貧しい人たちに奉仕する福音的清貧

 

90  貧しい人たちのための奉仕であることを待たずとも、福音的清貧は、それ自体で一つの価値である。なぜならそれは、貧しいキリストの模倣のうちに、(山上の垂訓で述べられた)最初の至福を思い起こさせるからである。実際、福音的清貧の第一の意味は、神が人間の心の真の富であることを証言することである。まさしくこれゆえに福音的清貧は、拝金主義という偶像崇拝に力強く挑戦し、発展した世界の多くの領域で均衡の感覚と諸事物の真の意味とを失う危険を冒している社会に、いわば預言に訴えるのである。こうして福音的清貧の呼び声は、惑星資源の欠乏に気づいている人々や、被造物を尊重し、より質素な生活と自分たちの欲求の必要な断念とによって消費を減少させ、それを保存するように呼びかけている人々の間でも、今日、他の時代にもまして一層強く感じられているのである。

したがって奉献生活を営む人たちは、単純さの原理と持て成しの原理とによって鼓舞された兄弟愛に満ちた生活様式において、また、隣人の必要に無関心な人々への模範として、自己否定と自制的抑制とを新たにそして力強く福音的に証するように求められている。もちろんこの証は、貧しい人たちへの優先的な愛を伴っていなければならず、そして特にもっとも無視された人々の生活の諸条件を分かち合うことによって示されなければならない。貧しい人々や社会の片隅に追いやられた人々の間で生活し働いている多くの共同体がある。これらの共同体は、そうした人たちの生活状態を進んで受け入れ、かれらの苦しみや諸問題、危難を分かち合っている。

深刻な変革と大きな不正、希望と失望、劇的な勝利と惨たらしい敗北に満ちたここ数年の間に、福音的連帯と英雄的献身の歴史における際立った数頁が、奉献生活を営む人たちによって書き記されてきた。そしてこれに劣らず意味深い頁が、奉献生活を営む他の非常に多くの人たちによって書かれてきたし、またいまでも書かれている。かれらは、「キリストとともに神のうちに隠された」(Col 3:3)自分たちの生活を世界の救いのために充全に生き、ほとんど評価されることもなければ激賞されることすらない諸理由のために、自由にみずからを与え自分たちの生活を費やしている。奉献生活は、主によって生きられた徹底的な清貧を、このようにさまざまな相補的な仕方で分かち合い、主の受肉と購いの死という救いをもたらす神秘のなかで独特の役割を果たしているのである。