新しい特別な奉献

 

30 教会の伝統によれば、修道誓願は、洗礼において受け取られた奉献の特別の実り豊かな深化であると考えられている。なぜなら修道誓願は、洗礼において既に始められたキリストとの緊密な一致が、福音的勧告の宣立をとおして、キリストとのより完全でより明白な、そしてより真正な同化の賜物へと発展するための手段だからである。

しかしながら、この一層踏み込んだ奉献は、洗礼による奉献の必然的な結果ではなく、これとは特別の仕方で異なっているのである。たしかにキリストに結ばれて再生したすべての人は、()霊の賜物である剛毅さをもって、自分たちの生活様式に合った貞潔、神と教会とへの従順、物質的所有からの道理にかなった離脱を生き抜くように召されている:なぜなら、すべての人が、愛の完成のうちに成り立つ聖性へと招かれているからである。しかし洗礼それ自体が、福音的勧告に固有の様式で、独身あるいは童貞性への招き、財産の放棄あるいは長上への従順を含んでいるのではない。イエズスご自身が自発的な独身に関して強調したように(cf.Mt 19:10-12)、福音的勧告の宣立は、すべての人に与えられるわけではない神の独特の賜物を前提にしているのである。

さらにこのような召し出しには、奉献生活を営む人たちが自分たちの召命と使命とに応えることができるように、聖霊の独特の賜物が伴っている。それゆえ、東西の諸典礼が修道誓願式と童貞者の奉献とにおいて立証しているように、教会は、選ばれた人々のために聖霊の賜物を祈願し、かれらの奉献をキリストの犠牲に結びつけているのである。福音的勧告の宣立はまた、堅信の秘跡の恵みの発展である。しかしそれは、堅信によって受け取られた奉献の通常の諸要求を、()霊の特別の賜物によって超えている。この()霊の特別の賜物は、聖性と使徒的事業との新しい可能性と新しい実りへと向かう道を開くのである。

福音的勧告を宣立した司祭に関して言うと、聖なる叙階の秘跡は、この奉献のなかで独特な実りの豊かさを見出すことを、経験それ自体が示している。なぜなら聖なる叙階の秘跡は、主とのより緊密な一致を要求し育成するからである。福音的勧告を宣立する司祭には、さらに自分の所属する会の独特な霊性と、それに固有なカリスマの使徒的次元とによって、キリストの神秘の充ち満ちた豊かさを自分の生活のなかに再生するという利点がある。実際、司祭職への召命と奉献生活への召命とは、司祭のうちに収斂し、深遠で力動的な統一を見るのである。

また、観想にひたすら専心する修道司祭によって教会生活になされる貢献は、測り知れない価値を持っている。特に感謝の祭儀の挙行において、かれらは、教会の、そして教会のための行為を実行している。かれらは、ご自分を全世界の救いのためにおん父に捧げられたキリストとの交わりのなかで、自分たち自身の奉献をこの教会の行為に結びつけるのである。