積極的な期待:取り組みと目覚め

 

27 「主イエスよ、来てください!」(Rev 22:20)。この期待は受動的なものどころではない。この期待は、来るべきみ国に向けられているが、業と宣教使命とのなかに姿を現す。それは、人間社会のなかに正義と平和、連帯と赦しとへの実効的な熱望を生じさせることのできる至福の霊によって、(神の)国が今ここに現存することを求めるのである。

このことは、現代に至るまで豊かな実りを常に結び続けてきた奉献生活の歴史によって明瞭に示される。奉献生活を営む人たちは、自分たちのカリスマによって、信仰とキリスト教的希望とによって照らされた新しい未来を指し示す()霊の幾多のしるしとなる。終末論的期待は、宣教使命へと変貌し、み国が、今ここで、いっそう完全に樹立されるようになること目指す。「主イエスよ、来てください!」という祈りには、「あなたのみ国が来ますように」(Mt 6:10)というもう一つの祈りが伴っているのである。

キリストの約束の実現を目覚めて待ち望む人たちは、将来についてしばしば落胆し悲観的になっている自分たちの兄弟姉妹に希望を与えることができる。かれらの希望は、啓示されたみ言葉のなかに含まれる神の約束に基づいている:人類の歴史は、「新しい天と新しい地」(Rev 21:1)に向かって進んでいるのである。そこでは主が、「かれらの目から涙をことごとくぬぐい去ってくださるだろう。もはや死はなく、もはや嘆きも悲しみも苦しみもない。なぜなら先にあったものは、過ぎ去ったからである」(Rev 21:4)

奉献生活は、すべての肉なるものが神の救いを見る、神の栄光のこの決定的な出現に仕えている(cf.Lk 3:6;Is 40-5)。東方キリスト教は、修道者が、キリストにおける世界の刷新を告げる地上における神のみ使いだと考えることによって、この次元を強調する。西方では、修道制は、記念と期待の祭儀となる:それは、神がなさったかずかずの不思議の記念とわたしたちの希望の最終的な実現の期待の祭儀である。修道制と観想生活とは、神の首位性(primacy)が人間生活に充全な意味と喜びを与えるのだということを絶えず思い起こさせてくれる縁なのである。なぜなら男と女とは、神のために造られており、かれらの心は神のうちに安らうまでは落ち着きを見ないからである。