奉献生活の終末論的次元

 

26 使徒職の諸要求は、今日、ますます急を要するものとなっているため、また、世俗的な諸業務への取り組みが以前にも増して修道者の活動を独占する危険があるので、奉献生活の終末論的本性に今一度注意を向けることは、特に時宜にかなっている。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるであろう」(Mt 6:21)(神の)国のこの独特な宝は、願望、先取り、取り組み、そして証を生じさせる。初代教会においては、主の来臨の待望が、特に熱烈な仕方で生きられた。以来、幾世紀が過ぎても、教会は、この希望の態度を絶えず養い続けている。教会は、絶えず信者に、啓示される予定の救いを当てにするよう招いてきた。「なぜならこの世のありさまは、過ぎ去るからである」(1 Cor 7:31; cf.1 Pet 1:3-6)

こうした展望のなかでわたしたちは、奉献生活の役割を終末論的なしるしとして一層明瞭に理解することができる。実際、奉献生活は、来るべきみ国の予表であると絶えず教えられてきた。第二バチカン公会議は、奉献生活がよりよく「復活のありさまと天の国の栄光とを予告する」と述べて、この教えを改めて提示している。奉献生活は、このことを、何よりも先ず貞潔の誓願によって行う。伝統は常にこの貞潔の誓願を、すでに人間の全面的変容のために働いている来るべき世の先取りとして理解しているのである。

自分たちの生活をキリストに捧げた人たちは、キリストとともに永遠にいるために、かれに会いたいという希望のうちに生活せざるを得ない。ここから、「自分たちのうちに燃え上がる、聖霊以外の何ものでもない愛の炎のなかに投げ込まれたい」という熱烈な期待と願望とが生じる。それは、上にあるものを切望する人たちに(cf. Col 3:1)、主が自由にお与えになる賜物によって支えられた期待と願望である。

奉献生活を営む人たちは、主の事柄に沈潜しながら、「わたしたちは、この地上に、永遠の都を持っていません」(Heb 13:14)、なぜなら「わたしたちの国籍は、天にある」から、という言葉を思い起こす。必要なことはただ一つ、主の来臨を待ち望みながら絶えず祈り、神の「国とその義」(Mt 6:33)とを求めることである。