<セルコとサッポの物語>


『セルコとサッポの物語』 (第一回)

昔々、ある港街に「セルコ」という名の売れない画家がいた。

彼の絵は、街の一部の人々には高い評価を得ていたものの、
多くの美術批評家達には全く相手にされず、
描いても描いても生活が苦しくなる一方だった。

だが、セルコには、「サッポ」という名の働き者の妻がいた。
セルコの描く絵を誰よりも愛していた彼女は、そんな夫を献身的に支えた。

古い木造アパートの一室。
そこには貧しいながらも幸せな暮らしがあった。

そんなある日、彼の人生を一変させる大事件が起こった。
セルコの絵に感銘を受けた豪商の「クリム」卿が、
彼のパトロンになることを提案したのだ。

今まで、ずっと苦労ばかりさせてきたサッポに楽な生活をさせてやりたかったセルコは、
一も二もなく承諾した。

しかし、クリム卿は、
セルコを支援することと引き換えに、二つの条件を提示した。

一つは、セルコ夫妻がクリム家の屋敷に住むこと。
そして、もう一つは、クリム卿が望む絵だけをセルコが描くこと。

セルコは迷った。
クリム卿の庇護を受ければ、もう明日のパンを買うお金に困ることはない。
だが、その一方で、本当に自分の描きたい絵が描けなくなってしまう。

妻のサッポは反対した。
「確かにクリム卿は命の恩人。でも、あなたの絵を支配する権利はないわ」と。

が、結局、セルコはクリム卿の申し出を受けることにした。
たとえ、自分らしさをなくしても、
絵を描き続けられることの方が大事だと思ったからだ。

かくして、セルコはクリム家専属の画家となった。

<続く>

『セルコとサッポの物語』 (第二回)

セルコとサッポのクリム家での生活は、半年を過ぎようとしていた。

クリム卿の庇護を受けたセルコは、それなりに充実した日々を過ごしていた。
明日の生活費に悩むこともなく、いつでも描きたいだけ絵が描ける毎日。

それは、ずっと待ち望んでいた暮らしであるはずだった。
ずっと夢見てきた理想の生活であるはずだった。

しかし、クリム家の屋敷に住み込むようになって以来、
日を追うごとに、セルコとサッポの仲は険悪になっていた。

顔を合わせば憎々しい視線を交わし、口を開けば激しく罵り合う。

そんな日々が続く中で、いつしか妻のサッポは情緒不安定になっていった。

クリム卿に感謝する気持ちと憎悪する気持ち、
二つの相反する感情が心の中で激しくぶつかり合い、
彼女を極度に追い詰めていったのである。

やがて、彼女は、一つの身体に二つの顔を持つようになってしまった。
精神科の医師は、解離性人格障害(多重人格)の一種と診断した。

一方、セルコも、以前に比べて絵の技術が落ちている自分に気付いていた。
イメージ通りに筆が動かない。
描けば描くほど、自分本来の絵から遠ざかっていく。

彼の迷いは、どんなにクリム卿が最高の画材を買い与えても、
拭い去ることができなかった。

クリム卿を満足させられる絵が描けない。
それはセルコが最も恐れていた事態。

『クリム卿に見捨てられるのでは?』

毎日のように、言い様のない不安がセルコの胸を締め付けた。

そんなある日、クリム家の屋敷に一人の若者がやってきた。

彼の名は「ヤーキュ」。
クリム卿がパトロンになったもう一人の若手画家だった。

<続く>

『セルコとサッポの物語』 (第三回)

予想通りと言うべきか、
クリム卿は、新しくパトロンになった若いヤーキュを寵愛した。

彼の描く荒削りながらも将来性を感じさせる絵が、
セルコ以上に、クリム卿の求める物と一致したからである。

クリム卿は、ヤーキュを手厚く保護し、
最高のアトリエと最高の画材を彼のために用意した。

もちろん、クリム卿はセルコを見放したわけではない。
相変わらず、セルコとサッポには、
以前とは比べ物にならない贅沢な暮らしが約束されていたし、
絵を描く環境にも事欠くことはなかった。

だが、クリム卿自身がサッポのアトリエへ訪れる回数は、
格段に少なくなっていた。

特に、サッポの病気を治すための努力を
クリム卿が全くしようとしなかったことは、
セルコを大いに失望させた。

セルコの心は激しく揺れた。

このまま、クリム卿の世話になり続けるべきか。
それとも、思い切って独立すべきか。
しかし、クリム卿の下を離れては生きていけないことを、
セルコ自身が一番よく知っている。

セルコ一人ならば、それはどうにかなったかもしれない。
しかし、セルコにはサッポという愛すべき妻がいた。
夫として、もう二度と彼女に苦しい思いをさせるわけにはいかない。

「彼は彼。あなたはあなた。気にすることはないわ」

病態のいい日のサッポは、そう言ってセルコを励ましてくれた。

だが、サッポの願いは別の形で裏切られることになった。
その年の秋、「若手画家の登竜門」と呼ばれる年に一度の美術コンクールに、
クリム家の代表として、ヤーキュの絵が出品されてしまったのである。

クリム卿には、
この展覧会でどうしても一等賞を獲得しなければならない理由があった。
かねてよりの商売敵である「ホリエモン」男爵の抱える
新進気鋭の画家「ライドア」の作品が、
同展覧会に出展されるという情報を手に入れたからだ。

上流階級のプライドか、彼に負けることを何よりも嫌うクリム卿は、
セルコではなく、より自分の思い通りに動くヤーキュを、
ライドアの対抗馬として展覧会に送り込んだ。

もっとも、クリム卿がヤーキュを囲い入れた時から、
彼を美術コンクールに出す腹づもりだったのは間違いない。
それぐらいのことはセルコにも分かっている。
しかし、彼のショックは計り知れないほど大きかった。

かくして、クリム卿とホリエモン男爵の代理戦争が展覧会場で幕を上げた。

セルコとサッポは、それをただ見守ることしかできなかった。

<続く>

『セルコとサッポの物語』 (第四回)

クリム卿とヤーキュが美術コンクールを兼ねた展覧会に出席する中、
セルコは誰もいない屋敷に一人残って、絵を描いていた。

隣にはサッポがいた。

彼女の心の不安定さは、まだ続いていた。
先程まで笑っていたかと思えば、何気ないことで急に怒り出す。
会話が噛み合わず、二通りの意見が互い違いに現われる。

ただ、彼女の状態が落ち着く時間が一つだけあった。
それは、セルコのアトリエで彼の手伝いをする時。
その時だけは、昔と変わらない献身的な良妻がそこにいた。

セルコはサッポの協力の下、一心不乱に絵を描き続けた。

展覧会のことが気にならないと言えば嘘になる。

もし、コンクールで一等賞を獲得すれば、
その画家の将来は約束されたようなもの。
一生、生活に困ることはない。

また、その画家を育てたクリム卿も、社交場で名を売ることができよう。

現時点ではどちらが勝つか分からない。
単純に絵画技術だけを比べると、
ヤーキュよりもライドアの方が上かもしれない。
だが、コンクールの審査員は王や有力貴族が務める。
彼等とより親密な関係にあるのはクリム卿だ。

巷の予想では、かなりの確率でクリム卿が勝つと言われていた。

「……関係のないことだ」

セルコは頭を振って邪念を追い払うと、自分に言い聞かせるように呟いた。

展覧会がどうなろうと、自分には何一つ関係ない。
セルコにできることは、ただいい絵を描くことだけ。
いい絵を描いて、クリム卿の信頼を取り戻すことだけ。

サッポのためにも。

そして、自分自身のためにも。

「そう。私達には関係ないこと」

サッポも彼の気持ちを汲んで言った。

だが、二人とも気付いていた。
心のどこかで、ヤーキュが落選することを願っている自分達がいることを。

その時、屋敷の玄関で大きな物音がした。
どうやら、展覧会へ行っていた使いの者が帰ってきたらしい。

彼は、血相を変えてアトリエに飛び込んできた。

<続く>

『セルコとサッポの物語』 (第五回)

「……クリム卿が!」

使いの者は、セルコのアトリエに足を踏み入れるや否や大声で叫んだ。

「クリム卿が勝ちました! 展覧会の一等賞はヤーキュです!」

彼の興奮はアトリエ全体を大きく揺るがした。

「そうか……クリム卿が勝ったか……」

セルコは、ちらりと隣のサッポに目をやると、
高い天井を見上げて喉の奥から搾り出すように嘆息した。

翌日、セルコはサッポを屋敷に残し、一人で行きつけのパブへ向かった。

若い芸術家の卵達が集うそのパブは、
昨日の展覧会の話題で持ちきりだった。
数日前には無名の若手画家だったヤーキュのことを、
今ではもう知らぬ者はいない。
展覧会一等賞の宣伝効果は抜群だった。

セルコは、できるだけ周囲の雑音には耳を貸さないようにカウンターへ向かうと、
いつものビールを注文した。

と、そこへ見計らったように、一人の黄色い服を着た男が近付いてきた。

「あんた、クリム卿のところのセルコだろ?」
「……そうだが?」
「俺は、ベガータってもんだ。あんたの同業者だよ」

ベガータと名乗った男は、慇懃に自己紹介をすると、
セルコの隣に立ってスコッチを注文した。

「……評判悪いぜ、あんた達」

バーテンダーから受け取ったグラスを傾けながら、ベガータが言った。

「そいつはどうも」

セルコは気のない言葉を返した。

「俺も展覧会に出品していたんだがな、お前らにはどうあがいても勝てねぇや」
「…………」
「まっ、あんなことをやられちゃ、あのライドアですら勝てるわけがねぇ」
「……何をやったんだ?」
「あのヤーキュって野郎が展覧会で一等をとった絵……あれは俺の絵の盗作だ」
「なっ……!?」

セルコは言葉を飲み込んだ。

無意識のうちに、冷たいビールを喉に流し込む。

「俺が発明した描画法を教わりたいと協力を頼まれたから、力を貸してやった。
 そしたら、絵のモチーフまでも盗まれた」
「それは災難だったな」
「なぁ、セルコさんよ。あんた、どう、この責任を取ってくれるんだい?」
「……俺には関係のない話だ」
「クリム卿はお前の後見人(おや)で、ヤーキュはお前の義弟だろうが!?」
「親類になった覚えはない」
「ケッ! お高く止まりやがって」

ベガータは、グラスに半分以上残っていたスコッチを一気にあおると、
ドンッとカウンターに叩き付けた。

「俺はお前らを絶対に許さない。全身全霊をかけて潰してやる」
「……好きにしろ」
「セルコさん、聞いてるぜ、あんたのこと。
 自分の画風を放棄することと引き換えに、クリム卿に囲われて、
 夢のように贅沢な暮らしをしているわりには、ちっとも絵が上手くならないらしいな」
「…………」
「ふっ。せいぜい、クリム卿に見限られないように、奴に媚を売るんだな」

それだけ言い残すと、ベガータは高笑いを浮かべて去っていった。

「…………」

セルコは、しばらくの間、空になったビールジョッキを眺めた後、
ふっと肩を下ろして自嘲気味に笑った。

<続く>

『セルコとサッポの物語』 (第六回)

新しい年が明ける。

無名の若手画家であるセルコは、
その年の始まりを世界有数の豪商・クリム卿の屋敷で迎えた。

ここにいるということは、クリム家専属の画家になるということ。
自分の本当に描きたい絵を捨てるということ。

クリム卿の望む絵だけを描く。
クリム卿のためだけに描く。

それは画家にとって、命を奪われることに等しい拷問であるはずだ。
自分の色を奪われるぐらいなら、死んだ方がまし。

だが、セルコはいつしか、それでもいいと思い始めていた。

そもそも、自分の描きたい絵とは何だったのか。
そんな物は、初めからなかったのではないか。
自分の才能は、その程度しかなかったのではないか。

それならば、クリム卿の庇護の下、
一生を楽に生きることの方が重要ではないだろうか。

クリム卿の言う通りにしていれば、
いつかヤーキュのようにコンテストで優勝できるかもしれない。
だが、自分一人の力でそんなことはできるか?
いや、できない。
世間はそんなに甘くない。

セルコにはサッポという愛すべき妻がいる。
彼女に苦労をかけないこと、それが何よりの彼の願いだ。
彼女のためなら、どんな責め苦も耐えることができよう。

サッポも、そんなセルコの心の変化を、徐々に受け入れようとしていた。
彼の気持ちを汲んだということもあるかもしれない。
しかし、本音を言うと、この贅沢な暮らしにどこか慣れ始めていたからだ。

そんなある日のこと。
セルコは画材を買いに外へ出かけ、
サッポは一人アトリエに残って、部屋の掃除をしていた。

そこへ、クリム家の執事が訪ねてきた。

「クリム卿が?」
「はい。少しお話したいことがあるそうです」

クリム卿が個人的にサッポを呼ぶのは、今日が初めて。
以前までは、むしろ彼女を厄介者扱いしていたのだが。

サッポは取る物も取らず、急いでクリム卿の書斎へ向かった。

<続く>

『セルコとサッポの物語』 (第七回)

「すまないね。わざわざ」

クリム卿は優しく声をかけて、サッポを近くのソファに座らせた。

「いえ、滅相もございません……そ、それで、お話とは?」
「ふむ、セルコ君のことだけどね」
「はい……」

サッポは何を言われるのかと身を堅くした。

「今まで彼を支えてくれて本当にありがとう」
「え?」

予想外の言葉に拍子抜けしたサッポは、返すべき言葉を迷った。

「彼はいい絵描きになったよ。これも全部君のおかげだ」
「そ、そんな……」
「いつか、彼をコンテストに出して、優勝させてやりたいと思っている。
 そのためにはどうすればいいか、一緒に考えてくれないか?」
「は、はい」

性質が素直なサッポは、視線を落として思案を巡らした。
そのため、クリム卿がすぐ隣まで近付いていることに気付かなかった。

「クリム卿……?」

顔を上げた時にはすでに、クリム卿の腕がサッポの肩に回されていた。

「お、おやめくださいませ!」
「よいではないか。よいではないか。仲良くしよう」
「ですが、私には夫が……」
「私達は皆、同じ家族のようなもの。一緒に頑張ると言っただろう」
「お、お戯れは……」
「おいおい。君は、誰のおかげで生活できていると思っているんだ?」
「…………」

サッポは言葉に詰まった。

『誰のおかげで……』

クリム卿の言葉が何度も頭の中で反復する。

そうだ。
クリム卿がいるから、セルコは絵を描き続けられるし、
サッポも贅沢な暮らしができる。
クリム卿がいなければ、自分達は路頭に迷い、
どこかで野垂れ死んでいたかもしれない。

自分に拒否する権利はない。
拒否してはいけない。

『夫の苦しみに比べれば、これぐらいのこと、甘んじて受け止めなければ』

全ては夫のため。
そう何度も自分に言い聞かせる。

「……いいんだね?」

甘い声で囁きかけながら、クリム卿がサッポの頬に顔を寄せた。

サッポは全身の力を抜いて、クリム卿に身を委ねた。

<続く>

『セルコとサッポの物語』 (第八回)

こうして、サッポはクリム卿の愛人となって、
末永く幸せに暮らしましたとさ。

めでたしめでたし。

<未完>   (←今ここ)

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