第7回週刊金曜日ルポルタージュ大賞佳作 (選評はここにあります)

 死はだれのものか 

 九九年十二月二十日、十月二十五日に亡くなった服部正・元府立大阪社会事業短大学長を偲ぶ会が、神戸市の生田神社会館であった。弔辞の最後は教え子の代表である元大阪大学医療技術短大助教授の清水昭美だった。
「…忘れもしません。私達が卒業の年の真夏に、五歳のご長男様が入院され、友人とお見舞いすると、枕元で先生が看病しておられました。奥様(清美)が丁度お産のため、先生が連日付き切りで看病を続けられました。その甲斐もなく、口渇に苦しみながら八月十三日に亡くなられ、お悲しみは想像を絶するものでした。
 できる限りを尽くされての死ではなく、誤診による誤った治療、さらに伝染病とも診断され、輸送車を走らせて隔離病棟へ送られ、間もなく息を引き取られました。関係者から一言の詫びもない医療の現実でした。先生のご長男様への鎮魂と、父親としての深い悔恨は、その後、医療、福祉の姿勢を正すことに注がれたと思います。そのお姿は、自ら十字架を背負われ、鞭打たれた日々に思えます…」
 清水の弔辞はさらに、神戸大学小児科モデル病棟での生体実験の告発の話へと続いていく。当時、看護婦であった清水は、乳児院の乳児を闇入院させて、鼻から肛門まで管を通し乳児栄養の実験が行われていたことを目撃し、傍観できずに行動を起こす。そんな清水らを気づかい、支援したのが服部だった。やがて清水は、「生体実験」(三一書房、七二年)を表すことになる。
 私が清水の弔辞に強い興味を抱いたのは、この半年ほど尊厳死の問題を調べていて、太田典礼らの安楽死法制化に対し、「安楽死法制化を阻止する会」を中心とする批判の動きの中で彼女の名前を発見していたからだ。
 誤解を恐れずにあえて言うが、私の安楽死、あるいは尊厳死への関心は学問的なものではなく、ある人物に安楽死を適用するための論理的、倫理的、法律的な裏付けを求めての、もっぱら「実用的な関心」だった。
 ある人物というのは清水が弔辞を述べていた服部正、すなわち私の父である。そして正に付き切りの看護を余儀なくさせて生まれてきたのが、この私自身にほかならない。
 八八年十月、脳梗塞で倒れた正は左半身不随となった。大正八年に生まれ、商業学校卒業は日中戦争開始の年。大学入学は大東亜戦争勃発の年。半年繰上げ卒業と同時に招集。戦中派中期の正にとって、昭和天皇よりも先に逝ってはなるものか、とうわ言のように繰り返しながら、意識混濁の中で昭和の終焉を迎えたのは、何やら象徴的な気がする。
 一級障害者の手帳が交付されたとき、見舞いに来た女性に「とうとう自分も一級障害者になってしまいました」と告げて、「先生、そんな悲しいことおっしゃらないで」と言われたことに対し、辞世と称して綴った私家版詩文集「座礁船」の中で、
 「悲しいこといわないで、は慰めに非ず
  障害者なりといえども一級は嬉し
  福祉学者なり我は」
 と強がって見せた。また同時に、
 「おのが意志に非ざれど
  病者次第に被差別者となりゆく運命(さだめ)口惜し
  病は悪なりと汝らいいたきや」
 とも書いている。
 英文科出身の正は、長男の医療過誤が身にしみ、医者と対等にものが言えるようにと、紡績女工の生理休暇に関する研究で医学博士号を得ていた。病に倒れ、現場に出向くことができなくなってからは、専門である社会福祉分野での学位取得を欲して、最後までハンセン氏病の隔離問題に関する論文の完成を目指していた。
 短大閉学時の学長として四年制移管に深く関わった府大社会福祉学部の大学院なら論文審査を引き受けてもらえるのではないかと淡い期待を抱いていたのだが、課程博士を出していない新設大学院には論文博士を審査することができないことを知らされ、その日を境に、突如、正は衰えていった。
 車イスからベッドに移し替えるときの労力が、その前日までと全く違った。肉体というよりも、肉という印象だった。気力を失った肉は、土嚢とか水の入った袋とか、そういう重さだった。生きがいと言うのか、希望というのか、まとめて〈魂〉と言ってしまえば言い過ぎだろうか。〈魂〉が抜け落ちた肉の重さというのは、ただならぬものだった。
 自宅での療養生活を続けるのが難しくなり、市内各所の老健施設や特養のショートステイ、ミドルステイを転々とするようになった。特養のロングステイは神戸市全体で二百人待ちだと言われた。三十人の入居者が順番待ちをしているある施設では、年平均三人の入所者が亡くなるらしく、
「その計算でいけば最後の一人が入居できるまで三十年かかりますよ」
 と、施設長に冗談まじりで言われ、絶望的な気分になった。厚生族のドンである橋本総理の母親が何年にも渡って同じ病院の老人病棟に入院しているということがメディアで話題になったのは、ちょうどその頃だ。ミドルステイが終わればしばらく家に戻り、別の施設でショートステイをし、また家に戻って次のミドルステイを待つというようなことを一年以上繰り返した。
 衰弱がひどく、体位交換すらままならぬ最後の数ヶ月をのぞくすべての期間、正に蓐瘡ひとつ作らせずにやってこれたのは、清美の執念とも言える献身とさまざまな工夫のたまものだった。施設や病院の介護スタッフにすべてをまかせることのできない清美は、施設に移ってなお、毎日出向いて、正の世話を続けた。
 介護保険の導入にあたり、家族の介護こそ大切であり、だから慰労金を出すのだなどという論旨は、笑止千万、噴飯物である。たとえ最高レベルの認定を受けたとしても、家族にとって介護がある種の地獄の様相を呈することは避けられないのだ。

 その日まで

 正が発病した八八年からあと、我が家には実にいろいろな問題が起きた。
 九三年には私自身が上腹部に癌があると告知され、開腹手術を受けた。しばらくは転移と死の不安から、不眠と抑鬱状態に悩まされ、睡眠剤と安定剤を手放せない状態が続くことになる。
 九五年には阪神大震災があった。建物への被害は軽微であったが、寝たきりの正を抱え、水やガスなど、いわゆるライフラインが寸断された生活を二ヶ月以上も続けなければならなかった。
 九七年には淡路島に住んでいた配偶者の父親が白血病との診断を受けた。すぐに神戸市内の病院に転院させ、最後の数ヶ月は、私が手術を受けたR病院ホスピス病棟で過ごすことになった。仕事が終わってから毎日欠かさず、特養とホスピスの老人行脚を余儀なくされた。一階で自分の術後の検査を受け、それからホスピス病棟に見舞いに行くというようなこともあった。
 九八年の夏、正に一度目の危篤が訪れた。主治医との相談で、抗生物質の投与を打ち切るが、自分自身が持っている自然の治癒力で危機を脱した。しかし、その頃から言葉を失い、さらに左半身だけではなく右半身の自由も失っていった。
 K病院の老人病棟に入院をしたのは、その年のクリスマスイブのことだった。最初のうちは多少なりとも私達の言葉を解しているような気配があったが、やがて、目を開いてはいても、視線が合うのはほんの一瞬で、あとはうつろに宙を眺めているか、眠っているかのいずれかという状態になってしまった。
 年を越してすぐ、その朝も早く起きて病院に行こうとした清美が転倒し、脊椎を圧迫骨折してしまったので、同じ病院に入院することになった。一ヶ月半ほど過ぎて清美が退院できたと思ったら、今度は正の呼吸がおかしくなって、酸素マスクをつけるようになった。酸素量を増やしすぎると、かえって呼吸停止をまねきかねないということで、最初、一リットルから二リットルの間で調節された。心拍数も跳ね上がり、百八十から二百三十の間を行き来した。
 嚥下機能の低下が著しく、この半年ほどはへそのそばに孔をあけてチューブを通す胃瘻(いろう)を使い、液状の栄養物を流し込むことで水分と栄養の補給を続けてきたのであるが、点滴に変え、抗生剤と強心剤の投与も同時に行うことになった。
 ふと壁の酸素バルブのところにある計器を見ると、二リットルから三リットルの間に増えていた。病院の措置というよりも、正の息苦しさを見かねた清美が勝手に増やしたのだ。長年介護を続けていると、医者や看護婦よりも清美の判断の方が正確な場合があった。
 たとえば原因不明の発熱があったとき、胃瘻チューブの汚れを指摘し、交換を求めたが、医者は無視した。何度も同じ要求を繰り返して、ようやくチューブの交換に応じてもらうと、清美の見立ての通り熱が下がるということがあった。清美は医療の専門家ではなくても、正に関しては専門家中の専門家であったわけだ。
 四月、足の末端部に異常が出はじめた。右足の膝から下が青ざめ、指先は干しぶどうのような濃い紫色になっていた。毛細血管が死に、血液が行っていないのだ。日がたつに従って、足の皮膚が油紙のようになり、孵化する直前の卵を電灯にすかして見るように、死んで黒く変色した血管が浮かび上がった。
 植物状態という言葉が医者の口からはじめて出たのは五月に入ってからだ。だれも言葉にするのが恐ろしくて、口にしなかっただけである。窓の外に満月を見ると、月の満ち欠けと誕生、死の関係を思い出し、死は満月であるのか新月であるのかなどということを、ふと考えてしまうことがあった。
 いつの間にか、酸素の量は一分間に四リットルにまで跳ね上がっている。右足の壊死が進んできた。左足にもその兆しがあった。
 旧約聖書のヨブの苦難を思った。
 正はいったい私達になにを見せようとしているのか。
 なにを伝えようとしているのか。
 その頃、夜遅い電話で職場の同僚の母親の死を伝えられたが、うまく死ねてよかったですね、と心でうらやましく思うだけで、葬儀に出かける気にはならなかった。
 尊厳死というのはどういうことか。植物状態をのぞまないというのは、どうすることなのか。インターネットで安楽死、尊厳死とキーワードを入れて検索をしてみた。尊厳死協会というものを発見し、メールで問い合わせをしてみたところ、事務局から次のような返答をもらった。
「延命治療を拒否する旨の自発的意思を明示した書面(リビング・ウイル)がない限り、終末期医療の対応はすべて医師の裁量権に任される事になります。父上様の病状が不治かつ末期と診断された場合、医師が『これ以上診療の義務がない』と判断し、延命治療を中止しても法的に問われることはないはずですが、多くの場合、医師は中止しません。
 倫理的問題については即答しかねますが、患者の一番の幸せは何かを、医師が良識ある裁量権で判断するしかありません。リビング・ウイルがあれば、医師は患者本人の意思を確認し、患者本人が希望する延命中止を受容することになります。父上様はこのリビング・ウイルを持っておらず、ここのまま延命治療を続けることになるかも知れません…」
 日本尊厳死協会が用意している尊厳死の宣言書(リビング・ウイル)には次のような記載がある。
「@ 私の傷病が、現在の医学では不治の状態であり、既に死期が迫っていると診断された場合には徒に死期を引き伸ばすための延命措置は一切お断りします。
 A 但しこの場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施して下さい。そのため、たとえば麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。
 B 私が数ヶ月以上に渉って、いわゆる植物状態に陥ったときは、一切の生命維持措置をとりやめて下さい。」
 尊厳死の宣言書は同時に協会への入会申込書を兼ねていた。赤い印字の金融機関への払込取扱票が添付されていて、所定の金額を支払えば保管してくれる。万一医者がそれを理解しない場合は、協会が医者の説得に当たってくれることになっている。
 日本脳神経外科学会植物状態患者研究協議会によると、「有用な生活をおくっていた人が脳損傷を受けた後に以下に述べる6項目を満たすような状態に陥り、種々の治療に頑強に抵抗し、ほとんど改善が見られないまま3ヶ月以上経過したもの」で、「1、自力移動不可能、2、自力摂食不可能、3、屎尿失禁状態にある、4、たとえ声を出しても、意味のある発語は不可能、5、『眼をあけ』『手を握れ』などの簡単な命令にかろうじて応ずることもあるが、それ以上の意志疎通は不可能、6、眼球はかろうじて物を追っても認識はできない」(鈴木二郎・児玉南海雄「我が国に脳神経外科おける植物状態患者の実態」)場合を植物状態と言う。
 正の場合、すべての項目に該当する。眼球を動かす以外に、生きていることを感じさせる唯一の反応は、足の先に手が触れると、動かないはずの足をぎゅっと縮める動作をすることだけだ。
 凍傷のひどい状態と同じで、普通の人間なら激痛を訴えてうめき続けているだろう。痛みだけが唯一の感覚で、泣いたりわめいたり叫んだり、それを表現することさえできないとすればこれほどむごたらしいことはない。
 足の状態は日々悪化し、六月に入ると干しぶどうがビーフジャーキーになり、七月に入るとさらに黒檀のようになった。腐敗ではなくミイラ化の方向へ進んでいることが不幸中の幸いと言えるかもしれない。
 ホスピス病棟で白血病の末期を過ごした義父の介護の経験から、リビングウイルというものが、主として末期癌を想定していることが想像できた。何らかの意思を表示する機会を得られないまま、突如として倒れてしまう脳血管障害の患者を想定したものとは、あきらかに違っている。
 尊厳死協会の宣言書を手にするまで、私は漠然と「延命措置」を「延命装置」のことだと思い込んでいて、たとえばレスピレーターのように電気的に動く機械のスイッチを切るような場面を想像していた。友人の外科医、K君(彼は現代医学の末期癌患者への治療のあり方に疑問を持ち、医者をやめようとした)に、メールでこの点を問いかけると、
「チューブ栄養はもちろん延命措置に含まれます。その他、強心剤の投与、点滴による水分補給、痰取りや酸素吸入、極端に言えば吸入気の加湿も含まれるでしょう。要するに、延命を目的にした人為手段のすべてです。」
 とのことだった。広い意味の延命措置を受けることなく生きていることは、現在ではほとんど不可能だ、ということになるのだろう。
 リビングウイルの存在の有無は別にして、酸素や栄養補給を中断するようなことが安楽死のために認められうるのだろうかと、大学で死生学を講じているH君に問うと、植物状態での安楽死の事例であるナンシー・クルーザン事件について教えてくれた。
「当時二十代であったナンシー・クルーザンは、八三年一月に自動車事故に遭い、いわゆる植物状態になった。これに対し家族は、このような状態を彼女は望まないはずである、という確信から、生命維持装置(経管栄養)の停止を病院に依頼した。しかし、病院側は拒否した。ミズーリ州最高裁は、『州は生命の質には関与せず、ただ生きていることのみを注視する』と評決した。
 この評決に対する上訴を受けた米国連邦最高裁は、九〇年六月二五日、クルーザンはこの状態を望まないとの明白な証拠を何も残していないため、生かされていなければならない、という裁定を下した。
 これを受けた両親側が彼女は以前友人に、植物状態になったら生きていたくないわ、と言っていた、という証言を得たうえで訴えた。その結果、ミズーリ州は最初の裁定を覆し、もし裁判官が命ずるのであれば、経管栄養の中止することには反対しない、とした。そしてこの命がくだされ、経管栄養は中止され(つまり餓死により)、ナンシー・クルーザンは九〇年一二月二六日死亡した。」
 定義上、完全な植物状態である正が示す、壊死状態の足に触れると足をひく動作をするというのは何を表しているのかについて、K君は「屈曲反射、すなわち皮膚、筋肉、深部組織に傷害を与えるような刺激が加わると、屈曲筋に反射性収縮が起こり、関節が屈曲する。これは「脊髄反射」(刺激に対して、大脳を介さず脊髄レベルで起こる無意識の反応)で、脳で痛みを感じて足を引いているのではない」と指摘をしている。
 さらに脱水死、餓死について調べを進めていくと、日本学術会議「死と医療特別委員会」の最終報告(九四年)に行き当たり「植物状態患者でも一定条件のもと、鼻孔カテーテルや静脈注射などによる栄養補給は人為的であるという理由から断ってよい場合がある」との文章を盛り込んであった。
 末期癌患者の症状にあわせて、栄養物補給を少量にしたり、中止したりする場合がオーストラリアの病院ではあるらしい。その場合もガーゼに浸した水分で唇や口内粘膜を潤して乾燥や亀裂を防ぐような緩和ケアは絶対に欠かしてはならないという。患者が発熱したりして口渇がひどい場合は、口内にオイル状の液体を塗布したりしてケアを怠ってはならないとしている。清水の弔辞にあった「口渇に苦しみながら八月十三日に亡くなられ」という下りがいやでも思い浮かぶ。
「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」
 七月二十一日に自死した江藤淳の遺書である。これ以上ないほど、明白な死の意思の表現である。彼は死期を悟ったのだ。正が、
 「個体の境界は すべて疼痛
  我痛みにより 全身を縁どられたるが如し」(「座礁船」より)
 というような状況の時「病院に自殺を手伝ってくれる人を雇っていないのは行政の怠慢だ」というような言い方で、切実な自死念慮について語ったことを思い出す。私に向かって「よかったら君がやってくれないかな」とまで言ったのだ。
 江藤の件に関する雑誌「現代」(九九年九月)の対談記事の中で、宗教学者山折哲雄が、塩断ち、五穀断ち、十穀断ち、最後は木の実や松の葉などを食べ、枯れ木の状態に近づき(黒檀のようになった正の足は文字通りにも枯れ木を思わせた)、完全な断水断食をして息を引き取るという死のあり方について述べている。西行などの死もその種の宗教的な断食死だということで、うまくいけば「癌のような痛みからも解放され、自由になって死ぬことができる」というのだ。
 尊厳死について調べていく過程で、清水の名前を発見して以来、文章化された明確なリビングウイルを持たない正が、かつて尊厳死についてどういうスタンスでいたのか、今の状況をどのようにとらえているか、大変気になった。
 私の誕生と長男の死がほぼ同時に訪れるという、あまり幸福ではない父子の最初の出会いに起因するのかどうか、もともと正に対して心を開くことなく、反発する場面の多かった私が、正が意思を伝える手段を持たないのをよいことに、正の本来の考え方を故意に無視・隠蔽し、ありもしない尊厳死の意思をでっちあげようとしているのではないかという、自分に対する疑いを抑えることができなかった。
 太田典礼らの安楽死法制化を求める動きに対し、五人の文化人が「法制化を阻止する会」を発足し、声明文を出し、清水も積極的に支援行動をしていた。そのことに関して、太田典礼とも堂々と渡り合った清水の「勇猛果敢」な姿勢を評価する正から、幾度も聞いたことがあるのを思い出した。
 五人のうちの松田道雄は、正がもっとも尊敬し、信頼していた文化人のひとりであるが、太田典礼の著作「反骨医師の人生」の中に、
「…私は前から医師として安楽死の実践をしていたのであるが、論文として発表したのは、有名な名古屋高裁判決の出た翌年の三十八年で、『思想の科学』八月号の「安楽死の新しい解釈とその立法化」である。日本における論争はすでに昭和の初期から始まっており、とくに刑法学者の間では肯定論が有力になりつつあったが、医学関係者は僅かな先覚を除いてはほとんど否定的であった。私はこれに対して積極論を述べたのであり、臨床医としては最初のものであった。むしろ、おそきに失した感があったほとである。でも手応えはまったくなく、非難も起こらず無視された格好だった。ただ一人旧友の松田道雄から激励のハガキを貰っただけであった。」
 との記述があった。
 安楽死に関する論争の果てに、日本安楽死協会が尊厳死協会と名前を改めたのは、一貫して(ナチスの大虐殺の容認や身障者差別につながりかねない)優生断種を擁護した太田典礼についての批判(あるいは誤解を恐れる気分)が根底にあって、松田も清水も(おそらく正も)、その点を強く批判していたはずだ。
 松田が「安楽に死にたい」(岩波書店)という本を出したとき、まだ尊厳死の問題について考えはじめる前で、書名(安楽死に反対していたはずの人がなぜ、というふうな)に違和感を抱いた私は早速に読み、保険医をなぜやめたか、という町医者としての姿勢や、交通事故で身体が不自由になった夫人を「老老介護」してきた経験をふまえての文章に共感を覚えた旨、手紙を書いたところ、
「読者はわかってくれない、と思っている時でしたので、お手紙はありがたいものでした。(中略)お父君、生きることをお楽しみのご様子(清美に本を音読してもらい、その時はまだ論文を書こうとしていたことなど知らせたことに対して)、これすべてお母君のケアのたまもの。二代のケア(自分の両親と夫の意味か)をなさるお母上はえらい人です」
 という内容の葉書がすぐに来た。その松田は、徹頭徹尾、医者にかかることを拒んで見事に死んだ。

 その日

 あれこれ調べてはみたが、結局はなにもできないまま、十月半ばになっていた。
 眼球についたごみをとるのに、ガーゼで直接触れても、まばたきをしなくなっていた。脳死判定を決めていく過程で、眼球を綿棒で触れるというのがあったのではないか。酸素の量は六リットルにまで増えている。これだけが命の綱であるのはだれの目にもあきらかだった。
 病院付属の看護学校教官で、オーストラリア人の夫を持ち、ブリスベンの病院での勤務の経験も持つベテラン看護婦と長い時間、話をする機会があった。尊厳死の問題について考え続けてきたことを含め、言葉にしがたいさまざまな思いを伝えた。
 十月二十五日、朝、勤務先に着いてしばらくすると、清美から電話があった。今日、酸素を止める提案がスタッフからなされたというのだ。家族からの訴えを受け入れたのか、正の病状がそこまで進んだということなのか、決断の理由を確かめなかったのでわからない。
 ここから先は、祖父の死に立ちあうことになる長女麻衣子(十七歳)の視点に変える。家族が死をどのように受け止めるのか、あるいはどのように受け入れるのか、半ば、この日が来るように操作してきたかもしれない私の視線でない方がよいだろう。

 そのとき

 十月二十五日の朝。わたし(麻衣子)は、学校に行く前に「何か起きたら必ずすぐに呼んで欲しい」と親に約束をして、家を出た。その日の一時間目の始まる前、先生に呼ばれ、「四校時の授業が終わったら、校門のところへ行きなさい。おじいさまのことだと思うけれど」と言われた。昼休みになった。校門で父が車に乗って待っていた。妹達と一緒に病院へ向かった。その車の中で、父はわたし達に、祖父の状況を説明した。
「今(祖父は)普通以上の濃度の濃い酸素を吸って生きている。それは、延命措置と言って、それによって生きている。だから、辛い思いをして、生きるよりもはやく自然な姿にしてあげようって、パパ達は決めた。」
 というものだった。
 病院について、数分後、酸素マスクをはずした。その途端、祖父の息は荒くなり、一生懸命息を吸っていた。体中の最期の力を振り絞って。わたしはその様子を見て、涙をこらえ切れなくなってしまった。
「最期だから、みんなやってあげて」
 湿らされた綿棒を大きくしたようなものを渡された。みんなが、口が乾くから湿らせてあげていると、その綿棒をとてもつよい力で、何度も何度もかんだ。涙が止まらなかった。息をする間隔がだんだん長くなった。わたしはつい、布団の下にあった祖父の手を探し、握った。とても温かかった。気持ち良かった。生きていることがすごくよく分かった。
 息をする間隔は少しずつ長くなった。止まりそうになって、また息をしだすということが繰り返された。父はそんな祖父を見て、
「もう安心していいよ。いままで、ありがとう」
 と何度も言った。その言葉を聞いて、止まっていた涙が、またあふれてきた。わたしなんかより、父の方がどれだけつらかっただろう。このような祖父の死を決断するのにどれだけ、苦しんだのだろう。父だけじゃない、母や、なによりも、十一年間毎日祖父の世話をしてきた祖母は、どれだけ悲しいのだろう。十一年なんて簡単に言うけれど、わたしが今まで生きてきた半分以上の年月なんだから。
 父の言葉を聞いてか、今まで、まばたきすらしなかった祖父が、父や祖母の顔を目で探していた。何を言っても反応がなく、植物状態だった祖父は、専門の先生にも目は見えていないでしょう、壊死してミイラ化している足を触ると痛いのか足を引くような動きをしても、それは、単なる脊髄反射であると言われていたのに。
 酸素マスクを外して約一時間後、息を引き取った。看護婦さんが祖父の体を拭いたりしている間、わたし達は外で待つことになった。病院に入院している人にとって、他人であれ同じ病院でだれかが亡くなったら不安になるであろう。だからわたしはそれを気づかせないように真っすぐ病院をでて、入り口のかげで心が落ち着くまで泣いた。
 父がわたしに、今日は来てくれるって言ってくれてありがとう、と言った。父が祖父に対して言った『ありがとう』とわたしに言ってくれた『ありがとう』の意味は違っても、そのときほど『ありがとう』と言う言葉が、重く心に響いたことはなかった。
 その夜、友達から電話があって祖父のことを話した。友達はわたしが話すのを何も言わずに聞いてくれた。家族以外のだれかに何処かで聞いてほしいと思っていた。その子はたった一言、それって、尊厳死ってこと?、と言った。この夏休み家族で『尊厳死』について考えたが、答えは見つからなかった。
 
 再び話者を筆者に戻す。
 考えてみると、尊厳死とは、古来、だれもが迎えていた普通の死のことである。近代医学が誕生し、日常生活の中に無理やり「延命措置」が組み込まれる以前は、だれでも当たり前に尊厳死を迎えていたはずなのだ。
 十月十一日に亡くなった作家三浦綾子が、次々に襲いかかる病魔と闘いながら「私にはまだ、これから死ぬという大切な仕事がある」と親しいものに語っていたという話を聞いて、深い感銘を受けた。父もまた長い時間をかけて、その仕事を終えたのだ。
 

選評

本多勝一 「死はだれのものか」 文章も構成もA級。主題も重要です。深い感動
を覚えました。あえて言えば、ルポルタージュよりも文学的過ぎるかも。

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