その4 ホーチミン散策

8月3日、午前中はタイニン省、平和村幹部と私たちの間で総括会議がもたれた。今後に向けての課題整理の場でもある。同じ頃平和村ではリハビリテーション指導のしあげが行われた。これでタイニン省での全公式日程が終了した。あっという間の5日間だったが回を重ねるごとに課題が明らかになってきて、次につなげていけそうな、そんな確信の得られた今回の訪問だったと思う。この夜はホーチミンに戻って昨日までよりは数段もリッチなホテルでの宿泊だ。明日の夜の出発までは自由行動。ショッピング、観光、戦争博物館見学などいくつかのグループが出来上がる。
翌朝、私は何人か仲間を誘ってツーヅー病院のフォン先生を訪ねた。フォン先生は枯葉剤による人体被害、特に先天性障害と女性の悪性腫瘍について研究を重ねてこられたかたで、被害救済運動の中心人物でもある。先頃院長職を退いたとはいえまだまだ精力的に仕事をこなしておられる。短時間であったが枯葉剤被害についてのベトナムでの研究と救済の現状についてお話を伺った。最近はベトちゃんドクちゃんがうまれた中部ベトナム、コントゥムの先天障害を研究されている。今なお障害を持ってうまれてくるこどもが多いとのことだ。さらにコントゥムに住む人たちの脂肪組織に含まれるダイオキシン濃度をドイツで検査してもらったところ今でも高濃度であることが分かったそうだ。一昨年ベトナムは枯葉剤を製造してアメリカ軍に販売した化学薬品会社37社を相手取ってニューヨークの連邦地裁に裁判を起こした。昨年、裁判所すなわちアメリカ政府は障害と枯葉剤との因果関係不明として棄却した。現在控訴審で争われている。科学的な解明は不十分としてもベトナム戦争後に先天性障害を持ったこどもたちがたくさんうまれていることは明らかである。彼らの多くは悲惨な環境で医療やごく普通のくらしからほど遠いところで生きている。アメリカが自国の兵士とそのこどもたちに補償をしていると同様に、まずはベトナムにも補償をという要求はきわめて当然のことではないだろうか。


ツーヅー病院正面に建つ像

平和村に入所している男の子

ドク君と握手するのは初参加の栗谷さん
ドクは今年の12月に結婚が決まっている。
今回のタイニン省訪問でもひょんなことから
大変お世話になった。

入院中のベト君を見舞う看護師の三島さん。ベト君、元気そうで何より!

今回の訪問に、ホーチミンにくらすホン・タムさんが参加してくれた。西村さんの勧めがあったからだ。彼女は枯葉剤の影響もあって全身に腫瘍が増え続けている。少し前には太ももの腫瘍の手術を受けた。今も懸命に闘病を続けている。彼女の書いてくれた文章を紹介させていただいて冗長となったこの報告を終わりにしたい。
「ベトナム戦争が終って長い時間が過ぎました。でもベトナムには戦争の残した大きい傷跡が今なお残っています。それはベトナム戦争で撒かれた枯葉剤によるものです。 化学戦争は人類の歴史に大きな問題を投げかけました。戦争では沢山の化学兵器が使われました。戦争の歴史の中にアメリカは枯葉剤を兵器として持ち込みました。ベトナム戦争中、長期間にわたって使いました。枯葉剤は大勢のベトナム人の生活を破壊しました。化学兵器の影響で障害や奇形を持つ人が多く生まれました。本人が働けないばかりか、家族も働けなくなるので貧乏を余儀なくされます。枯葉剤の被害を受けた人は体を破壊され、生ける屍となりました。枯葉剤はこれらの人に不幸と苦痛を強いています。戦争が終ってから生まれた子供がなぜ不幸と苦痛を我慢せねばならないのですか。障害を持って生まれた人は本当に可愛そうです。 戦争中人々はひどい苦痛に耐えてきました。戦争は終わり過去のものになりました。でも枯葉剤被害者の精神と体の苦痛は一生続きます。私は枯葉剤被害者なので枯葉剤被害者の人の苦痛がよくわかります。私は枯葉剤の被害で働くことが出来ません。私は毎日両親に世話をかける無用な人です。私は家族の手助けが出来なくて、いつも私の運命が悲しいです。私の将来はどうなるか分かりませんが私の絶望は無窮です。多分私はこの不幸と苦痛を一生しょっていかねばなりません。戦争の罪悪で私の体は醜く不細工な出来損ないに変えてしまい、こうなりました。アメリカ人は枯葉剤で私を殺してしまいました。(御本人の日本語の文を西村洋一、久留美さんが加筆したもの)


長々とお伝えしてきましたこの度のタイニン省訪問記もこれでおしまいです。
皆さんいかがでしたでしょうか? 最後にクチトンネルとバーデン山からの遠望と、母なるメコン
の風景を見ていただくことにしましょう。戦争という過去と今が混在するベトナム、日本に暮らす私たちの「今」を振り返ってみるのに、不思議になぜか気になる国です。