中野ラグナロク・ペシミスティック・ウイザード

▲ペシミスティック・ウイザードのりりしいお姿
イベントレポート 正岡豊
2003年11月22日(土) 於 東京築地 兎小舎 「朗読千夜一夜〜第五夜〜」
リンク 朗読千夜一夜〜第五夜〜 朗読千夜一夜
2003年11月23日(日) 於 神楽坂 日本出版クラブ会館 「第二回短歌ニューウェーブコミュニケーション」
リンク 第二回歌葉新人賞【リアルタイム・スペース】BBS リアルタイム
1)朗読千夜一夜〜第五夜〜
ということでひさしぶりの速攻レポートです。
来年の一月でなくなってしまうらしい「兎小舎」は、プラスワンみたいなライブハウスっぽいとこ
かしらと思っていたら、椅子とウッドカラーのグランドピアノと小さなステージとだけがある、ほん
との小パフォーマンス向けのスポットなのでした。
これはやりやすいですね。
でも昔の関西の詩マーケットみたいなやりにくいとこでの朗読も捨てがたい・・・ことはないか。
夜の朗読会というのはいいですね。
昼とはまたカラーが違うような。
では出演者ごとのコメントを。
☆多田百合香
女子高生歌人、多田さんは、制服姿で登場。なにもいわずにいきなり歌を読み出すのは
ちょっと、と思って終わってからそれをいったら、ほんとはいうつもりだったんだけど、
やはりあがっていたらしい。女の子らしい歌を女の子らしい声で読むけど、ちょっとし
た清潔感がステージング全体にあるのは、別に私がオヤジ視線で見てるからではなくて、
本人の資質のようなものだろう。
アイドル歌手のオーディションなら、パンチにかける感じがするといったところか。
聞かせどころ、というものを自分で見つけることがまだできてないかもしれない。
聞かせどころや見せどころのことを、ナチュラルに朗読のなかに繰り込むというのは、
割と第一線の歌人でもできない(まあ必要ないひともいるけど)ひともいるんですがね。
☆北大路翼
俳人の北大路さん。顔や雰囲気が和合亮一プラス高山れおな割る2という感じで親しみが
もてるような距離を持ちたくなるような、微妙なところ。
俳句の朗読というのは難しいよね。
なぜ難しいかはいろいろいえるんだけど、やはり俳句というのは言葉をいったん「無音化」
させたところで成立してるからじゃないですかね。
まあそういうのとは別に、今回の北大路さんは、田舎の子供スタイルで衣装付きで俳句と
童話を読む、というもの。
俳句と童話の関連性がいまいちよくわからなかったし、暗い色の服だとシーリングライトとの
関係で顔だけが浮き上がっちゃうんで、ちょっとよくわからない世界になっちゃいましたね。
俳句はそれなりに男性的な修辞と、今風の抑制のきいたロマンチズムが感じられて、
そんなに悪くはなかったです。
でも聞く人に「自分」を伝えるのなら、ふつうのスーツ姿でよかったかもね、スタイルは。
☆よしだかよ
「ちゃばしら」でおなじみのよしだかよさん。正岡子規の家を訪ねるエッセイと、短歌作品
をからめて朗読。正岡子規関連のせりふまわしのようなものを、同じくちゃばしらの井口一夫さんが
横から読む、というもの。
散文部分は、よく聞こえるし、意味もすぐわかるのだけど、短歌の部分がそうなると、聞き取って
歌として受容されるまでにタイムラグが生まれてしまう気がする。
今の朗読会は、一人でやるのではなく、複数のひとがマイクの前に入れ替わり立つことが
前提となっているから、聞く方も「興味の持続」の次元に感心がいっちゃうので、いったんそこから
聞くものの意識をひきはがして「歌を聴く」ことに集中させることが
どこかで必要だろうと思う。
生活感とスタイルの素敵さとのミクストメディア(という言い方は、難しめだけど)という感覚は、
それなりにおもしろかった。
いい意味での陽性の感覚は、それをより引き出すような感覚で舞台を構成するといいんではないだろうか。
☆柴田千晶
詩集『空室』の著者の詩人。ちょっとゴシックホラーのような感じのするステージ。
前ふり、というのがない朗読、というのは、たとえばスポークンワードなどの「伝統」を持つ
海外のリーディングとはちょっと違うところに身をおいてしまうことではあるまいか。
詩が読まれるとき、聞く側の意識はそれをどうやって追うのか、ということに、
どんな風にアプローチするか、というのが詩の朗読の舞台を決めてしまうのかもしれない。
☆田中槐
もう次が自分の出番だったので、あんまりしっかり聞いていなくてごめんなさい。
しりとりの様式で、書かれた連作を朗読。
大きな抑揚はないが、単調でもないという朗読で、これはこれでひとつのスタイル。
とりあえず本人がなにがしたいかはよくわかるわけである。
でもマラソンリーディング第一回の連作「メリーゴーラウンド」(だったと思う)
の「いやだったいやだったいやだった」というフレーズの、時間や人格のパラフレーズ感
に満ちたせつない迫力はちょっとなかったかもね。
☆正岡豊
では自分のことも。
「天下一品」というラーメン屋さんには、「こってり」と「あっさり」の二種類の
スープがありますが、そういう意味では今回はあっさり味。
時期的に秋だしもう街はクリスマスなのでそのあたりから作品を選択。
*清水あきら「君に会いたい」
*藤井貞和「朝風、ピューリファイ!」
*田中啓子「降誕劇」
*自作詩集「ホスピタル・ポエトリ」(当日使わず)
*自作短歌「38」(当日使わず)
*自作短歌「この秋の日の○と×」
*自作短歌「クリスマス・ナイツ」
*自作短歌「ひかりの秋、雨の秋」(当日使わず)
当たり前だが、バックの音楽も用意しないで、自分ひとりでやる場合は、
舞台にかけるほんとうにその瞬間まで、なにをどうやるかは自由に動かせるし、
かけてるその瞬間にも微妙に聞くことではわかりにくい部分を
わかりやすく言い換えたりできる。というか、私はしている。
ということで、今回は順番が最後で、誰も音楽を使わなかったし、前降り話の長いひとも
いなかったので、いわゆる「話しかけスタイル」の構成でやる。
「今回は三部構成でやります」とかいった話の部分は、
ほとんど会場にいって考えたことである。
マラソンリーディングの第一回のときのようなせっぱつまった感覚は、今の私にはもうない。
今の朗読というのは、「朗読する人がいる」「朗読を聞く人がいる」ということそのことへの、
「肯定の感覚」がベースにあるわけで、そのことに対する批判の感覚は自分のなかから
なくなってしまったわけではないけれど、
とりあえずそれはそれとして、ウエル・メイド・プレイの朗読で、今回はよしと思ったのだった。
清水と藤井の詩二編は、ずっと(十年以上前から(笑))一度朗読したかったもので、
清水のは作品のテキストを持ってくるのを忘れたので、朗読ではなく暗唱になってしまった。
反省としては、「降誕劇」をはずして、結局とばした「ひかりの秋」まで読んじゃったほうが
よかったでしょうね。
通しリハやってたら、そうしてたかもしれません。
持っていったテキストはこちら。
(クリスマスナイツは20首ぐらいと俳句のところをはしょって読みました)
http://www.eonet.ne.jp/~tensyou/11-22roudoku.txt
終わっては沖縄料理の店で一次会。またそのあと二次会。
今回一番初対面で意外だったのが、「ちゃばしら」の井口一夫さんで、私はもっと若い学生っぽい
ひとがやっているのかと思ったら、加藤治郎さんと同年齢で、うーん、なんか新興のプロレスジム
のコーチ兼プロモーターみたいな感じの人ですね。それのなにが意外かというと、
こういう世代で、こういう雰囲気の人は、多少のことでははしゃがないだろうということですかね。
と同時に多少のことでは達観の域にはいらないといいましょうか。
いまさらこんなことをいってはなんですが、いろんなひとが短歌に関わるようになったものだ
と思いました。
ひさしぶりにもどしてしまうぐらい飲んで、岡田幸生さんにはお世話になりました。
あと槐さんの複数のイベントを同時進行させる膂力というのにはいつも感心させられます。
あまりたくさん話せなくてごめんなさい。
ということでとりあえず一日目は終了。
2)第二回ニューウエーブ短歌コミュニケーション
その泊まった岡田さんちが中野区だったので、この文章のタイトルが中野なんたらになってます。
さて短歌コミュニケーションは今回は第二回歌葉新人賞の公開選考座談会とそのあと
小林恭二をまじえての選考の荻原裕幸・穂村弘・加藤治郎の四者の座談会となります。
テーブルがなんとか庁なんとか経済なんとか顧問会議のように長方形に囲みあうように
並べてあって、これが緊張感を生み出したといいますが、まあ慣れてしまえばこれはそれほど。
さて確か筒井康隆が参加したりしてたどこかの文芸の新人賞が公開で選考をしてたことはあるけど
確かにこういう企画ははじめてですね。私は昔塚本邦雄が豪快に(あれは強引というより豪快)江畑実の
「檸檬列島」という作品を押して受賞させてしまったときの角川短歌賞の選考座談会なんかも
見てみたかったですね。
イベント参加人数は40人〜50人ぐらいかな?
それでもこのイベント自体の、参加募集がかなり直前だったということで、(二週間前?)
よく集まったほうではないかとは、某女性の意見。
私はどちらかというと物見的というか、どうせ朗読会の翌日が休みだったからの出席だったので、
ひとの集まり方にはなんともいえないです。
選考会は、それぞれの選者が、それぞれの押す作品についてのコメントをいっていくところからスタート。
メモをとってなくてもある程度おぼえる自信はあったのですが、これを書く時点でもうかなり記憶は曖昧だし、
座談会が賞の決定という目的のはっきりしたものなので、発言の詳細はあまり書かないほうがいいと思うので、
おぼえまちがえてないという自信のあるとこだけ、書きます。
ただ公開というのは、こういうレポート書いたりするひともいるという前提も考えた上での
ことだと思うというところもあって、完全に遠慮することもないよなあとも思います。
まあ選考までにウエブでの掲示板形式のやりとりがあるので、結局しぼりこんでいく課程、自分が候補に選んだ者の
選んだ側からのマイナス面などが、意識的に語られていったと思えます。
加藤さんは自分が押した鈴木二文字の「たんかっち」を、これはスケルトンで骨格だ、という言い方で
マイナス面を指摘してた、というのが明快なところだったでしょうか。
とにかく早い段階でしぼりこんでいかないと決まらないので、
とりあえず斉藤斎藤さんと兵庫ユカさんの作品にほとんど対象がしぼりこまれてゆきました。
あとは兵庫ユカの作品を押す加藤治郎と斉藤斎藤の作品を押す穂村弘、両方押すことは押しているので、
結局こうなるのかと思い始めてるように見える荻原裕幸のやりとりですね。
対象となったのは斉藤斎藤さんでは、
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁
という歌で、この「なんでしょう」にはかなりの作者の「力」(とはいわなかったと思いますが)
がこめられている、というのが穂村弘の意見。
そういうことは踏まえた上で、なおかつこの歌の「秀歌性」、新人賞の作品のなかには必ずその歌人の
代表作となる歌が含まれている、この歌をそうしたものと考えた場合、この歌の「秀歌性」に疑問を
なげかけた(といえると思う)加藤治郎の意見。
秀歌性というのは時代によって変わっていくんだというそれはそれで説得力のある荻原裕幸の意見。
私は古いところがあるんで、加藤さんの意見には多少賛同したいとこはあります。
兵庫ユカさんでは、
誰からの施しかだけ確かめて携帯電話を片手で畳む
という歌の上句にあるような対人の関係性に対するシニカルさの強調に疑義を提出。
ただ穂村弘は兵庫ユカのこの一連の作品が賞をもらうならそれはそれでいいんだけど、これより兵庫さんは
もっといい一連があったと思っちゃうんだよな、おれは、ということだった。
私は歌をたくさん作ってるとこういう歌ってできちゃうよね、という感じがします。
ということで最終選考はこの二者の決戦投票へ。
ここで休憩をはさんで、司会の荻原裕幸から、二者同時受賞というのはないので、で次席というのを作ると、
その次席のひとがそこから先へいけなくなってしまうというのがあったりするので
(こういうところのこの三人、あるいは荻原裕幸の視点はほんとに的確だなあと思います)
前回作らなかったんですが、今回はこういう過程だからどうでしょう、加藤さん穂村さん、
という話がなされて、加藤穂村も賛同。
で逃げも隠れもできない状況のなかで、穂村弘は斉藤斎藤さんに、加藤治郎は兵庫ユカさんに、
荻原裕幸は斉藤斎藤さんに、票を入れ、賞は斉藤斎藤さんと決まりました。
おめでとうございました。
というところでこの公開ということへの評価なり感想なりがはじまるんでしょうが、
私自身はそんな風には考えがいかなかったので、終わって休憩になったときにひとにいわれた
「率直な選考でしたね」というまっとうな意見に思わず「卑怯ではなかったよね」
などといってしまいました(^^;)。
ただ今年の三浦雅士の土井晩翠賞
(どうでもいいが、たとえば土井晩翠というと、大詩人・土井晩翠というひともいるわけで
それはそれで違和感があったとしても間違いではないわけである。しかしやっぱり大詩人・土井晩翠
というときにはいったん詩史的なパースペクティブを一般的な専門詩誌の読者の偏向した視点から
解体していくことが必要になるわけである。しかし、ともう一度使うが、そういうことって
「いったもん勝ち」になっちゃうこともまた事実なんだよね。この文章はそういうことで多少頭を
抱え気味になる人間が書いているということは書いておかないと、それはそれで卑怯なのかもしれない
と今思ったが、多くの人にはどうでもいいことかもね、とも今思った)
の選後の感想というのは、この公開座談会とは逆の比較的密室状況でおこなわれたもののあとで書かれた、
落選作へのストレートなリスペクトとオマージュ「だけ」が書かれたそれなりに感動的で反動的なものだったりも
するわけで、それはそれであってもいいかなあとも思ったりもする。
終わってしばらくして、ゲストの小林恭二さんをまじえての選後の感想も含めた座談会。
最初に加藤治郎さんから、資料が一枚。
加藤治郎の個人史と、短歌の近過去史をパラフレーズした年表形式のもので
「未来」の加藤治郎特集のために作ったものをアレンジしたものらしいが、
よけいな現代詩や俳句のことが書かれていない分、加藤治郎の頭の中の史観がよく見えるものでは
ないかと思う。
小林さんはとにかく受賞作にかかわらず候補作の全部をさほど嫌みも誇張もなく(と思う)、
長所をほめることから話はじめて、全部ひととおり話終わると、荻原裕幸から岩波新書の『短歌パラダイス』
を読んだひとはこの今日きたなかにどれくらいいますか、という質問がなされる。
多くのひとが手をあげたあと、荻原は実はこの『短歌パラダイス』は歌壇が刊行当時うまく受け止められなかった
本なんです、という風に話をつなげる。
このあたりの「歌壇の受け止め方」とかは私にはよくわからないお話。
ついでへるめす歌会、へるめす歌会がはじまったころの荻原加藤穂村の状況、それから小林恭二のこの三人への
当時の時点でのオマージュなどに話はうつる。
あと加藤治郎の配布資料の説明は私にはおもしろかったし、わかりやすかった。
基本になっているのは、常に新しくなっていかなければいけない次元としての「韻律の革新」という
テーマと融合した短歌それ自身の展開力の、史的な把握がまずひとつ。
もうひとつが歌言葉の問題。
(加藤さんの話よりこの言い方ははるかにわかりにくくなってます(笑))
前衛短歌の後継と、それとは別の「ポップ」の方向と二つのベクトルを想定して、
ポップであることがかえって前衛の後継でありえるという逆説をへて、
そういうベクトルの設定が不可能になるものとしての現在、ということで現在の短歌の状況を描写するというもの
ですね。
座談会のなかの話の順番はもうおぼえてないんですが。
内容としては、穂村弘と加藤治郎が、時代の変革の象徴として、塚本邦雄の影響力の消滅を語るところは、
何度も聞いてる話なのだが、なんだかいつ聞いてもおもしろいのはなぜでしょう。
「学生は塚本読むでしょ、普通」(穂村弘)というような感じの発言とか。
これに関して荻原裕幸からは、加藤穂村の二人こそ塚本の影響からすごい速度で遠ざかってた二人なんだから、
そんな話をきいてなにをいってるんだいまごろ、と思う、という感想。
小林恭二からは、じじいか、おまえらは、と冗談めかして。
時代の影響の中心なんかいつだって変わっていくんだから、そんないつまでも同じわけないじゃないか、
とこれもまっとうな意見。
そのあとも現在の状況のわかりにくさを語る穂村加藤の二人に、あ、この二人は現在や短歌の未来のことを
考えたり若い世代に聞いてるふりをして実は自分のこれから先を考えてるということが今わかりました、
と軽く笑わせたあたりで話は収束へ。
さて個人的な感想としてですが。
穂村弘さんはよく俳人の安井浩司の句が全然わからないというんですが、それは別にそれとして、
ある程度安井の句を読み、評価もしている小林恭二が今回の歌葉の新人賞の作品をほとんど肯定的に語ってるのは、
かなり私には意外でした。しかしまあそういう評価なんですから、今回の歌葉新人賞候補作のほとんどを
そんなに肯定的に思えないで安井はエライと思ってる私は、結構ペシミスティックになりました。
もちろん人と評価の違うのは当たり前なのでなにもたそがれる必要はないわけですが。
理由をいえば、加藤治郎さんの言い方でいえば、それぞれの新人賞への応募作品は、
「韻律の革新」への欲望が、短歌への希求と重ね合わされて
作品として展開されているのだとしても、ぼくには革新そのものへの「強迫神経症」に見えてしまうところが
あるからでしょうね。
しかしそこを「強迫神経症」に見てしまう人にまで、現在、歌を手渡すような形で、書いていく必要があるのかは私にはなんともいえません。
書き抜かしたこともありますがだいたいこんな感じでした。
俳人の櫂美知子さんがいらしていたのではじめてお話することが出来ました。
初対面の印象は、これはもう「綾戸千絵」という感じ、につきますね。
あ、あと懇親会の挨拶の斉藤斎藤さんの手の動かし方はとても印象的でした。
それは別に、神経症的だとかいう意味ではまったくないです、はい。
あと個人的に今回はかなりの数のひとから「日記読んでます」「再開してよ」と
いわれました。
それは、ちょっと「不思議な気」がしました。
というようなことで。