという
造悪(ぞうあく)の者は堕ち、修善(しゅぜん)の者は陞(のぼ)る、
実際のすじ道は歴然とあらわれていて、人間の自分勝手は全く通用しないのです。
毫釐(ごうり)もたがわざるなり、
悪を造るものは、悪い境遇に落ちていき、善事修(つと)める者は良い境遇になってゆき、毫釐でついたほどのくるいもありません。
若し因果亡(ぼうじて)虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、
もし因もなく、果もなく、なんにもないということになったら、諸仏がこの世に出現されるということもなく、
祖師の西来(せいらい)あるべからず。
菩提達磨尊者がインドから遥々中国まで来て仏法を伝えて下さるということもあるはずがないのです。
善悪の報(ほう)に三時(さんじ)あり、
善行、悪行の報いについては、その報いを受ける時から言って、三種あります。
一者(ひとつには)順現報受(ほうじゅ)、
第一は、順現報受です。この世で行った善悪の報いをこの世で受けます。
二者(ふたつには)順次生受(しょうじゅ)
第二は、順次生受です。この世で行った善悪の報いを次の生で受けます。
三者(みつには)順後次受(じじゅ)、これを三時という、
第三は、順後次受です。この世で行った善悪の報いを、この世では受けず、次の世でも受けず、次の次の生以後、百千生の間に受けるのです。これを三時といいます。
仏祖の道を修習(しゅじゅう)するには、
仏祖の道を修行していくには、
其の最初よりこの三時の業報(ごっぽう)の理を効(なら)い験(あき)らむるなり、
その最初から、この三時にわたって善悪の行いに報いがあるという理をよく聞いて、はっきりさせておくのです。
爾(しか)あらざれば多く錯(あやま)りて邪見(じゃけん)に堕つるなり。
そうでないと、多くは間違って、邪見(因果の道理をわきまえない間違ったかんがえ)におちいり、
但(ただ)邪見に堕つるのみに非(あら)ず、悪道に堕ちて長時(ちょうじ)の苦を受く。
そればかりでなく、三悪道におちて長時の苦しみを受けます。
当に知るべし
だから、よくよく知っておかなければならないのです。
今生(こんじょう)の我身(わがみ)二つ無し、
この世に生を受けた自分の身体はたった一つ、二つも三つもあるものではありません。
三つ無し、
もし、因果を否定する間違った考えにおちいると、この大事な身体で悪業をつくり、
徒(いたず)らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得(かんとく)せん
悪の報いを身に受けなければなりません。それは全く何の役にも立たぬ無駄なことで、
惜(おし)からざらめや、悪を造りながら悪に非(あら)ずと思い、
何ともったいないことではありませんか。また、悪を造っておいて悪ではないと
悪の報(ほう)あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて
思っていたり、悪の報いなんかあるはずがないと、間違った思惟(かんがえ)を持つことによって、
悪の報(ほう)を感得(かんとく)せざるには非(あら)ず。
悪の報いを身に受けないですむというものではありません


第二章(懺悔滅罪)

仏祖憐(あわれ)みの余り広大の慈門(じもん)を開き置けり、
仏祖は、衆生の迷い苦しみを見かねて、誰でもいつでも入れる大きな救いの門を開いておいてくださった。
是れ一切衆生(じゅじょう)を証入(しょうにゅう)せしめんが為なり、
これは、すべての人をして、みずから体験し悟らしめんとするためである。
人天(にんてん)誰(たれ)か入らざらん、
これを聞いて、入ろうとしない者がいるだろうか。
彼(か)の三時の悪業報(ごっぽう)必ず感ずべしと雖(いえど)も、
さて、われわれが良からぬ行為をするならば、その影響はあとに残ってくるが、
懺悔(さんげ)するが如きは重きを転じて軽受せしむ、
もし、仏祖の教えにしたがって懺悔するならば、悪影響も好転して軽く受けることが出来よう。
又滅罪清浄(めつざいしょうじょう)ならしむるなり。
また、さらにいえば、心は清々しい爽やかな気持ちに戻らせてもらえるのである。
然(しか)あれば、誠心(じょうしん)を専らにして前仏(ぜんぶつ)に懺悔すべし
ゆえに、まごころこめて、仏の前に自らの罪過を告白し、その許しを乞うところの懺悔の行をするがよい。
恁麼(いんも)するとき前仏懺悔の功徳力(くどくりき)我を拯(すく)いて清浄ならしむ、
こうすると、懺悔の功徳があらわれて、われわれを罪の苦しみから救い、重苦しい捉われより解き放ってくれるのである。
此(この)功徳能(よ)く無礙(むげ)の浄信(じょうしん)精進を生長(しょうちょう)せしむるなり。
そればかりでない、のびのびとした深い心情にみちびいてくれ、心機一転、これからしっかりやるぞという気持ちや、報いは報いとして甘んじて受け、その償いをしようとする決意すら生まれてくるのである。
浄信一現(いちげん)するとき、自佗(じた)同じく転ぜられるなり、
このような気持ちになると、自分のみか接する人びとも変わってくるのである。
其(その)利益(りやく)普(あまね)く情非情に蒙(ごう)ぶらしむ。
人は、懺悔したおかげによって、ほとけごころとなり、心のはたらく人間や動物に対してだけでなく、心なき木石等あらゆるものに愛情が豊かになるのである。
其(その)大旨(だいし)は、願わくは我れ設(たと)い過去の悪業(あくごう)多く重なりて障道の因縁ありとも、
さて、懺悔の仕方のおおよそをいうと、こういう気持ちをもって、仏にお願いするとよい。「わたくしは、たとえ過去の罪過が多く積もって、求道の妨げになっている救いがたい人間でありましょうとも、
仏道に因りて得道(とくどう)せりし諸仏諸祖我を愍(あわれ)みて
どうか、仏道によっておさとりになられた仏祖のかたがたよ、わたくしを愍んで、
業累を解脱せしめ、学道障(さわ)り無からしめ、
従来積んできた我見妄想より解き放ってくださり、求道が開けてくるようにお導きください。
其(その)功徳法門普(あまね)く無尽法界(むじんほっかい)に充満弥綸(みりん)せらん、
その功徳広大なみ教えと、天地万物に普く及ばれている大慈悲とを
哀みを我に分布すべし、
わたくしたちにもお分かちくださいますように」と、静かに祈るのである。
仏祖の往昔(おうしゃく)は吾等(われら)なり、
そして、仏祖も昔は私たちと同じように悩まれたのだ。
吾等(われら)が当来は仏祖ならん。
我等も一生懸命でやりさえすれば、仏祖のような心境に近づくことが出来るのだ、と心にいいきかせ、勇を鼓するのである。
我昔所造諸悪業(がしょくしょぞうしょあくごう)
我れ昔より造れるところのもろもろの悪業は、
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
皆いつとも知れず我が身にまつわりついている貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚(おろか)さの妄想が原因である。
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
他から来たのではなく、すべて我が身、我が口、我が意(こころ)から生じた罪過である。
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
わたくしは今、仏の前に一切を懺悔する。
是(かく)の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、
このように懺悔すると、必ず仏祖は目にみえぬお力をかしてくださるのである。
心念身儀(しんねんしんぎ)発露(ほつろ)白仏(びゃくぶつ)すべし
だから、仏祖の慈悲を心に念じ、端坐合掌、懺悔の文を口に唱えて、一切を告白するがよい。
発露(ほつろ)の力罪根(ざいこん)をして
自分をさらけ出し、投げ出すまごころの力は、必ずや罪過をつくり出す根ともいうべき貪瞋癡の妄想を消滅せしめ、
銷殞(しょういん)せしむるなり。
清浄なる心境に至らしめてくれるのである。懺悔こそ新生の第一歩である。


第三章(受戒入位)

次には深く仏法僧の三宝(さんぼう)を敬い奉るべし、
次には、最高の人格である仏・すべてに通じる真理の法・そして法を依り処とした和平の相である僧を三つの宝といい、仏の教えを仰ぐものは、この三つの宝を深く敬うのでなければならない。
生(しょう)を易(か)え身を易えても
生まれかわり、死にかわりし、また、この世で苦しく悲しい時でも、楽しく嬉しい時でも
三宝を供養し奉らんことを願(ねご)うべし、
三つの宝を依り処とし、あこがれの心を忘れまいと誓い願うのでなければならない。
西天東土(さいてんとうど)仏祖正伝(ぶっそしょうでん)する所は
インドから中国を経て、真実の道を正しく伝えてこられた祖師がたの生きざまは、
恭敬(くぎょう)仏法僧なり。
この三宝を敬い、尊ぶということであった。
若し薄福少徳(はくふくしょうとく)の衆生(しゅじょう)は
もし、正信もなく欲望のまにまにすごし、福徳が薄く少ない人びとありとすれば、このような人たちは
三宝の名字(みょうじ)猶お聞き奉らざるなり、
三宝の名前すら耳にすることはないであろう。
何(いか)に況(いわん)や帰依し奉ることを得んや、
ましてや、三つの宝に全生命を投げ入れて、依り処とすることなどあろうはずがない。
徒(いたづら)に所逼(しょひつ)を怖れて山神鬼神等に帰依し、
そして、自らが招きながら他の何のものかに逼(せま)られていると思い、身の不安におびえて、ついに山の神だとか、得体の知れない鬼神を憑(たの)みとし、
或は外道の制多(せいた)に帰依すること勿れ。
また、邪教の霊廟にすがるような愚かなことをしがちであるが、そのようなことをしてはならない。
彼は其(その)帰依に因りて衆苦(しゅく)を解脱すること無し、
そのようなものを依り処としたところで、物心両面にわたる、いろいろな苦しみから、のがれることができるものではない。
早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、
早く仏と法と僧との三つの宝を、おのれの生命の依り処とし、
衆苦を解脱(げだつ)するのみに非(あら)ず菩提を成就(じょうじゅ)すべし。
いろいろな苦しみから、とき、はなたれ、のがれるだけでなく、正しい智慧に目覚めるということこそ果たすべきみちである。
其(その)帰依三宝とは
まず三宝に帰依する作法の基本は、
正に浄信(じょうしん)を専らにして、
正しく、まじりけの無い信心を傾かたむけ
或は如来現在世にもあれ、或は如来滅後にもあれ、
み仏がこの世に在(いま)した時でも、また、み仏が入滅された後であろうが、
合掌し、低頭(ていず)して口に唱えて伝(いわ)く南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、
常に合掌、礼拝し、口に南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧とお唱えするのである。
仏は是れ大師なるが故に帰依す、
かくて、偉大なる導師(みちびきて)たる仏に帰依し、
法は良薬なるが故に帰依す、
迷妄の病を癒す良き薬である法を頂き、
僧は勝友(しょうゆう)なるが故に帰依す、
勝れた友達である僧と和してゆくのである。
仏弟子となること必ず三帰に依る、
仏弟子となるには、必ず仏法僧の三宝に帰依すべきであり、
何(いづ)れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後(そのご)諸戒を受くるなり
仏教の世界には、いろいろな戒律もあるが、どんな戒を受けようとも、まず三宝に帰依し、その後でいろいろな戒を受けるべきであり、
然(しか)あれば則ち三帰に依りて得戒(とくかい)あるなり。
従って三宝帰依によってのみ、初めて受戒ができ得たというべきである。
此(この)帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交(かんのうどうこう)するとき成就するなり、
我が身を仏のいえに投げ入れ、三宝を絶対の依り処とするときのはたらきは、必ず自らの心と三宝の徳がひびきあい、交わりあい、一体となるときにのみ成し就げられるのである。
設(たと)い天上人間地獄鬼畜なりと雖(いえど)も、
世には、有頂天になっているものもあれば、ウカウカしている人間もあれば、苦しみにあえぐものもあれば、苦しみにあえぐものもあれば、 たえず飢えガツガツしている餓鬼や、無知で愚かな心をもつものもいるようであるが、
感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、
ひとたび仏法を学び、我が仏に入り、全く一体となれば、どんな人でも、そのさまを帰依というのである。
已(すで)に帰依し奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、
すでに、この処に至って安心決定すれば、生きかわり、死にかわりして、いずこにあろうとも、そのすぐれたはたらきが増し、
必ず積功(しゃっく)累徳し、阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみゃく)三菩提を成就するなり、
そのはたらきを積み重ねざるをえなくなり、そこに、この上ない、すばらしい悟りの道を得るのである。
知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深(じんじん)不可思議なりということ、
三宝帰依のはたらきは、もっとも尊く、この上なく実に深いことは、
世尊已(すで)に証明(しょうみょう)しまします、
仏陀釈尊がすでに証明してくれているのだから、
衆生当(まさ)に信受すべし。
この世のすべての人は、この証明を心から信じうけがうべきである。
次には応(まさ)に三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を受け奉るべし、
次には、まさに三つの総合的な清浄の誓願の戒を受けなさい。
第一摂律儀戒(しょうりつぎかい)、
第一は、すべての不善を為さないこと、
第二摂善法戒(しょうせんぼうかい)、
第二に、あらゆる善行に励むべきこと、
第三摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)なり、
第三に、永く世のため人のために尽くそうと誓うことである。
次には応に十重禁戒を受け奉るべし、
次に十項目の大切な禁戒(いましめ)を守と誓いなさい。
第一不殺生戒、第二不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、
即ち、第一いのちあるものを、ことさらに殺さず、第二に与えられないものを手にすることなく、
第三不邪婬戒、第四不妄語戒、
第三に道ならざる愛欲を犯すことなく、第四にいつわりの言葉を口にせず、
第五不コ酒戒、第六不説過戒、
第五は酒に溺れて生業を怠らず、第六他人の過ちを責めたてず、
第七不自賛毀佗戒、第八不慳法財戒、
第七己れを誇り他を傷つけず、第八物でも心でも施すことを惜しまず、
第九不瞋恚戒(ふしんいかい)、第十不謗三宝戒なり、
第九怒りに燃えて自らを失わず、そして第十仏法僧の三宝を謗(そし)り不信の念を起こすまいと誓うのである。
上来三帰、三聚浄戒、十重禁戒、
以上、これら三つの帰依の信仰と、三つの清らかな誓願と、そして十条の戒めの実行とは、
是れ諸仏の受持したまう所なり。
もろもろのみ仏が、正しいいきかたとしてうけがい、持たれてきた道なのである。
受戒するが如きは、
受戒といい、仏道のきまりを守る、と請願することは、
三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、
過去、現在、未来にわたり、常にいます、あらゆるみ仏のお悟りになった最高無上の道であり、 金剛石の如く壊(やぶ)れることのない仏としての完全な人格が具わるのである。
誰(たれ)の智人か欣求(ごんぐ)せざらん、
正眼(まさめ)でものをみる智慧ある人なら、誰でも欣(よろこ)んで、これを求めないものはなかろう。
世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、
仏陀釈尊は、あきらかに、この世のすべての人びとに、この理(ことわり)を示しておられる。
衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位(くらい)に入(い)る、
即ち、世の人びとが、仏の戒法を受け誓願の式を修すれば、そのまま、み仏の位に入り、
位(くらい)大覚(だいがく)に同じうし已(おわ)る、
大いなる覚者(めざめたもの)として、仏陀釈尊と同じ資格を得、
真(まこと)に是れ諸仏の子(みこ)なりと。
まがうことなくみ仏の子となるのである、と。
諸仏の常に此中(このなか)に住持たる、
あらゆるみ仏が、この戒法の世界にあって、安らかに住し、これを持ち続けるさまは、
各各の方面に知覚を遺さず、
意識的に、それを知り、感ずるというような心のとらわれを残していないから、戒を、すべし、とか、すべからず、と受けとめるのではなく、
群生の長(とこしな)えに此中に使用する、
そうせずにはおられない完全自在の世界に遊んでいるのである。戒法を頂き、すでに諸仏の位に入り仏と同体の群生(よのひとびと)が、 長く仏道の中に生きる、使用するといっても、知り感ずるという心の思いがなくなるわけではないが、
各各の知覚に方面露(あらわ)れず、
思うに心にカゲやしこりがあらわれることなく、純真そのもので、これを受戒の誓願を果たしたさまというのである。
是(この)時十方法界(じっぽうほっかい)の土地草木牆壁(しょうへき)瓦礫(がりゃく)皆仏事を作(な)すを以て、
それは、ちょうど天地に存する土地や草木の自然界にも似て、垣根、壁土、瓦や小石のはてまで、みなそれぞれが、その役目を果たしており、
其(その)起す所の風水の利益(りやく)に預る輩(ともがら)、
風の恵みで草木は花を開き実を結び、水の流れにうるおいをえ、常に相関し自らも生かされ、また他を生かすという、
皆甚妙不可思議の仏化に冥資(みょうし)せられて親(ちか)き悟りを顕(あら)わす、
人の気付かないままの資(たす)けあいの中で、その本領を発揮しているごときのもので、
是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、
それを悟を顕(あらわ)すというのである。これは、たくまず、はからいのない自然(じねん)のはたらきの力というべきで、
是れ発菩提心なり。
これにめざめさせて頂く受戒の誓願に生きるすがたを、まことの仏心が発(お)きたというのである。


第四章(発願利生)

菩提心を発(おこ)すというは、
ほとけ心に目覚めた生き方をするということは、
己(おの)れ未だ度らざる前に
自分本位の心を捨て、
一切衆生を度さんと発願し営むなり、
人のため世のため、生きとし生けるもの全てのもののために尽くすという誓願をおこし、実践することである。
設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、
在家であれ出家であれ、
或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、
或いは順境にいようと逆境にあろうと、どんな立場であっても、それを少しも意に介せず、
苦にありというとも楽にありというとも、
苦しい時も楽しい時も、
早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発(おこ)すべし。
真っ先に自分のことは勘定に入れず、周囲のものの真の幸福のために、ほとけ心をおこすことが肝要である。
其(その)形陋(いや)しというも、
その容姿が醜く粗末であっても、
此(この)心を発(おこ)せば、
このほとけ心をおこしさえすれば、
已(すで)に一切衆生の導師なり、
それで素晴らしい指導者といえるのである。
設(たと)い七歳(しちさい)の女流なりとも
それが、たとえ幼い女子であっても、
即ち四衆(ししゅ)の導師なり、
あらゆる階層のよき導き手であり、
衆生の慈父(じふ)なり、
全ての衆生の慈愛溢れる親である。
男女(なんにょ)を論ずること勿れ、
そこに男女長幼を論議する沙汰のものでは更にない(要はほとけ心をおこすか否かによる)。
此れ仏道極妙(ごくみょう)の法則なり。
これが仏道における実に尊い鉄則である。
若し菩提心を発(おこ)して後、
真にほとけ心が徹底して心の立て直しが出来たなら、
六趣四生(ろくしゅししょう)に輪転すと雖(いえど)も
どんな境遇に生まれても、
其(その)輪転の因縁皆菩提の行願(ぎょうがん)となるなり、
その時その場の出来事が悉く仏道修行を増進する因縁となるのである。
然(しか)あれば従来の光陰は設い空(むなし)く過すというとも、
たとえこれ迄は空しく月日を過ごしたとしても、
今生(こんじょう)の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願すべし、
今の生命のある中に心を改めて、人生の再出発をしなければならない。
設(たと)い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、
すでに善根功徳が円熟して成仏の資格が調っていても、
尚お廻らして衆生の成仏得道(とくどう)に回向するなり、
その功徳を他の多くの衆生(もの)の成仏得道のために廻らすがよい。
或は無量劫(ごう)行いて衆生を先に度(わた)して自からは終(つい)に仏に成らず、
そして永劫をかけ自分を忘れて、
但し衆生を度し衆生を利益(りやく)するもあり。
ただ一向に全ての衆生を済度する聖行にいそしむ菩薩方もあるのだから。
衆生を利益すというは四枚(しまい)の般若あり、
世の中の衆生(もの)を利益するために、四通りの大切な法(おしえ)がある。
一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語(あいご)、
布施(ふせ)、愛語(あいご)、
三者(みつには)利行(りぎょう)、四者(よつには)同時(どうじ)、
利行(りぎょう)、同時(どうじ)の四つである。
是れ則ち薩垂の行願なり、
いやしくも世の中の幸福をねがう程の人は、請願し、これを実行しなければならない。
其(その)布施というは貪らざるなり、我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、
その第一の布施というのは、心清浄にして欲の汚れを離れることである。それ故、財がなく、力がなくても、他の施すのを見て讃歎随喜するのも立派な布施行である。
其物の軽きを嫌わず、其功の実(じつ)なるべきなり、
施物の軽重や多少よりも布施の精神に叶っているか否かが問題である。
然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、
だから一句でも一偈でもよい、親切にみ法を施すがよい。
此生侘生(ししょうたしょう)の善種となる、一銭一草の財(たから)をも布施すべし、
必ず今生後生に花咲かす種となる。一銭でも一草でもよい、たとえ些細な施しであっても、
此世侘世(しせたせ)の善根を兆す、
現世来世に実を結ぶ縁となるのである。
法も財(たから)なるべし、財(たから)も法なるべし、
法と財とは別物ではない。元来一つのものの裏表であるから、物心不二、財法二施の妙行が円満すれば功徳は無量である。
但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒(わか)つなり、
自分の出来得る限りの力を分かち与えて喜捨し、しかもその代償を期待してはならない。
舟を置き橋を渡すも布施の檀度(だんど)なり、
このような布施の精神ですれば船の運航も架橋の作業も、
治生(ちしょう)産業固より布施に非ざること無し。
更には政治・経済・産業も悉く尊いものとなる。
愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発(おこ)し、
第二の愛語というのは、慈悲、慈愛の心をおこし、
顧愛の言語を施すなり、
愛情豊かな親切な言葉でもって、全ての衆生(もの)に語りかけることである。
慈念衆生(じねんしゅじょう)猶如(ゆうにょ)赤子(しゃくし)の懐(おも)いを貯えて言語するは愛語なり、
それは乳児を愛撫する母親の心を心として語る姿である。法爾自然に沁み出る慈愛の心が、言葉となって現れた時、
徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、
心素直にして善き行いをする人を見れば、ありのままにこれを讃え、心邪見にして行い悪しき人に対しては、気の毒に思いこれを憐れむべきである。
怨敵を降伏(ごうふく)し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、
怨みにおもう敵の怒りを鎮め、世の人間関係を仲睦まじく和合さすことも、慈愛の言葉が根本である。
面(むか)いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、
誰人でも面と向かって愛語を聞けば、心楽しく笑顔も浮かぶ。
面(むか)わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、
人づてに愛語を耳にすれば、その感激は更に深く、肝に刻み心に刻んで忘れはしない。
愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。
その上、慈悲哀愍の心を元にした愛語は、天子の御心をも動かす如くの力があるのである。このことをよくよく承知し勤め修すべきである。
利行というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧(ぜんぎょう)を廻らすなり、
第三の利行というのは、貴賎貧富のわけへだてなく、平等に他を利益するためのよき手だてを廻らすことである。
窮亀(きゅうき)を見病雀(びょうじゃく)を見しとき、
たとえば、晋の孔愉は漁夫に捕らえて苦しんでいる亀を救って水中に放し、後漢の揚宝は傷ついた雀を助けて野に放ち、後に彼らの恩返しによって立身出世したという話がある。
彼が報謝を求めず、唯単(ひと)えに利行に催おさるるなり、
その行為は利行の心に催された止むに止まれない心の発露であって、ご恩返しをしてもらおうという、打算的なものは微塵もなかったのである。
愚人(ぐにん)謂(おも)わくは利侘を先とせば自らが利省かれぬべしと、
愚かな者は他を利することを先にすると、自分は損をすると思いがちであるが、
爾(しか)には非(あら)ざるなり、
決してそうではない。利行そのものは自他の隔てなく、平等に大利益を被るのである。
利行は一法なり、普(あまね)く自侘を利するなり。
利行とは一つ仕組みの歯車で、あちらを回せばこちらも回る、こちらを回せばあちらも回る。回りまわって共に生きる道である。
同時というは不違なり、
第四の同時というのは、本来の面目である
自にも不違なり、侘(た)にも不違なり、
自己の本心にも背かず、相手の立場をも犯すことなく、共在調和、円融無碍の作用をすることである。 衆生を善道に導くためには、和光同塵の方便を必要とするが、自分を捨てて相手と同じ心、同じ境遇になって、仏ごころを働かせる。これが同時である。
譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、
人間を済度する如来は、托胎・出生・発心・修行・成道と、人間の相をして出現なされ、人間の踏むべき道を踏んで仏となられたのである。
侘をして自に同ぜしめて後に自をして侘に同ぜしむる道理あるべし、
同時の極意は、大慈悲心をもって他の一切のものを包容することである。この力量があってこそ、自分を他に同じうせしめることが出来る。
自侘は時に随(したご)うて無窮なり、
自分と相手が付かず離れず有無相通ずれば、時に随い事に触れて、千変万化窮まりはない。
海の水を辞せざるは同時なり、
海が清濁併せ呑み、大河細流を全て受け入れて辞するところがないのと同様である。
是故(このゆえ)に能く水聚(あつま)りて海となるなり。
これによって、渺々たる大海の同一塩味となる。これが同時行の様子である。
大凡(おおよそ)菩提心の行願(ぎょうがん)には是(かく)の如くの道理静かに思惟すべし、
ほとけ心の請願と実践について、概略は以上述べた如く、自分のことは兎も角も、先ず他のために尽くす心をおこし、四通りの法を守ることである。 四通りの法とは、布施(物でも心でも惜しみなく他に与える)・愛語(やさしい慈愛の言葉がけをする)・利行(無条件に相手のためにする)・同時(自分と相手と一つになる)である。
卒爾にすること勿れ、
ここの道理を深く考え、静かに思いを廻らせて、決して疎かにしてはならない。
済度(さいど)摂受(しょうじゅ)に一切衆生皆化(みなけ)を被(こう)ぶらん
一切の衆生を悉くを受け入れて、漏らさず救い助けようという、大請願の営みによって全ての衆生が、 その教化を頂戴することができるのであるから、それは実に広大無辺な功徳である。更にまた、この行願の徳がすでに自分自身に具わっているならば、 それこそ我が身ながらに尊い菩薩である。
功徳を礼拝(らいはい)恭敬(くぎょう)すべし。
こうした功徳を丁重に礼拝し恭敬して、汚さないようにしなければならない。


第五章(行持報恩)

此(この)発菩提心(ほつぼだいしん)、多くは南閻浮(なんえんぶ)の人身(にんしん)に発心すべきなり、
この仏心は、人間の身心を受けて此の世に生まれてきた、このすがたに於てこそ、起きて来る勝れたこころである。苦しみのあって楽しみのないすがた、 楽しみのあって苦しみのないすがた、そういうすがたをうけたものの中からは、この仏心は起きてこない。
今是(かく)の如くの因縁あり、
思えば今、過去世より重々無尽の因と縁とによって、
願生此(し)娑婆(しゃば)国土し来(きた)れり、
長い長い間の願いがかなってこの娑婆の世界に生を受けることが出来た喜び、
見(けん)釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。
そして又この娑婆世界の釈迦牟尼世尊にあい奉る喜び、この勝れたる喜びは、比べるものなき喜びである。
静かに憶(おも)うべし、正法(しょうぼう)世に流布せざらん時は、
さらに又、思いを深めて考えて見ると、正しいみ教えに従って、そのみ教えの中に身を投げ入れて、己の見解を捨て去って、 教えのままに行じていこうと思っても、その正しいみ教えが、この世に行われていないならば、
身命を正法の為に拠捨(ほうしゃ)せんことを願うとも値(お)うべからず、
いかほどその願いが強くても、如何ともすることができない。
正法に逢う今日(こんにち)の吾等を願うべし、
幸いにして、今は正しいみ教えに逢い奉る喜びを思うべきであり、
見ずや、仏の言(のたま)わく、
釈迦牟尼世尊の御示しをあきらかにしっかりとうけよう。
無上菩提を演説する師に値(あ)わんには、
無上の道を演べ説き給う師に値う時には、
種姓(しゅしょう)を観ずること莫れ、
その人の人種や膚の色などによって偏見を以って観てはならない。
容顔を見ること莫れ、
又顔や容姿によって判断してはならない。
非を嫌うこと莫れ、
更にその人の欠点を拾い上げたり、
行(おこない)を考うること莫れ、
その行いの是非を論じてはならない。それは批評したり論じたりするのは、批評したり論じたりする人間の尺度によることであって、
但(ただ)般若を尊重(そんじゅう)するが故に、
どのようなすがた形をしているものの中にも、どのようにつまらぬと思われる行いをしている者の中にも、きらめくような仏性のすがたがあり、智慧の輝きがあるから、その尊さにひれ伏して、
日日三時に礼拝(らいはい)し、恭敬(くぎょう)して、
日々朝夕に礼拝して、
更に患悩(げんのう)の心を生ぜしむること莫れと。
余計なことは思い患うことはない。
今の見仏聞法(けんぶつもんぽう)は仏祖面面の行持より来(きた)れる慈恩なり
礼拝が行ぜられるところに教が実になるのである。現に釈迦牟尼世尊の間違いなきみ教えに値い奉り、
仏祖若し単伝(たんでん)せずば、奈何(いか)にしてか今日(こんにち)に至らん、
そのみ教えを聞くことができるのは歴代のみ仏さまお祖師さま方が、 身を以って行じ心を以って伝え給うことによって頂くことであるから、
一句の恩尚(な)お報謝すべし、一法の恩尚お報謝すべし、
一句、一法の中に深く示されているご恩を知りご恩に報いなくてはならない。一句一法ということは全句全法のことである。
況(いわん)や正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)無上大法の大恩これを報謝せざらんや
更に又、天地一杯に漲っているこのいのち、凡てのものが、そこに生き、そこに死するところ、 そこより外に行くところのない大いなるいのちに気づかせて頂いたそのご恩は、何よりも有り難く、ご恩に報いなければならぬ。
病雀尚お恩を忘れず三府(さんぷ)の環(かん)能く報謝あり、
後漢の揚宝が傷ついた小雀を助けてやった為に、その小雀がご恩返しをして四代に亘って政府の高官となったこと、
窮亀(きゅうき)尚お恩を忘れず、
又漁夫に捕らえられた亀を救ってやった人が、その亀のご恩報謝の為に餘不亭侯となった話など、
余不(よふ)の印(いん)能く報謝あり、畜類尚お恩を報ず、
その例話は多くあるように、畜類でもよく恩を知り恩を報ずるのであるから、
人類争(いかで)か恩を知らざらん。
人間として生を受けたものは、ご恩報謝をせずにはおれないのである。
其(その)報謝は余外(よげ)の法は中(あた)るべからず、
そのご恩報謝はどのように致すべきか。それは、次に述べるようなすがたがご恩報謝の正道であって、その外のやり方では真実の報恩とはならぬのである。
唯当(まさ)に日日(にちにち)の行持、其報謝の正道なるべし、
何か特別にそのやり方があるのではなくて、日々の生活の上に自然と行ぜられていくやり方である。
謂ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、
それはこれがご恩報謝であると意識して行ずるようなことでなく、鳥の空を行き、魚の水に住むように、鳥と空と相識ることなく、魚と水と相識ることなく、 しかも空に涯なく、水に限りなく悠々たるようにあることが、恩を知り恩を報ずることの端的であり至極のすがたである。
私に費やさざらんと行持するなり。
私共の日々のいのちを大切にして、私ごとに、恣意に費やさないように行ずることである。 それは、鳥と空、魚と水のようになっているとき、自然とそのように行ぜられていることになっている。
光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、
月日の過ぎゆくはまことに速やかであり、それは矢よりも早い。
身命は露よりも脆(もろ)し
この月日の流れの中に生きていく私共のいのちは草の葉にやどる露よりもはかない。
何れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日を復び環(かえ)し得たる、
どのようなよき手だてを用いて見ても、過ぎ去りし日を呼びもどすことは出来ぬ。
徒(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり、
かくて意味もなく百年の年月を生きても、それは只はかなき生のいとなみのみというべく、無駄な年月であり、
悲むべき形骸(けいがい)なり、
つまらぬ形骸(むくろ)というべきである。
設(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬび)と馳走すとも
されど、そのように物の世界の中を走りまわったような百歳であっても、
其(その)中一日の行持を行取(ぎょうしゅ)せば一生の百歳を行取するのみに非ず、
その中で一日でも、真実の道理に従った生活ができたならば、その一日の行持の功徳は、あまねく一生の全体を蓋うだけでなく、
百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり、
更に又そのようなすばらしい百年のいのちをもう一度過ごしたのと同じ徳があることになる。
此(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、
この一日のいのちは尊ぶべきいのちであり、
尊ぶべき形骸なり、
尊ぶべき身体である。
此(この)行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、
真実の道理に従った一日の行持、それは特別の一日でなく、極めて平凡な一日であっても、それが輝ける仏の御手の中の 一挙手一投足であることに気がつき、仏の御手を使い、仏の御足を歩むことであることに気づく。無量寿の仏の御いのちを歩むことであると気づかせて頂く。 そう気がついて見ると、いままでいたずらに過ごして来たと思っていた年月全部が、それがそのままに仏の御いのちの中のいとなみであったことに気づく。 このような行持を保ち得て、仏の御いのちをいのちとして生かされるこの自らのいのち、それは今までいたずらなるものと思っていたが、実は心より敬愛すべき身心である。
我等が行持に依りて諸仏の行持見成(げんじょう)し、
このような無常の風のまにまに流れていくような我々の上に仏のすがたは現成する。
諸仏の大道通達(つうだつ)するなり、
その一日の行持より諸仏が生まれる。
然(しか)あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子(しゅし)なり、諸仏の行持なり。
されば一日の行持は、諸仏の種子であり、諸仏の行持そのものとなる。
謂(いわ)ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、
数多くの仏様方の中でこの世に出現ましました仏様は釈迦牟尼世尊である。私共はこの釈迦牟尼世尊を通して三世十方の仏様を仰ぐのである。
釈迦牟尼仏是れ即心是仏(そくしんぜぶつ)なり、
その釈迦牟尼世尊は即心是仏の仏様である。そのまま仏様という意味あいであるが、そっくりそのままというのではなくて 行仏のすがたが現じなくてはならない。無限清浄の行を行じて行く身心を行仏という。
過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、
釈迦牟尼世尊は、発心、修行、菩提、涅槃の仏様である。三世十方の仏様もこの仏様である。 仏様は釈迦牟尼世尊に帰一せらる。
是れ即心是仏なり、
私共が戒法をうけ、発菩提心して仏心に住し菩薩道を行じていくとき、私共が即心是仏そのものである。それがとりもなおさず報恩の行となる。
即心是仏というは誰(たれ)というぞと審細(しんさい)に参究すべし、
そこには無限に連続して行く仏行がある。遠く彼方に仰ぐ仏様が、よくよく深く考えて見れば我が脚下に否私共自身の上に顕現していたことである。
正に仏恩を報ずるにてあらん。
尊きかな、あめつちの中に限りなく続くほとけの御いのち。それは断ゆることなし。
(解説は、曹洞宗宗務庁版に依りました。 )