普勧座禅儀(ふかんざぜんぎ)』      普勧坐禅儀(教典jpg)



道元禅師が宋から帰朝した直後の西暦一三二七(嘉禄三)年に撰述されました。
正伝の坐禅・仏法を宣揚する開宗の宣言の書であります。
文章は漢文で、「四六駢儷体(しろくべんれいたい)」といわれる対句形式の詩のかたちをとっています。
       普勧坐禅儀(教典jpg)  資料
原  文 解   釈現代語意訳
1.(たず)ぬるに()道本円通(どうもとえんずう)(いかで)修証(しゅしょう)()らん。
2. 宗乗自在(しゅうじょうじざい)(なん)功夫(くふう)を費さん。
3. (いわ)んや全体はるかに塵埃(じんあい)()ず、(たれ)払拭(ほっしき)の手段を信ぜん、大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、()に修行の脚頭(きゃくとう)を用うるものならんや。
4.(しか)れども毫釐(ごうり)も差あれば、天地(はるか)(へだた)り、違順(いじゅん)わずかに起れば紛然(ふんぜん)として(しん)(しっ)す。
5. 直饒(たと)()に誇り()に豊かにして瞥地(べっち)智通(ちつう)()(どう)()(しん)を明らめて衝天(しょうてん)志気(しいき)()し、入頭(にっとう)辺量(へんりょう)逍遙(しょうよう)すと(いえど)も、(ほとん)ど出身の活路を虧闕(きけつ)す。
6.(いわ)んや()祇園(ぎおん)生地(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし、少林の心印(しんいん)を伝うる、面壁九歳(めんぺきくさい)声名(せいめい)尚聞こゆ、古聖(こしょう)既に(しか)り、今人(こんじん)(なん)ぞ弁ぜざる。
7. 所以(ゆえ)(すべか)らく(こと)を尋ね()()うの解行(げぎょう)を休すべし。須らく回光返照(えこうへんしょう)退歩(たいほ)を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して本来の面目(めんもく)現前せん。恁麼(いんも)()を得んと欲せば(きゅう)恁麼(いんも)の事を務めよ。
8.それ参禅は静室(じょうしつ)宜しく飲食(おんじき)節あり。諸縁を崩捨(ほうしゃ)し、万事( ばんじ)を休息して善悪( ぜんなく)を思わず是非を( かん)すること( なか)れ。心意識( しんいしき)の運転を()め、念想観( ねんそうかん)測量( しきりょう)()めて作仏を図ること莫れ、()坐臥( ざが)( かか)わらんや。
9. 尋常( よのつね)坐処( ざしょ)には厚く坐物( ざもつ)を敷き、上に蒲団を用う、或いは結跏趺坐( けっかふざ)、或いは半跏趺坐( はんかふざ)( いわ)く結跏趺坐は先ず右の足を以って左の( もも)の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。半跏趺坐は但だ左の足を以て右の腿を()すなり、( ゆる)く衣帯を()けて斉整( せいせい)ならしむべし。
次に右の手を左の足の上に安じ、左の(たなごころ)を右の掌の上に安じ、両の大拇指(だいぼし)向かいて、(あい)さそう、(すなわ)正身端座(しょうしんたんざ)して、左に(そばだ)ち右に傾き、前に(くぐま)(しりえ)に仰ぐことを得ざれ、耳と肩と対し鼻と(ほぞ)と対しめんことを要す。舌、上の(あぎと)に掛けて唇歯( しんし)相著( あいつ)け、目は(すべか)らく常に開くべし、鼻息( びそく)( かす)かに通じ身相( しんそう)既に調えて欠気一息( かんきいっそく)し、左右揺振( さゆうようしん)して兀兀( ごつごつ)として坐定( ざじょう)して()不思量底( ふしりょうてい)思量( しりょう)せよ。不思量底如何( いかん)が思量せん、非思量、()れ乃ち坐禅の要術なり。
10.所謂(いわゆる)坐禅は習禅(しゅうぜん)には(あら)ず、唯だ是れ安楽の法門なり、菩提(ぼだい)究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり、公案現成(こうあんげんじょう)羅籠(らろう)(いま)(いた)らず、若し此の意を得ば(りゅう)の水を()るが如く虎の山に()るに似たり、(まさ)に知るべし正法(しょうぼう)(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)()僕落(ぼくらく)することを。
11.()し坐より立たば徐徐(じょじょ)として身を動かし、安詳(あんじょう)として()つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず。
12.(かつ)て観る超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も此の力に一任することを。(いわ)んや(また)指竿針鎚(しかんしんつい)(ねん)ずるの転機、払拳棒渇(ほっけんぼっかつ)()するの証契(しょうかい)も、未だ()思量分別(しりょうふんべつ)()()する所に非ず、()神通修証(じんずうしゅしょう)()く知る所とせんや。声色(しょうしき)(ほか)威儀(いいぎ)たるべし、なんぞ知見の(さき)軌則(きそく)に非ざる者ならんや。
13.(しか)れば(すなわ)上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)(えら)ぶこと(なか)れ。専一(せんいつ)功夫(くふう)せば(まさ)に是れ弁道(べんどう)なり。修証(しゅしょう)(おのずか)染汚(ぜんな)せず、趣向(しゅこう)(さら)に是れ平常(びょうじょう)なるものなり。
14.(およ)()自界他方(じかいたほう)西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印(ぶっちん)()し、(もっぱ)ら宗風を(ほしいまま)にす、(ただ)打坐(たざ)を務めて兀地(ごっち)()えらる、万別千差(まんべつせんしゃ)()うと(いえど)も、祇管(しかん)に参禅弁道すべし、何ぞ自家(じけ)坐牀(ざじょう)抛却(ぼうきゃく)して(みだ)りに他国の塵境(じんきょう)去来(きょらい)せん。()し一歩を(あやま)れば当面に蹉過(しゃか)す。
15.既に人身(にんしん)機要(きよう)を得たり、(むなしく)く光陰を(わた)ること(なか)れ、仏道の要機(ようき)保任(ほにん)す。(たれ)(みだ)りに石火(せっか)を楽まん、加以(しかのみならず)形質(ぎょうしつ)草露(そうろ)の如く、運命は電光(でんこう)に似たり、しゅく忽として便(すなわ)ち空じ須臾(しゅゆ)(すなわ)(しっ)す。
16.(こいねがわ)くは()れ参学の高流(こうる)、久しく模象(もぞう)に習って真竜(しんりゅう)(あや)しむこと(なか)れ、直指端的(じきしたんてき)(どう)精進(しょうじん)し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴(そんき)し、仏仏(ぶつぶつ)菩提(ぼだい)合沓(がっとう)祖祖(そそ)三昧(ざんまい)嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを()さば(すべから)く是れ恁麼(いんも)なるべし、宝蔵(ほうぞう)(おのずか)(ひら)けて受用如意(じゅようにょい)ならん。