5月17日 なぜ「いのちを考える」授業をするのかについて話をする。
      グループに分かれて「なぜ死について考えるのか」のアンケートを取る。

5月24日 事実と意見の違いについて考える。
      前回のアンケートをグループごとに集計する。
      クラス全体のアンケート結果(クリックしてください)

5月31日 いのちのつながりについて考える。
      12代前まで祖先をさかのぼる系図を書いてみる。
      私がいるためにはどれだけのつながりが必要であったか、
      私がいることでどれだけのつながりができるのか、について
      実感しました。

      全部書くと4096人になるわけですが、自分がここにいる  
      ためにそれだけのつながりがあること、そして自分がここに
      いることで、それだけのつながりができてくることを深く考
      えました。
6月14日 死ななければならないとしたら、どんなことが無念か、未練か について話し合う。以下が各グループから出た内容。
楽しいことをいっぱいしたい。 欲しいものが買えなくなる。 家族に会えなくなる。 これからの人生がなくなってしまう。 結婚できない。子孫を残せない。 家族を悲しませてしまう。 もっといろいろなところへ行ってみたかった。 お金が使えなくなる。 死んだらどうなるか怖い。 どんな大人になるか知りたかった。 自分の未来が知りたかった。 将来の夢がかなわなくなる。 へそくりを全部使いたかった。 お母さんへの借金が返せない。 結婚。 子ども。 彼氏。 一日中遊びたかった。 大金持になりたかった。 彼氏とデートしたかった。 渋谷を歩きたかった。 ブラジルでサンバを踊りたかった。 学年トップの成績をとってみたかった。 青春をしてみたかった。 宇宙に行きたかった。 ヘリコプターに乗ってみたかった。 声優になりたかった。 外国のパーティーに行きたかった。 好きな食べ物を食べたかった。 髪を染めたかった。 お酒を飲みたかった。 ペットがどうなるか心配。 好きなことをしたかった。 子育てしてみたかった。 車の免許を取りたかった。 テレビが見られない。 ゲームができない。 成人式に出たかった。 バイトがしたかった。 身長がほしい。 カラオケで合コンがしたかった。 芸能人に会いたかった。 世界旅行に行きたかった。 男子校の文化祭に行きたかった。 就職したかった。 漫画を読みまくりたい。 いろいろな友達と遊びたい。 やりたいことをやったら静かにすごす。 寝る。 服とか靴とかほしいものを買いまくる。 エアロ・スミスに会う。 おいしいものを食べまくる。 ジャンクフードをいっぱい食べる。 グレイのヒサシとしゃべってみたい。 100歳まで生きないと意味ない。 金持ちになるまで死ねない。 東京へ行く。 嵐に会いに行く。 買い物をしまくる。 結婚してみたい。 もっと遊びたい。 思うがままにやってみたい。 アイドルに会いたい。 アルバイトをしたい。 カラオケ、幸せ、温泉、世界征服。 ルーズをはきたい。 携帯ほしい。 周りの人をぎゃふん。 バスケ全国一。 姉がほしい。 世界平和。 お酒の味を知りたい。 きれいな服を着たい。 お金の心配なく買い物をしたい。 電話ができない。 松蔭のロングコートが着れない。 プロポーズされない。 一人ぐらしできない。 同棲できない。 宝くじ当てたかった。 合コンできない。 飼い犬に子どもを生ませられない。 とんこつラーメン食べられない。 デートできない。 ギョーザ食べれない。 いっぱいお化粧してみたい。 ミニチュアダックス飼いたい。 
10月3日


 前回の授業で出させた「もし今死ぬとしたら、どんなことが悔しいか、残念か、無念か、未練か」についてまとめたものをみんなで読みました。今、あるものがなくなること、これからできたかもしれないことができなくなることなど、死によってもたらされる「喪失感」などの特徴があることがわかりました。夏休みをはさんでの授業だったので、もう一度「なぜ生と死について学ぶのか」ということを再確認しました。
 次の授業で「死に別れた人の悲しみ」について取り上げることを予告し、準備としてアンケートに答えてもらいました。


死に別れた人の悲しみに関するアンケート
次のような場面を想定してみましょう。
授業中に突然、扉をノックする音が聞こえて、事務所のAさんが入ってきます。
Aさん:「○○さんはいますか?」
あなた:「はい、私です」
Aさん:「××さんが亡くなったそうです」
あなた:「 (ア) 」

Q1 あなたはだれのことを思い浮かべましたか?
Q2 なぜですか? 
Q3 「(ア)」ではどんな言葉が思い浮かびましたか?
Q4 その次にどんな気持ちになりましたか?
Q5 その日のあなたはどういう行動をとると思いますか?
Q6 一週間後(のあなたの気持ち、家庭の雰囲気、その人の持ち物や部屋)はどうなっていると思いますか?
Q7 一ヶ月後(のあなたの気持ち、家庭の雰囲気、その人の持ち物や部屋)はどうなっていると思いますか?
Q8 一年後(のあなたの気持ち、家庭の雰囲気、その人の持ち物や部屋)はどうなっていると思いますか?

Q1、Q2  お母さん 体が弱いから 近所の友達 一番最初に浮かんだ おじいちゃん 一番年寄りだからなんとなく 叔父上 胃が悪いから 仲のよい友達 最近似たようなことがあったから 親戚 なんとなく お父さん 仕事の行きかえり、出張が多いから おじいちゃん 今入院している おじいちゃん 今具合が悪いから 妹 ばたばたしてよく怪我をする、一番意外な人 ひいおばあちゃん 90才過ぎているから いとこのお姉ちゃん 大好きだから おばあちゃん もう死んでもいいと言っているから お母さん 体があまり丈夫じゃないから 友人 大切な人だから お母さん 家の中で一番印象が強い お母さん 弱いから お母さん 家の中で一番必要な人でいなくなると困る お父さん 仕事が工事関係だから 家族 一番身近 おじいちゃん 会社に行かないと行けないのに行けない状態になっている おばあちゃん 今入院している お母さん 体が弱い お母さん 一番自分のことをわかってくれている人だから お兄ちゃん 回りに注意してなさそう、交通事故にあいそう お母さん 一番たよりにしているし、好きだから死んでほしくない気持ちが強い お母さん ふだんから死にそう お母さん 一番いなくなったら悲しい お母さん 一番元気で死から遠い お父さん 煙草を吸っている ひいおばあちゃん 寝たきりだから おじいちゃん、おばあちゃん おもしろくてやさしい

Q3  言葉が出ない 「・・・は!?」 ウッソー 「はぁ・・・?」 えっ・・ウソォ ・・・? えっ!? うそやー えぇ!? はぁ?!何言ってんの 本当ですか 信じられない ぜったいうそ(以下同種の答え多数)
Q4 びっくりする 悲しい さみしい なんで死んだんやろ パニック状態で真っ白 マジでー!! うそやと思った 信じられない 何も考えられない 悲しいがしょうがない もっと親孝行すればよかった なんで その場に行きたくない気持ち なんで死んだんやろ 信じたくない 不思議な気持ちになる 昨日まで元気やったのに 不安と悲しさ 悲しい 信じたくない ぜったいうそ なんでそんなこと お父さんの気持ちを考える そのときはまだ信じられない ずーっとうそだと思っている うそやーと思う マジで!? 同情 なんで 信じられない 信じたくない 
Q5 一日中泣いていいる ぼーっとしている 死んだ友達の携帯に電話する 行ってもおじいちゃんを見れない すぐ行く 泣きながら帰る 一日中泣いている わからん 何もする気がしない 流されるままの行動 自分で考えることができない状態 元気がない行動  動かない 会いに行く 今までのことを思い出す 他の人に言われたとおりする 泣きまくる その人と過ごした思い出にふける 今までお母さんがしていたことをする 気が済むまでぼーっとしている わからない 呆然としている  部屋の中にずっといる そのときにならないとわからない 気力を失う 放心状態になる なにもしない 静かにしている 放心 今までのことを振り替える 一日中泣いて泣いて泣きまくる
Q6以下省略

 Q3からあとのものについて見ると次回に触れる予定の悲嘆のプロセスを無意識のうちにきちんとなぞっていることがわかりました。
「悲嘆のプロセス」(アルフォンス・デーケン分析による12段階)
1精神的打撃と麻痺(まひ)状態 2否認 3パニック 4怒りと当惑 5敵意とうらみ 6罪悪感 7空想と幻想 8孤独と憂鬱 9精神的混乱とアパシー 10あきらめ 11新しい希望 12立ち直り

10月18日 死に別れた人の悲しみについて話をしました。 それについての生徒の感想です。

プライバシーに触れそうなこところや、わかりにくいところなど、少し文章を変えてあるものもあります。

死に別れた人の悲しみ感想
よく妹がむかついたら、もういなくなったらいいのに、とか死んだらいい、とか出ていけとか言うけど、やっぱりいなくなったらいやだと思う。だから誰であってもこういう場面には出会いたくないと思う。
 私はまだ親戚も知人も一人も亡くなっていないし、お葬式にも行ったことがない。だからそういう気持ちはまったくわからないけれど、とても悲しいことなんだなと思った。そしてひとりひとりの命でほかのたくさんの人の人生まで変えてしまうなんて、すごいというより怖いと思った。
親とケンカしてむかつくようなことがあると、「お父さんなんか死んでしまえ」とか「お母さんなんて死んでしまえ」とか言ったりしていました。でも今日の話を聞いて、いずれうちの親も寝たきりになってしまうのかと思いました。もし今、寝たきりになってしまったらと考えると、誰が料理を作ったり掃除をしたりするのだろうとか、誰が仕事に行ってくれるのだろうとかいろいろ考えてしまいました。そう考えるとやっぱり親は必要で、気軽に「死ね」とか言ってはいけないと思いました。
 絶対誰も死んでほしくないと思った。4年前に飼っていた犬のことを思い出した。その犬も強い注射をうたれて歩けなくなって死んでしまったので、その病院に怒りやうらみを持った。そして悲嘆のプロセスのように空想をしたり、罪悪感を持ったりいつもしていたので、こんなことは二度と体験したくないと思った。
 これから希望を持とうと思った。あらためて命は大切だと思った。けれど誰でも一度は死のうと思ったことがあると思う。
 私が小学二年生のときお母さんのお父さんが亡くなりました。おじいちゃんは私が小学校へ入ったころはもう寝たきりだったと思います。私自身もおじいちゃんとの思い出は少ないからさびしいし、おばあちゃんだってみんな悲しいと思う。残された人から見ると、どうして死んでしまったのか、とか、いろいろ考えて今でも悲しくなります。
 気持ち悪い。胸がちくちくして、なんか知らないけれど動揺している。身近な人が死んだとき、どんなことを感じたのか思い出そうとするけど、わからない。小さいときはしかたがないけど、六年生のときくらい覚えていてもいいのに。今大好きだと思っている人が死んだとき、どういう気持ちかな、って感じのことばかりでした。
 人間には希望がないといけないということがわかった。人が死ぬことは本当につらいことだと思った。友達や家族が死んだらいやだから。
 私の祖母は先生のおとうさんと同じ病気(脳梗塞)で、言葉はめっちゃしゃべるけど、左半身が動きません。今は元気で明るくしていてくれるけど、最初は先生のお父さんみたいだったのかなあと思いました。祖母が病気になったのは小学一年だったからよく覚えていないけれど、夜中に救急車が来て、何がなんだかわからなかったことを覚えています。みんないろいろ乗り越えて生きているんだと思いました。
 今までにこんなんやったら死んだほうがましとか
思ったことがあったけど、やっぱり今日の話を聞いて自分の命だからって、育ててきてくれたのはお父さんやお母さんだし、そんなことを思ったりするのはよくないと思った。がんばって生きようとしている人もいるんだから、自分の命も大切にしないといけないと思った。
 友達が亡くなったとき渡しの場合は(悲嘆のプロセルの)1、2、3、7、→2、3日→5,6、7、8、11、12でした。でも一週間もすればすっかりよくなっていて、特に感じることは少なくなりました。友達は自殺だったのですが、それを知ったときは「やっぱりなあ」と思ってしまったことに後悔しています。いろんな死に方があるけど、死んだときのショックというのは、そのときが来てみないとわかっらないのだと思いました。
 希望って本当に大切だなと思いました。何かしたいことがあるから、それを目指してがんばたっりできる。体が動かなくなってしまっているのに、希望までかなわなくなってしまうのは本当に辛いことだと思いました。だれかが死ぬことは絶対に考えたくないけど、必ずいつかくることなんですね。
 先生の話したことを自分のことにして考えてみた。そしたらとても悲しかった。今授業をしているときにノックされて「お母さんが死にました」と事務所の人が着たらと思ったら、涙が出そうになった。そしたらやさしいお母さんの顔が出てきて自分は何をしてあげただろう?もっと親孝行すればよかった。わがままばっかり言うんじゃなかったと思いました。こんな終わり方はいやだからこれからの生活を大切にしたい。
 人が死んだとき立ち直るまでこんなにたくさんのことがあるなんて思わなかった。大事な人がいなくなったらやはり変わってしまうのだろうか。いくら嫌いな人と思っていても反発していざその人がってことになったら、その時初めてその人の大切さがわかるのだろう。
 とても難しい話でした。けれどこれで少しは死ぬ時や病気になるとどうなるのかがわかった気がします。これからの誰が死ぬかわからないけれど、その人の気持ちも考えて対応していきたいです。病気になったらとても大変だなあと思いました。
 病気になって動けなくなると、世話をしている人よりも本人が大変だなあと思った。自分の命だからといって、へんにむだにつかってはいけないと思った。
 私のおじいちゃんが死んだときは小学一年だったからあまり覚えていないので「死」ということがどんなことかわからなかったが、今日の話を聞いて少しは「あーそういうことなのかな」と思った。今もこれから家族や友達が死んでほしくない、ずっと生きていてほしいと思った。
 希望がとても大切だということを知った。脳梗塞になって左半身麻痺しているのに論文を出すという希望を捨てなかったお父さんがえらいと思った。その逆に希望を失うことがどれだけ怖いことなのかもわかったような気がした。母は生まれつき右腕が動かない。生まれつきのためにどうやって乗り越えたのかわからないが、どんな障害を持っても大変だと思った。
 子どもに先立たれた人の気持ち、また幼くして亡くなった子ども、死ぬ前の気持ちなど、身近にそういう人がいないために、まったく考えたことがなかった。40年間、お骨をかわいそうだからとお墓に入れなかったのは、悲しい気持ちを持ちつづけていたのだと思います。見た目は明るくふるまっていても人の気持ちも知らず、ずばずばと言ってしまってはいけないと実感しました。
 これからどんなことがあるかわからないけど、希望を見失わないようにします。
 私は猫を飼っています。今一番大切なものです。でも、いつかは死んでしまうと思っただけで悲しくなります。反対に今猫と一緒に生きているという希望があるから楽しいです。
 やっぱ悲しいと思う。私も今まで4、5回死にかけた。死ななくてよかった。
 死ぬのはつらいけど、生きるのにもつらいことはるんだと思った。私は人は希望さえあれば生きていけると思う。重い病気で死んでしまうこともあるかもしれないけど病気などで苦しんでいる人には希望を持ってほしいと思います。
 誰かが死ぬとその周りの人にも大きな影響を与えることになる。私もペットが死んだときはショックだったし、残された人のことを考えると命を粗末にしないでほしい。
 自分の命が自分だけのものではないということがわかってよかった。

10月25日 避けられない死・避けられるかもしれない死 不慮の事故や自殺について触れました。悩んでいる友達に共 感することの重要性について考えました。 11月8日 共感について考えるために朝日新聞のティーンズ ネットに寄せられた質問を利用し、共感を表現する文章を書きました。

いのちを考える授業 00/11/8実施

 今回は「悩んでいる人に共感する」というテーマでした。いろいろな意見がありました。胸がつまりそうになるものもたくさんあります。新聞に投書をした人たちだけではなく、私たちみんなにとって対人関係が難しいのは、私たちの心が相手の立場に立つことを苦手にしているからです。「自分を理解して欲しい」と思う気持ちの半分程度でも使って、「相手を理解」しようとすれば、共感につながっていくのだと思います。だらが書いたのだろうというような詮索はいっさい無用です。それぞれの人がいろいろな思いを秘めて日々を過ごしていることを理解し、ここに書いてあるひと言ひと言を噛みしめ、「私ならこうする」とか「こうするべきだ」というような非難や批判や批評をいっさいせず、あるがままの「隣人」の気持ちに耳を傾けてみましょう。共感はそこからはじまります。まわりにいる「隣人」が「生きにくい」と感じている気持ちは明日のあなた自身の気持ちであり、あなた自身の明日の姿でもあるのだと思います。

質問1 人と違うことに悩む男子高校生への共感

 私も時々、駅などで違う学校の人でも、みんながそうだからと流行の言葉を使って友達の輪に入っている人を、たくさん見かけます。私もその時、流行しているものを持っていなかった時期とかあって、芸能人とかもあまり知らなくて、話に付いて行けない時、自分の言いたいことを言うと、孤立しそうになりました。友達を見かけると、自分が言いたいことを言っても話が合うようになりました。

 私にとって悩みはくだらないものです。自分自身が悩んでも自分が行動しなければ何も解決できない。悩んでいる間にも楽しく過ごしている他人はたくさんいると思う。自分だけを信じていればいい道が見つかるかもしれない。

 私は別にこの人のように感性とか考えたことがないけど、たしかに自分の考えを表現すると孤立するというのはわかる気がする。私は人と同じ考えを持つのはいやだし、人に合わせた考えを持たないとできない友達っていうのは、友達じゃないと思う。私の周りには、そんな子いないからよかった。人と同じ考えを持っていたら、自分の個性がなくておもしろくない世界になると思った。

 自分もかつて人間関係が悪く、いつもひとりでした。今の学校は一緒に登下校する友達もいなく「もうひとりでいいや」と思い、すさんでいました。だけど行事ごとにいつも残り、胸が苦しかった。だから勇気を出して今の友達に話しかけ、気が合って話している。だけど最近「ひとりでいる方が楽だな」と思うことがある。だけどまたひとりぼっちはいやだと思い、一緒にいる。友人の中で本当に大切というのはごくわずか。最近は学校に行くのさえ、疲れる。授業中でもうるさくて迷惑。家にいる方が勉強はかどると思う。そういうのにもつきあわなければいけないのはとてもいやだと思う。

 質問2 女子グループが怖い女子高生への共感

 私も友達は数じゃないとは思う。でもやっぱりどこかのグループに入っていないと不安というのはある。私には友達と呼べる人はたくさんいるけど、親友と呼べるのは5人くらいです。私は部活に入っているのは結構いいと思います。クラスの友達はクラスがえしたらそれっきりということもあるかもしれないけれど、部活の友達ならクラスがえと関係なしでいられるからです。

 私も友達は数じゃなく中身だと思います。本当に気が合ってなんでも言える友達は数じゃないんですよね。私はもとからグループの中にいるタイプではなく、ふたりか少数でいる方です。数はグループの方が多いかもしれないけど、気を楽にできてしゃべれる友達がひとりいるだけでも、かない気が楽になるんじゃないかと思います。

 グループの中にいたら安心かもしれないけど、グループだといざふたり組とかなるとどうなるかわかんないし。グループの中でもやっぱ仲が特にイイ子とか作った方がいいかも。でも数人でも仲良くできる本当の友達がいるのなら、それでいのでは?無理に付き合う10人より楽に付き合える5人の方が私も大切だと思います。

 私にも同じような経験があります。急にみんなの中からはハミりだしたりして、今はいろいろなところをうろうろしています。登校するときの友達、食べるときの友達、ぜんぶちがいます。先生はあとになってからしか気づきません。よくわからないけどがんばってください。

 毎日、相手の顔色ばかりうかがっていたら、きっと毎日が楽しくないと思います。だから友達と呼べる人が少なくてもお互いに分かり合えて、一生つきあっていえるような友達を作っていけばいいと思います。人もやっぱり中身が大切ですね。

 グループは本当に怖い。その子がいるときは笑っていて、かげでは悪口は日常やし、シカトとか流しとか、キライな子やったらしてしまうと思う。結局その子が自分と合わないからそばにいてもおもしろくない、時々むかつくからシカトとかイジメになると思う。それにいやな子とかがグループを抜けても、その人たちはなにも言わないと思う。そばにいるからムカツクだけで、いなくなればなんにもないから、だから気が合う友達をさがせばいいと思う。

 私は体験したことないけど、この人の言うことすごーくようわかります。女子のグループって本当に怖いと思う。かげでなにを言っているかわからないし。ちょっと気に入らなかったら、みんなでムシしてグループから出したり。すごい身近に感じました。

 1年のときはクラスのほとんどの人と仲がよくて、すごく毎日が楽しかったです。でも今は友達が少ないです。少ないのが悪いという考えが少しあります。前にそういうことと同じことをされて、今のグループになってよかったです。今はすごく楽しいのではみられてよかったです。

 私は小学校六年まで友達の顔色をうかがって、自分の意見は言えませんでした。何々ちゃんがするんだったらする、っていう感じで私は自分がどうしたいのか言いませんでした。でも今も少しそういうのが残っていて、どうしてもだれにでもいい顔をするところがあります。そうしたらグループから抜けたあと楽だから。今も正直に言うと、今の友達も裏で絶対に自分の悪口をを言っていると思ってしまいます。こんな自分はいやだけど、なかなかなおりません。主学校のときは別に卒業式まで仲良くしてたらいいわ、という感じでした。別に親友もほしくない。とりあえずは一緒にいる友達がいればいい。でも今は前よりよい仲間ができて結構楽しい。

 私も同じような経験があるので、わかります。中1のときは友達がいなかったから、ちょっとさびしくなったりしました。でもそのうちいろいろ話したりできる友達ができたからとても楽しいです。

 私にも同じことがありました。向こうは自分の話を聞いてもらわないと怒るのに、私が話すと無視する。ぜんぜんおもしろくありません。ただ一緒にいるだけ、話すこともなくどんどん無口になり、「もう、いや」となってグループを抜けました。でも今はクラブでもクラスでもすごく落ち着く友達ができたので、楽しいです。

 私はそんなに大勢のグループではなく、小人数の友達がよい。友達はまわりにいるけれど、その人たちとグループになるのではなく、ずばずば言い合える友達と一緒にいます。グループだと気を使ったりしないといけないので疲れるから、私は信頼できる友達と一緒にいます。

 ずばずば言える友達は少数でよいと思う。私の場合、悪口を言われてもあまり気にしないのでよくわからないけれど、とりあえず嫌なところも認め合えるのが友達だと思います。まあ、ぼーっとしていればなにを言われても気にならないよ。気にしなければ楽だけど、悪口言われた内容のこともよく考えなければいけないと思う。

 友達は結構いるけど、ずばずば本当のことを言えるのは小人数。でも自分はそれでいいし、毎日楽しい。会ったときあいさつしたりするだけでもいいと思うし、全員心を許せなくてもいいと思う。信頼できる友達は少しだから親友という言葉があると思います。

 私はそういう経験はあまりないけれど、ちゃんと自分に合う友達と呼べる人はいます。その人もちゃんと友達呼べる人ができてよかったと思います。これから相手の顔色をうかがうことなく。自分の意志ですごしたらいいと思います。

 私も小学校のとき、友達はたくさんいたほうがいいと思っていました。いつも相手の顔色をうかがったり自分が嫌われないように発言に注意していて、とても疲れてしまいました。だから本当に友達と呼べる人は少なかったです。卒業式でもぜんぜん悲しくなかった。でも中学に入って言いたいことをなんでも言い合える友達ができました。

 私も一度そういうことがありました。気の合う友達が数人しかいなくてもいいと思います。親友がいることがいいと思う。中身で友達って変わります。外見はよくても中身がいやな子は、私だったらブリッコみたいでむかつきます。友達は少なく、中身が大切だと思います。

 私も友達は多いほうがよいと思っていた。だけど本当の友達というのは、お互いが分かり合っていないといけないと思う。友達といえる人が数人しかいなくてもいいと思う。でも友達を大切にしてほしいと思った。

 作り笑いなんかしなくてもいいと思う。そんなことをしても自分が苦労するだけ。そういうことをするから無視されたりするのではないかな。まあそのグループから抜けたからいいけど。だからこれからはいやなときとか、おもしろくないときはちゃんと言って、自分に正直になったほうがよいと思う。

 私もたまにグループがいやになることがあるから、この人の気持ちがわかる。だからこの人に気の合う友達ができてよかったと思う。

 やっぱり友達はなんでも話せる人がいいと思う。自分が話すことにイヤミを言う友達よりも「ウンウン」とちゃんと聞いてくれる友達がよい。もし自分のグループに毎日顔を合わせて自分が話すたびにイヤミを言われたり気の合わない子がいたら私ならはなれていくと思う。ずっとそこにいて人の顔色を見ておせじばかり毎日言わなければならない友達なら、私はいらない。この話を聞いて自分が話していることに注意しなければならないと思った。

 やっぱりグループの中にいると話を合わせてしまう。でも、まあ、いっしょにいて楽しいこともいっぱいあるから、それはそれでいいんじゃないって思います。案外、軽い性格だからかもしれないけれど。

 私は今たくさん友達がいますが、本当の友達と呼べる人は3人です。この3人といると素直にものを言えるし、気を使わないし落ち着くし、おもしろいし、この3人といると本当の自分になれます。やはり友達は人数ではなくて中身です。同感。

 私も友達は中身が大切だと思います。だっていくらたくさんの友達がいても、その中に気軽に相談できる相手がいないと意味がないと思います。私も時々、人に合わせて作り笑いなどしてしまいます。作り笑いは精神的にもつらいと思います。私は小学校のころずっとひとりでいました。その時は「友達なんていらん」と思っていましたが、やっぱり友達がいないと相談相手もいなくてつらいと思います。数じゃなくて中身の合う友達をいっぱい作ったほうがいいと思います。

 私も同じようなことをしている。今一緒にいる友達が本当の友達なのか不安になることがある。グループが奇数じゃなくて偶数なので少し安心できたりする。相手の言っていることがまちがっていると思っても、相手の意見にあわせるようになっている。グループからはずされたり、グループがばらばらになることが怖い。なぜなら自分は弱くてひとりでは生きられないような気がするから。自分をきらっている人をとても怖く思う。その人から逃れようとする。その方法を考えようとする。そして考えたのは「人に合わせること」、「人にやさしくすること」、「目立たないようにすること」です。

 友達と呼んでいてもその人の悪口を言ったりするのはクラスの中にもいると思います。作り笑い、人の顔色を見て話すというのは、私もたまにあります。「嫌われているんじゃないか」と思うことはよくあり、友達に話すうちに緊張したり。気の合う友達がいる場合、そういうことはないけど、やっぱり女ばかりの学校がたまに怖いときがある。昔の自分のほうがいいと思うかもしれないけれど、今の自分にもいいところはあると思います。それを隠さずにいられる自分になれたらいいなと思います。

質問3 自分に自信のない看護学校生徒

 私は以前すごく太っていました。その時はこの人と同じことを思っていました。ひどいあだ名をつけられて本当にいやでした。でもちょっとやせるとかわいくなると思います。私の場合はおやつを抜いたりウォーキングをしたりしてやせることができました。この人は全然努力をしていないと思います。この人だって結婚したくなるときがくるからきれいごとばかり言ってないで自分から努力してみればいいと思います。がんばってやせたらまわりの人の視線も変わると思います。がんばってください。

 別に自分が好きなように生きたらよいと思います。合コンしたくないならしなくていいし。別にころころしてたらかわいくないって決まってないし、外見で劣等感を持っているなら性格で勝ったらいいんじゃないですか。自分は自分じゃないでしょうか。他人に気に入られようとばっかり思っていたら疲れるだけです。

 人は人、自分は自分だから自分を好きになれないことはしかたないと思う。

質問4 人前に出るのが苦手な短大生

 私はこの人とはまったく反対です。この人はずばっと言うのがいやって言うけど、陰口はいいんですか。私はずばっと面と向かって言ってくれたほうが、自分のどこが悪かったかわかります。言い争うのがいやだったら一生仲直りなんてできないと思います。でも昔は私と同じような人だったんですね。前のような自分に戻れたらいいですね。この文はあんまり共感できなかった。

 私は前に友達と思っていた人がいました。けれど病気で2日ほど学校を休んでしまったんです。学校に出てきてから話しかけても無視をされて、クラスの友達がいなくなってしまいました。友達はほかのクラスにいて、移動教室はいつもひとりで行っています。話しかけるのは簡単だけど、そのグループの中に入っていけないのです。裏切られるのが怖くて。だからクラスが離れてしまうと休み時間はひとりになったりグループ行動はいっしょにする人がいなかったり、さびしいと思いたくないから他のクラスへ遊びに行ったりしています。

 私は自分のことをあまり好きになれない、というところは私も一緒です。自分が好きと言える人はそんなにいるとは思いません。世界中で自分一人がそういう考えをしているなんてありえないんです。それに今の自分がきらいなら、まずきらいから普通になるまでのきっかえを探すべきです。そして人前にいるのが苦手でも、勇気をもって話しかけたりしてみるんです。そうして経験をつんでいくうちに、心は強くなっていきます。小さな魚をこわがっている人が、川とか海とかを泳いでたくさんの生物を見たらどうでしょう。それと一緒です。

 私はこの人の最後の文で「ひとにおびえることなくけんかできた自分に戻りたい」というのを見て、同じだなと思いました。私は家では自分を出せなくなってしまいました。昔はこの人と同じようにけんかもよくしていたし、友達とも楽しく遊んでいたから今、私も昔と同じように自分を出すことができたらいいなと思います。でも急に自分を出すのはむずかしく、どうしてもおとなしい子のままです。どうしたら自分を出せるのか、昔のように戻れるのかわからないけれど、この文を読んで同じようなことで悩んでいるのは私だけじゃないとわかりました。この文を読むまでは自分だけが悩んでいるのだと思っていたので、うれしいような気がします。

11月22日 病名告知について考えました。

生と死をとりまく現代医療 病名告知


 今回のテーマについての有効回答は29名、そのうち自分の病名を知りたいと答えたのは26名、知りたくないと答えたものは4名、わからないが2名でした。私自身が一番気になるのは白紙のもの、または未提出のものの数です。1年を通して「いのちを考える」授業に取り組んできて、みなさんにとっては困難なテーマについて考え、文章化(本当は意見をみんなの前で言ってもらいたかったのですが、そこまでは私の指導力不足のせいもあり、できませんでした。)してもらってきました。

 その中に必ず、数名の「わからない」とだけ書いたものがありました。入り口のところから1歩も中に入ろうとしない「わからない」は大変問題です。考えたすえの「わからない」という結果に至ったのなら、なぜわからないという結果に至ったのかを書くべきです。これからの社会で求められているのは、学料成績だけではなく、「自分の意見」を持ち、「自分で判断」し、「自分の考え」を表明する力です。それがまさに新しい時代を「生きる力」でもあります。

 1年生の時の3分間スピーチも、今年の「いのちを考える」授業も、基本的にはこの「生きる力」を養う試みであったと思います。いろいろな場面で責任を持った行動をとれるよき市民になってもらいたいと心から願っています。

 告知を望む理由
★ その家族の年齢や性格によって告知するかどうか決める。たとえば私のおかあさんは告知でよけいに悪化しそうです。


★ 知らず知らずに家族にだまされていたまま死んでいってほしくないから。もし自分が患者だったら家族に隠されたまま死ぬなんていやだから。何の病気かわからない(本当の病名を知らない)のに、自分がどんどん弱っていくのは悲しい。かわいそうだけど伝えるべきだと思う。


★ 何も知らないまま死んでいくのは絶対にイヤ。だって死ぬことを知らないでいたら、死ぬ前に親とか友達とか妹とかにありがとうって言えない。私は死ぬときは大切な人に感謝の気持ちを伝えたいから言ってほしい。


★ 望む理由は親ばかり心配させて苦しめたくないから。自分のために教えてほしい。


★ やっぱりガンとなるとある程度わかると思うし、知っておきたい。いずれわかることだから隠してほしくない。家族の態度でわかりそうだし、家族まで隠しているって感じでいやだと思うから。


★ 家族には言ってほしいが、子どもには言いたくない。ガンって告知されたらやりたいことができるが、言われなかったらなにも知らないまま、なにもできずに死んでしまうのはイヤだから。あと家族だけが知っていたらガンとわからなくても、なにか悪い病気だと雰囲気でわかると思うから。どうせわかるんだったら、最初から言ったほうがよい。


★ 私は告知されて落ち込むかもしれないけれど、もし死ぬのなら今までできなかったことをたくさんして、すべてやりきってから死んでいきたい。もし告知されなくてやりたいことをできないなんてすごくイヤだし、自分の病気が本当は何かわからなくて死ぬのはイヤ。


★ 最後一緒に過ごすときは明るく普通に過ごさせてあげたい。でも自分の場合、知らせてほしい。怖いけど心がまえも少しはしておきたい気持はあります。でも結局家族の立場ならなるべくしたくないです。


★ 自分の病名や状況を知ったらそれに対しての今後の生活が変わるから。死ぬんだったら思い残したまま死ぬよりも、自分の状況であとどれくらい生きられるか考えて、思い残さないでいろいろしたい。


★ 自分は病名と病状をちゃんと教えてもらいたい。きっとやりたいことがたくさんあると思うから。でも家族の人がガンになった場合は告知したくない。なんか落ち込みそうでかわいそうになる。でも自分が教えてほしいんだから、家族の人も教えてもらいたいかもしれない。


★ 私はたぶん黙っていても大体雰囲気でわかると思うので、変に隠してもらうよりも言ってもらいたい。家族のときは告知して思いっきり一緒に旅行すると思う。


★ 信じる人や大切に思ってくれる人にだけ伝えたい。その人の対応によって自分自身や自分の気持が変わると思うし、ひとりで悩んでいたり落ち込むのはいや。まわりに知っている人がいるというだけで、自分の気持は少し軽くなると思う。


★ 自分がどんな状態なのか知っておきたいし、ごまかされるのは嫌だと思うから。人間って先が短いとわかったときに人生の価値がわかると思うから。


★ 知っていたほうがすっきりするし、自分でこれからどうするか考えられるから。もし死ぬようなことだったらうそをつかれたまま死にたくないから。


★ 家族の立場だと患者が傷つくかもしれないから、告知したくはないけれど、患者は知りたいと思うだろうから。患者はうすうす気づいてしまうと思うし、うそをついていたことがわかると余計にだめかなと思います。


★ 私は告知を望みます。告知されないままわけもわからずに死んでしまうのはいやだから。死ぬまでに自分の好きなことをいっぱいしたい。告知されたらすごいショックだけど、「よし、あとちょっとだけがんばろう」と思って、もしかしたらなおるかもしれない。


★ 知りたいから。知らんかったらイヤ。なんか。


★ 遅かれ早かれわかってしまうのなら、早いほうが相手もすっきりすると思う。相手にもよる。


★ 患者の人が残った時間を有効に使えるから。


★ やっぱり自分の病状は知っておきたいし、知らせてもらったら自分が死ぬまでにしたいことができるから。知らされないで、うそをつかれるほうがいや。


★ 告知を望まないと思っている人も、自分自身ではなんとなくわかっていると思うから、告知をして本当のことを知ってほしいと思った。だまして演技をしているのは、かえって本人を悲しませるだけだと思う。だけど本人が告知を希望しないなら、しないほうがよいと思った。


★ 一応自分のことだからわかてときたい。自分のことをわかっていたほうが今後のことも正しく考えられると思うから。


★ へたに隠されて疑うよりもすぱっと言われたほうがよい。

 望まない理由
☆ 死ぬってわかっていたらだれでも絶対に落ち込んで、さみしい気持で死んでいかなければならないから。わかっていなかったら、なげやりにならないですむと思う。でも自分一人だけなにも知らないまま死んでいくのも、まわりから隔離されているようでかわいそうだなあ、と思った。


☆ その人が本当の病名を知って落ち込んで一生なおらないと重いk見、病気がもっとひどくなったらだめだから。


☆ 聞いてしまうと関係がギクシャクしてしまう。今までのままでいたいから。ショックになる。


☆ 知らないほうが残りの人生を少しでも楽しく過ごせるから。

 わからない理由
☆ 本当にどうすればいいのか予想もつかない。自分がそうなっても、どうしてほしいかわからない。


☆ 病名を知らされたら、くわしい内容を聞き、もし助からない場合、患者の望むことを、病気だと気づかれないようにさりげなくしたいから。

2001/1/24 葉っぱのフレディーをみんなで読みました。

「死」の話から「生」の話へ移るために、「葉っぱのフレディー」レオ・バスカーリア作 童話屋刊を生徒に読み聞かせる。森繁久弥朗読のCDと、カラーコピーで拡大した絵本を紙芝居上にして見せた。その中に出てくる「いつかは死ぬさ。でもいのちは永遠に生きているのだよ。」というダニエルの言葉をきっかけにして、その意味を考えさせる。
 あの人はこういう人だった、というような人の記憶に残る永遠と、生命としての永遠の二種類があることを指摘する。