「青」 青の象形文字をみますと、上半分は植物の形で、下半分は丼のような形になっています。丼は井戸の枠組みのようなものを作るが、枠組みではなく中身のことだよと内部に点を打って注意を促したものです。
 つまり、青とは、草木が井戸から水をくみ上げるがごとく、下の水脈から水を得て青々と茂っているその色を表します。ですから、元々は緑を意味していたのです。
 しかし、井戸の枠組みから掘り出されるのは水とは限りません。朱色の顔料となる硫化水銀などもそうなのです。ここから、丼のような形は赤色を意味する丹という文字になります。青の旧字「」には、青を意味しながら、赤を意味する丹と同居する矛盾があります。そこで、丹は水の精である月に置き換えられ、青という文字が出来上がりました。このことからもの下半分の丼は水源を表すことが明らかです。
 グリーン(青)に覆われた山々も遠方から望めばブルーに見えます。緑と青は同じ色で区別する必要がないということになるのかもしれません。




「月」 淮南子天文訓には、「積陰の寒気は水となり、水気の精なるものは月となる。」、「方諸、月を見れば、すなわち津して水となる。」という言葉があります。
 満月の夜に、「方諸」という大ハマグリを置くと、やがて露を結び、水滴が流れ落ちます。それを銅盤で受けたとされています。
 当時、「空中の水蒸気が温度差のため凝結して
」などという科学的知識はありません。ただ、月光の元での不思議な事実として受けとめられました。陰の冷たい火、月は水の精なのです。そして、月は海水の干満をも支配します。
 山幸彦は海神に授けられた「塩盈
(シオミツ)珠」、「塩幹(シオヒル)珠」をあやつって兄の海幸彦をこらしめましたが、この二つの珠は月の象徴です。水神である竜が玉を持つのも同じ理由です。
 大蛤の正体は不明ですが、方諸を作っているところをみると実在するようです。かなりの大きさと思えますので、シャコ貝のようなものでしょうか。この貝が息を吐くとき蜃気楼がおこると考えられています。



「ほ、ほつ」(穂、秀、発→初) 最も優秀なもの、高みにあるものをいいます。ホツマ国と表される大和は、最も優れた地位の高い国、先頭の国、始まりの国だったのです。他、「波の穂(波の先端)」、「上枝(ホツエ)」などの表現が記、紀にみられます。植物の上端に実る穂も当然そうで、穂高岳はそのあたりで一番高い山という意味になります。
 天空の高みにある火の精、太陽も「ほ」で、そこから火に転用されたのではないでしょうか。火は高みに上がりたがるものです。伊邪那岐命の左眼から最初に太陽神、天照大神が生まれていますから、先頭にも関係しています。
 「炎(ほのほ)」は、文字を見れば明らかなように「火の火」で燃え上がる火を意味します。「ほのか」は始まったばかりの微小な状態をいいます。「ほとり」は水の境界の最先端です。「ほ(誉)む」は相手を持ち上げています。そして、「帆」も高く張り上げられるものなのです。


  ほ(高くあがるもの、優秀、始め、先端)=== 太陽、星 ――→ 火、帆
                       (太陽はヒとなりホから脱落)




「みつみつし」  
「みつみつし 久米の子が くぶつつい 石つつい持ち、撃ちてし止まむ。」
 これは、古事記の歌謡の一節です。「みつみつし、久米の子が、(木の)こぶの槌、石の槌を持って撃ち殺してしまうぞ。」という意味になります。
 「くぶつつい」は、「くぶ」+「つ」+「つい」と分解できます。「くぶ」はこぶなどの塊状のものを表し、「つ」は「の」に置き換えられます。当時は、「の」と「つ」、二つの同義の表現があったということになります。「末っ子」は「末」+「つ(=の)」+「子」です。
 「つい」は槌(椎=ツイ)です。あわせて、先端が瘤状になった槌が姿をあらわします。石と対応しているようなので木の槌でしょう。「くぶつつい」、「石つつい」が、後に「くぶつち」、「石つち」に転訛し、「つち」が槌を表すようになったと考えられます。
 「みつみつし」は語義未詳の久米の枕詞とされていますが、小難しく考える必要はありません。「みっつ」を「みっつ」すればいいだけです。
 つまり3×3で9(ク)を引き出すための枕詞です。古代の歌にはこのような楽しい言葉遊びの世界があります。学者さんは生真面目すぎますね。



「かかし」 その形態から蛇は一足と表されます。そして、八俣のヲロチの目は赤かがち(ほおずき)のように輝いていました。ヤマカガシという蛇の名も赤っぽいことから生まれたようです。
 つまり、山田の案山子(かかし)が一本足にされるのは蛇身の表現なのです。穀物を狙う小鳥やネズミはさぞ恐れるでしょう。カガ、カカは火(日)と蛇に関係しています。

火(日) 蛇(長い、丸=とぐろ)
輝く(光) 懸かる、係る(=長いものに関係)
鏡(光の反射) かがみ(ががいも=つる草)
かがり(火) かがり(=糸で縫う)
掲げる(カカゲル=高く上にあげる) 抱える(=丸く囲む)
かがち(ほおずき=赤) かがふる(被る=蛇が呑む形)
カグツチ(火の神) かがむ(=折り畳んでコンパクト)
かっかする   かかし

 三輪山の大物主神は蛇神かつ雷神でした。蛇は水の神とされますから、月に結び付くのは当然です。オオナムチ神(大物主神)の先魂、奇魂は海を照らして出雲に出現しましたが、これは月明かりの表現なのです。夜にしか現れない、虚空を踏んで三諸山に登った、鍵穴を抜け通って部屋の中に入ったとされるのも同じく月明かりの表現です。同時に雷神ですから火の神でもあります。日とも結び付くのです。陰陽両面を持っていて、陰が主ということになるようです。
 斎部広成の古語拾遺に、古語では、蛇のことを「ハハ」と言ったと記されていますから、母はカカであり、火種を持つ蛇だということになってしまうのですが
……。母には言わないことにします。



「あづま」 東国征討に出た景行天皇の皇子、倭武(ヤマトタケル)尊は帰途、足柄山の坂に登り立ち、その妻、弟橘姫の死をいたんで「あづまはや」と嘆きました。そこで、「あづま」をその地の国名にしたと古事記は記しています。単なる語呂合わせなので、この話をそのまま受け取る必要はありません。
 「つま」とは「先端部」や「主なる者に寄り添うもの」を意味しますから、「あづま」とは、「つま」に接頭語の「あ」が付いたもの。国の辺境部を表す言葉だったと思われます。都の大和から最も遠い東方のため、後に、東国の意味に転じました。
 

「つま」 《先端部》 《主に寄り添うもの》
(爪は指先に引っ付いている) つま(爪) 妻、夫(つま)
つま先 刺身のつま
つまむ 酒のつまみ
つまる、つめる




「うどの大木」 「う」は宇で大を表します。「ど」は洞で空洞のあること。あわせて内部に大きな空洞のある大木を意味するようです。
 高さがせいぜい一、二メートルとされるウコギ科の多年草、食用の「独活(うど)」が大木になるのはどういうわけかと不思議だったのですが、こう考えれば、「からばかりが大きくて役に立たない者」のたとえとして使われるわけがわかります。
 宮崎県日南市の鵜戸神宮の「うど」も同じで、大きな洞窟の中に神社が設けられています。以下の「ど」も洞と解すればいいのではないでしょうか。

 マド=家の壁、柱と柱の間にある穴、間洞(窓)
 クド=かまどの煙り抜きの穴
 ホド=内部に熱をもつ穴。火洞(ホト)
 サド=小さい穴がある島=島の中央部が凹んで両側に山脈が張り出す
 ノド=口に続く穴=呑む穴


 ウドの木というオシロイバナ科の水分の多い常緑高木がありますが、沖縄、小笠原などに生えるとされていて、日本語の慣用句とは縁が薄そうです。役に立たない大木だから、あとから「うどの木」の名を与えられたのではないか。


「ふくべ、ふくし」 万葉集は次の雄略天皇の歌で始まります。

「籠もよ 美籠持ち ふくしもよ 美ぶくし持ち この丘に 菜摘ます兒 家告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそいませ 我こそは 告らめ 家をも名をも」

 意味は
「籠も美しい籠を持ち、瓢箪も美しい瓢箪を持ち、この丘で菜を摘んでいるお嬢さん。家を教えておくれ。名を教えておくれ。そらみつ大和の国は、すべて私のもの。すべて私が支配している。私こそ先に言おう。家をも名をも。(大王であるぞ、まいったか!)」

 お嬢さんは籠と水筒を持って、それも上等ですから、いい家柄で、よそ行きのものなのです。菜を摘んでいました。一人ではなく、弁当を持ったグループでの野遊びではないでしょうか。短気で強圧的な雄略天皇の性格そのままといった感じの歌です。瓢箪は、飲み物を持ち運ぶ重要な道具、古代の水筒でした。
 「ふくべ」が瓢箪を意味していて、「ふくし」とも言ったのでしょう。「わらべ(童)」、「わらし」という同じ形があり、「し」は複数形のように思えます。
 「ほし(星)」が「火」+複数形を表す「し」に分解でき、それらしく思えるのです。そうなると、「ほし」の単数形が「ほべ」ということになり、「夜はほべなす光(かがや)く神あり。(夜は星となって光る神がある)」という出雲国造神賀詞の意味が通じます。
 ふくらむ、おたふく、ふくろ、ふくむ、ふぐり、すべて瓢箪を意味するフクが起源です。フグ(フク)もふくらむことから来ています。
 「いつも乱暴で激しく、突然、怒り出すと、朝、元気だったものが夕方には殺されてしまいます。怖くてお仕えする自信がありません。」と反正天皇の皇女たちに結婚を断られてしまった雄略天皇です。
 私が気になることはただ一つ。このお嬢さんの運命やいかに。



「もり」 
アルタイ系言語のウイグル語では、「モル」が豊かなという意味を持ちます。モンゴル語では「オール」が山です。そして、これは日本語の「盛る」という言葉につながっています。
 「漏る」は積み上げたものの圧力で、隙間から下へ落ちることを意味するようです。屋根の雨漏りなどではなく、瓶の水漏れを想像してください。盛土は土を積み上げて高くすることです。つまり、「もり」とは、植物の集合ではなく、うずたかいもの、元々は山を意味する言葉だったということになります。
 その証拠に、四国や東北には森と呼ばれる山が散在しています。木の集まりではなく、山自体を指すのです。
 弥生時代になって、山を「やま」と呼ぶ民族が渡来し、そちらが優勢になって、「もり」は駆逐されたのでしょう。人の交流が少なく、縄文風俗の濃厚だった四国や東北の山地に、その古い形が保存されたと考えられます。
 弥生人と縄文人が会話します。縄文「あのもり(指差して)には猪がたくさんいる。」、弥生「あのもりか。じゃあ行ってみよう。」
 弥生人にとって山は「やま」ですから、縄文人の指差した「もり」はその山を埋めている木々の意味に受け取られます。こうして「もり」は山という意味から、木の大集合「森」へと転化した。このように思えるのです。これは北方系の縄文語と分類できます。




「もり」 フィジー語では「ミカン」のことを「moli」といいます(フィジー語入門、岩佐嘉親著、泰流社)。この言葉も日本語に入っていて、南方系の縄文語と分類すればいいようです。
 垂仁紀には、田道間守(タヂマモリ)が常世の国から非時香菓(ときじくのかくのみ)、つまり「ミカン(橘)」を持ち帰ったという記述がありますが、タヂマモリという名は、「但馬みかん」と言っているようなものです。
 「記」には、倭建命の妻として、山代の玖玖麻毛理比売(ククマモリ姫)の名が挙げられています。木の神の名が「ククノチ」ですから、ククは木の意味らしい。マは真でしょう。モリはミカンだとすると、ククマモリ姫は「真正、橘の木姫」という意味になります。したがって、これは倭建命の妻にして東国遠征の旅の途中、吾妻で亡くなったとされる弟橘姫と同一人物です。
 ミカン類は鋭い棘でその身を守っています。そこから「守り」という言葉が派生しました。魚介類を突き刺す漁具に「銛」がありますが、同一起源でしょう。あるいは、逆に、突き刺さるトゲを「モリ」というのが最初だったのかもしれません。同じような道具に「やす」があって、こちらは弥生語と考えられます。



「鮎」
 中国では、この文字は「ナマヅ」を意味します。日本では、神功皇后が玉島川で「年魚(アユ)」を釣り、朝鮮出征の成否を占ったという故事から、魚と占いを組み合わせたこの文字が「アユ」に当てられてしまいました。還元すれば、中国ではナマヅ占いがあったのかもしれません。
 ナマヅを意味する文字は他にもありますが、それらを使用せず、ナマヅは粘液に覆われていますから、魚偏に、粘と同音の念(漢音デン、呉音ネン)を代用して組み合わせ、鯰(ナマヅ)という和風漢字が作られたようです。
 ついでに言えば、デンデン虫も「粘粘虫」でネバネバの虫という意味に解せます。




「きりぎりす」
 これはコオロギの古名です。毛詩、草木蟲魚疏には、「楚人は蟀蟋(コオロギ)を王孫と言う。」とあります。
 中国の黎明期、楚王の祖先には火正という役職、祝融という称号が与えられていました。融の意味は「炊気上に出るなり(説文解字)」ですから、祝融は、「炊飯の蒸気が上に出るのを祝う。」という意味になり、確かに火に関係しています。
 荊楚歳時記には、「五経異議にいう。…祝融は竃神となる。姓は蘇(「ソ」か「ス」)。名は吉利。」とあり、祝融が竃神になったことを明らかにしています。
 ここまで書けばお解りでしょうが、コオロギ(楚の王孫)をキリギリスと言うのは、楚王の祖、竈神、祝融の名が吉利(キッリ)とされたことから始まっているのです。荘子、達生篇では、「竃に髻(キツ、キチ)あり。」となっていて、これもコオロギのことかと思えます。
 我が家では何年か前まで薪で風呂を焚いていました。その回りでコオロギの声をよく聞いたものです。かまど灰にはコオロギを引きつける何かが含まれているのでしょうか。エンマコオロギという種名も、竈の火と地獄の閻魔さんを結びつけて付けられたもののようです。




「たまきはる」 古語辞典では、たまきわる(‥きはる)【魂極る、玉極る、霊極る】となっています。語義およびかかり方は未詳で、「内」、「命」、「心」、「磯」、「幾世」、「世」、「憂き世」、「我が」、「立ち帰る」などにかかるとされている枕詞です。
 しかし、かかり方が解らないのも道理。これは区切りが間違っています。「たま/きはる」ではなく、「たまき/はる」です。漢字で書けば、「手巻き(環)張る」となります。
 環を張ると内、外の区画が出来ますから内にかかり、人の内にある心、命につながるわけです。また、張られた環は図のように無限の循環となりますから、波の繰り返す「磯」や「幾世」、「世」という永遠の観念があらわれます。輪になって元の位置に戻りますから「我が」や「立ち返る」も引き出せるのです。
 誰か古代の大権威が間違った。こんなに簡単なことなのに、それを訂正することが出来ず、今日まで踏襲されてきたようです。



「あおによし」 これは奈良の枕詞です。「青い山に囲まれ、赤土(に=丹)」の奈良が美しいという意味に解釈していたのですが、古語辞典の「奈良坂のあたりから、顔料や染料にする青土(あおに)を産出した。」という記述を見て、あわてて「弥生の興亡」から削除しました。
 私にとって、奈良とは奈良盆地なのですが、古代は、奈良市北方の狭い地域に限定されています。地理感覚の違いというか、知識不足から生まれた誤解です。
 平らにして平均化することを「ならす」といいますし、平城と書いて「なら」と読んでいます。つまり、「青山四方に巡れリ」と表現される奈良盆地の、山の最も低くなった北方を奈良山や奈良坂と言ったのです。
 したがって、「あおに」は奈良山固有の特徴でなければなりません。赤土は奈良の各地に見られますので、古語辞典の方が正しいようです。ただ、青または緑の土を確認には至りませんでした。奈良側の露頭を見る限り赤土です。
 司馬遼太郎さんだったと思いますが、誰か有名作家が、「奈良の都の建物が、青や赤に彩色されていて、その華やかさをいうのだ。」というようなことを書かれていました。
 これは太宰少貳、小野老朝臣の「あおによし、寧楽のみやこは、咲く花の、にほふがごとく、今さかりなり」という歌から連想されたものでしょうが、額田王が飛鳥から近江へ移るとき、既に、「…あおによし奈良の山の…」と歌っています。この頃はまだ奈良の都は存在せず、飛鳥や近江が都でした。「あおによし」は、元々、奈良山の枕詞だったのです。



「ぼら、ぶら」 山海経中山経や西山経には「ラボ」や「ボラ」、「ボクルイ」という言葉が出てきます。幼水という川の中や、水っぽいところに存在するもので、注にはカタツムリのことだと記されています。
 呉語には、「その民は必ずボラに就いて東海の浜に移っている。」という越王側近の言葉が載せられています。海にいるのですから、カタツムリではありません。どうも「ボラ」とは巻貝類の総称だったようです。
 当時の呉は、国が荒れ倉庫はからっぽで市に赤米が無いという状態でした。その人民は食料にする貝を求めて、東の海のすぐ近くに移動しているにちがいない。呉の中心地は手薄になっている。攻めるチャンスだと越は考えたのです。
 隋書流求国伝、これは宮古島など先島諸島のことですが、「毛をつないで螺(巻き貝)を垂れ、飾りとする。様々な色を混ぜあわせ、下に小さな貝を垂れる。その音は珮のようである。」という記述が見られます。
 弥生人は、朝鮮半島を経由して渡来した中国南方の民族ですから、この「ボラ」という言葉が日本語の中に入っていても不思議はありません。転訛して「ぶら」となりました。
 つまり、「ぶらさがる」、「ぶらぶら」という言葉の起源は、装飾としてつり下げられた巻き貝にあるのです。
 その形は円です。鯔(ボラ)という魚は丸っこいことから付けられたものでしょう(正面から見てください)。「豚(ぶた)」もこの派生語、丸いという意味です。「かぶら」は丸い大根類です。円とかいて「つぶら」と読みます。
 法螺貝という貝に、この古代の言葉が集約されているのでしょうか。
 「ラボの山」は、西域の流砂の近くにあり、水無しとされていますから、巻き貝やカタツムリはない。この山からアンモナイトの化石でも出たのだろうと想像しています。



「泥縄式」 天地開闢の時には「女女咼(ジョカ/女偏に咼です)」という神がいました。ある日、人間を作ろうと思いたち、黄土を練り上げて丁寧に作っていたのですが、力が続かず、泥水の中に縄を漬け、それを引き上げて、したたり落ちたしずくを人と為したといいます。黄土から丁寧に作られたものが支配者階級の富貴な人間、泥水からいいかげんに作られた大量生産品が卑賤凡庸な人間というわけです。
 「泥縄式」という言葉は、この中国の神話に起源を発するに違いなく、辞書でさえ「泥棒を捕らえてから縄をなう。事が起こってから対策を立てる」などと解説していますが、これは中国神話の知識を失った後世の付会でしょう。
 したがって、元来は「手抜き行為」を意味したと考えられます。泥から生まれた卑賤な人、泥坊=泥棒の起源まで説明できるのが強みです。




「せんなし」
 竹書の記述です。
(周、元王四年) 於越、呉を滅ぼす。
(周、貞定王元年)於越、陸路を行き琅邪に都する。
(周、貞定王四年)於越子、勾踐が卒し、鹿郢が立つ。
(〃 〃  十年)於越子、鹿郢が死に、不寿が立つ。
(〃 〃 二十年)於越子、
不寿が殺され、朱句が立つ。
(〃威烈王十四年)於越子、朱句が死に、子の翳が立つ。
(〃安王二十三年)於越、呉に遷る(翳の三十三年)。
(〃安王二十六年)於越太子、諸咎がその君
翳を弑した。越人は諸咎を殺し、
              越滑呉人は孚錯枝を立てて君と為す。
(〃烈王元年)  於越大夫、寺区が越の乱を定め、初無余を立て。ここに莽安と為す。
(〃顯王四年)  於越寺区の弟思、その君
莽安を弑す。次ぎに無顓を立てる。
(〃顯王十二年) 於越子無顓が卒し、次に無彊を立てる。

 呂氏春秋、仲春紀第二、貴生
 「越人は三世、その君を殺した。王子、捜はこれを患い、丹を掘り出す穴に逃げた。越国は君がなく、王子、捜を求めたが得られない。丹穴に見つけたが、王子捜は出ることを承知しなかった。越人はヨモギでこれを燻して追い出し、王の輿に乗せた。王子、捜は綱につかまって車に登り、天を仰いでため息をついて言った。「君か〜、どうして一人にしておいてくれないんだ。」王子、捜は君になることを悪んだのではなく、君になったときの患いを悪んだのである。

 淮南子では王子、捜は翳のことだとされていますが、竹書の暗殺の記述を見れば、無のことだとわかります。「せんなし(しかたがない)」という言葉は、あきらめて王位に就いた無(ムセン)の境遇から生まれたものと思われます。