「和」を考える 〜様々な角度からの「和建築」考察〜-001
ちょっと面白い本を読んだので、その一部をご紹介します。
「外国人の目に映った日本座敷」という部分の内容なのですが、
日本文化と外国文化の差における面白さが伝わってきます。
1. フロリス による日欧比較
L.フロリスは、ポルトガルのイエズス会士で、永禄6年(1563)に来日し、織田信長の面前において仏僧である日乗を論破して、肥前や京都及び近畿地方で布教活動をおこなった。
フロリスによって書かれた『日本覚書』は、日本と西欧の風習や文化の違いを比較した書物である。
この書物によって、日本と西欧における居住の相違点の比較をみると、まず家屋については、「われらの家屋は、石と石灰で(作られる)。彼らのは、木、竹、藁および土で(作られる)」、また「ヨーロッパでは、材木に加工を施すと、すぐにそれを(家の)構築に投入する。日本では家全体(の材木)にまず加工を施し、その後、あっという間に構築する」とあり、日本と西欧の建築材料及び構法の違いを端的に述べている。
座敷については、「われらの部屋は、非常によく加工され磨かれた材木で作られる。彼らの茶の湯の部屋は、自然を模するよう、森から運んできたままの木材で作られる。」と室内の材についての「材木」と「木材」の違いを述べており、また、「われらの部屋には、一般に多くの光の採れる窓が(いくつも)ある。茶の湯の座敷には窓がなく、暗い」とあり、部屋(座敷を含めた)自体の記述はこの2箇所しかなく、かなり茶の湯の座敷について興味を示している。
この茶の湯座敷は、時期的にみて、当時流行していた紹鴎の四畳半のようなものではないかと思われる。
座敷の装飾品については、「われらは、宝石や、金片、銀片を宝とする。日本人は古い釜や、古いひびの入った陶器、土器などを宝物とする」・「われらの(家屋?)は、装飾壁布、鍍金皮壁掛、フランドルの(ゴブラン)織で飾られる。日本のは、鍍金されたり、黒い墨で描かれたりした紙の屏風で飾られる」と書かれており、単純な比較でははかりしれない、日本と西欧の価値観の違いをかいま見ることが出来る。
2. ケンペルが感じた日本の「光」
E.ケンペルはドイツの医学者さらには博物学者であり、元禄三年(1690)から元禄五年の間、オランダの東インド会社の長崎出島蘭館医師として勤務していた。日本における見聞録の『日本誌』を執筆し、その中の一部である『ケンプェル江戸参府紀行』に書かれている日本の居住空間を見てみることにする。
日本の住宅は、「非常に清潔・美装、便利なるを勉め、低き木の家にてもよく其用に叶いて」といっており、「猶又此家屋は、杉の材・松の材にて築き、前より後ろへ風通しよきために、住居するに甚だ健康なり」とかなり感心しているようである。
また、「畳や戸や襖は同じ大きさで、長さが一間、幅は半間あり、すべての部屋のみならず家そのものも、畳の大きさや状態や寸法に従って造られ、そして建てられている」と畳のサイズが部屋、家の寸法の基準となっていることに興味を示している。
ケンペルの宿泊した旅籠(本陣)の座敷については「みな来客に宛がはるる部屋のみなれど、部屋には机なく、椅子なく、何の家具もなくただ一二稀品を置けり」とあり、座敷には家具が何一つ置かれていないこと、しかしそこには貴重な置物があり、暇なときにはこの置物を鑑賞して時をすごせるとしている。
また、其の座敷の床脇にある付け書院の窓から見える景色について、「是れ室内の最高最上の席にして、ここに座を占むれば、それを通して近くの山野・庭園・河水などをみるべし」と述べており、庭は坪庭や芸術的な美しい中庭があり、気分転換を図ることも出来るとしている。
部屋の構成については、固定された壁のあるのは一方(床のある側)のみで、ほかは襖で思い通り開け閉めできるとし、「光線が部屋に差し込む紙の窓覆い(障子)には、両側に戸袋に入っている木の雨戸があり」と障子については、室内への光を調節する役目を持つことを示すとともに、両側戸袋の雨戸の存在を記している。
座敷の室内については、床に掛けられた家宝ともいう掛軸の絵、衝立や襖の真に迫る絵、違い棚の花瓶と季節の花、または金属製の精巧な香炉など、飾置物や装飾品についても詳しく観察している。また、床・棚・柱・建具枠・板戸などの美しい木目・面皮の床柱、それらに施された細工と生地を生かした透漆などにその繊細な見事さを見つけ「其色の常ならず又、紋理の驚くべき紛綜せるに、自然の上に苦心の技巧を加えて人目を驚かすなり」と絶賛し、さらに欄間の彫刻にも目を向けている。
次に、襖・障子による間仕切りについては、「部屋は軽い障子や襖をあけたてして、大きくも小さくもすることができ、また閉め切ることもできる。壁や襖にはきれいに花模様を描いた金色や銀色の紙が貼られ、きらきらと輝いている」として、軽い障子や襖によって、広狭自在に部屋の間仕切りが出来ること、襖紙の美しさなど、座敷構成の妙を賛美している。
ケンペルは、このように日本の住宅内、特に座敷に入った時、「自然」を感じている。それは外の景色である山野・庭園・河水や室内の意匠である床柱・掛軸・花瓶などの目に見えるものであり、また、「風」「光」「健康」などの、体に感じるものであったりしている。特に「光」については敏感で、室内の観察時にはよく述べている。
日本の建築のつくりだす光野質の違いが、医学者ケンペルにこのように、日本の「光」を見つめさせることになったのではないだろうか。
3. モースが見た「座」と「美」
E.S.モースは、アメリカの生物学者でダーウィンの進化論を日本に紹介し、明治10年(1877)には来日し、大森貝塚を発見したことで有名である。また、東京大学で二年間、動物学や進化論などの講義もしていた。そのモースによって書かれた『日本人の住まい』には、日本人の住生活についてかなり詳しく述べられている。
その本によると、まず、「畳の上で、日本人は食事を摂り、眠り、しんでゆくのである」と記されており、日本人と畳の関係、さらに座との関係について西欧との違いを的確に捉えている。また、「端坐の姿勢は外国人にとっては相当に苦痛で、それに慣れるためにただ練習する以外にはない」と、正座の辛さをこぼしており老人の座り胼胝にまで観察の目を光らせている。
座敷は、アメリカの応接間または客間を対応させており、Parlorであり、the roomの字を当てている。座敷空間については、「畳、天井その他の細部のあらゆる面において、左右対称は注意深く回避されている。アメリカにおいて、部屋を仕上げるにさいして、相似形で修理する仕方となんとことなっていることか」と述べ、左右非対称の空間を絶賛している。
床柱や床框の材が、加工されていなかったり、曲がっていたりしてるのが好まれることについて、「アメリカの大工なら使い物にならない材であるとみなすだろう」と述べているが、モース自身はその自然を生かした「美」を認めている。
また、豪華な座敷のみに目を奪われているのではなく、簡素なものにもかなり注目しており、「とくにこの簡素という点で際立っている」と日本の「侘・寂」の心や芸術性をも理解しており、茶室などにも興味を示している。このことは、モースの生物学における観察眼が、日本の居住空間においてもいかんなく発揮されたことを物語っている。
4. タウトのもった様々な疑問
ブルーノ・タウトはドイツ人の建築家で、日本においては桂離宮や伊勢神宮を通して、日本美を再発見されたことで有名であるが、第一次世界大戦後、ベルリンでドイツ用言主義の指導者として活躍し、昭和八年(1933)に来日し、群馬県高崎市の洗心亭と呼ばれた住居を借り、四年間滞在した。
在日期間に書かれた『日本の家屋と生活』の中で、初めて見た洗心亭の部屋について、「大きい方の部屋は二方が外に面してすっかり開け放たれている。しかしこれが〈室〉といえるのだろうか」と述べており、その後も、
なぜ日本家屋には煙突がないのだろうか。
なぜあらゆる點が開放的なのか。
なぜ戸障子ばかりこんなに沢山あるのだろうか。
なぜ家屋に素木を用いて、これに塗料を施さないのだろうか。
日本には粘土や石灰が沢山あるのに、なぜ木造建築ばかりなのだろうか。
なぜ建築構造は風厭に対して安全を缺いているのだろうか。
そのほかにもさまざまな疑問が簇出するのである。
と、外国人が見た日本の住居に関する素朴な質問を、数多く述べている。
これらの疑問については、日本の風土や気候、日本人の考え方や体型までも観察し、建築家の目を通して解答を得ようと試みている。
座敷についてタウトは、床の間の裏側に便所が位置する点に疑問を抱き、「ここには壁一重を隔てて實に著しい對照がある、即ち壁のこちら側はもっとも自然的な必要事を果す場所であり、同じ壁のあちら側はこの家の精神的中心―つまり藝術品、香爐、生花のある床の間である」と述べ、便所を「必要事のみの世界」、床の間(座敷)を「純粋に精神的なものの世界」としている。このことは、座敷の客間としての格式を示しているが、また、「とにかく座敷で寛ごうということになった」とあり、座敷の自由度の広さも捉えられており、座敷のもつ二面性がよく表されている。
〈物語 ものの建築史〉シリーズ 『座敷のはなし』より 鹿島出版会