「主よ、わたしたちがここにいるのは、幸せなことです」:

教会の神秘における奉献生活

 

29 ご変容の挿話のなかで、ペテロは、他の使徒たちの代表として語っている。「主よ、わたしたちがここにいるのは、幸せなことです」(Mt 17:4)。キリストの栄光の体験は、ペテロの思いと心を完全に満たしていたにもかかわらず、かれを他の使徒たちから切り離さず、かえって他の使徒たちを表す「わたしたち」にいっそう緊密に結びつける。

「わたしたち」というこの次元は、奉献生活が教会の神秘のなかで占める場を考えるようにわたしたちを招く。ここ数年にわたる奉献生活の本性についての神学的省察は、第二バチカン公会議の教えから生まれた新しい洞察を深めてきた。福音的勧告の宣立は、その教えの光のなかで、異論の余地なく教会の生活と聖性とに属していることが承認された。このことは、初めから教会のなかに現存する奉献生活が、教会の本質的で特徴的な諸要素の一つであることを意味している。なぜなら奉献生活は、教会のまさに本質を表現しているからである。

このことは、福音的勧告の宣立がキリストの神秘と密接に結合しており、しかもその宣立には、イエスご自身が選び取られ、絶対的な終末論的価値として示された生活様式を、何らかの仕方で現存させる義務があるという事実からも明らかに見て取ることができる。イエスご自身、幾人かの男女に、すべてのものを捨ててご自分に従うように求められたとき、この種の生活様式を確立されたのであった。この生活様式は、聖霊の導きのもとに、幾世紀を通じて、さまざまな形態の奉献生活へと発展していくことになった。したがって、聖なる奉仕者と一般信徒とだけから形成される教会という概念は、福音や新約のその他の文書によってわたしたちに啓示された、教会の神的な創設者の意図に一致するものではない。