奉献生活の過越の次元

 

24 ()霊によって歴史の至るところで鼓舞されたさまざまな生活形態を取りながら奉献生活を営む人たち、かれらがキリストの十字架のもとに立てば立つほど、より直接的にかつより深く、愛である神の真理を体験することを発見する。まさにこの十字架の上でこそ、死に瀕したお方は、傍らに立つ者たちが自分たちの顔を覆わねばならぬほど(cf.Is 53:2-3)、人間の目には醜く歪み、何の美しさもないように見えながら、神の愛の美しさと力とを完全に啓示なさるのである。聖アウグスティヌスは言っている:「神とともにある神であるみ言葉は美しい。・・・ かれは天において美しい。地において美しい。母胎にあって美しい。ご自分の両親の腕のなかにあって美しい。ご自分のなさった奇跡において美しい。ご自分の苦しみにおいて美しい。生命へと招くとき美しい。死を恐れないとき美しい。ご自分の生命を捨て去るとき美しく、再びそれをお取りになるとき美しい。かれは、十字架の上で美しく、墓のなかで美しい。天において美しい。注意深くこの讃歌を聴いてください。肉の弱さがあなたがたの目を、かれの美しさの輝きからそらせないようにしてください」。

奉献生活は、この愛の輝きを反映する。なぜならそれは、おん父とおん子と聖霊との愛を信じ、またその愛によって生きていることを、十字架の神秘への忠実さによって告白するからである。このようにして奉献生活は、十字架が、世界へと注ぎ出された神の愛の横溢であること、そして奉献生活が、特に困難と試練のただなかにおいて、キリストの救いをもたらす現存の偉大なしるしとなっていることを、教会が常に意識しておくように促すのである。このことは、奉献生活を営む大勢の人たちが、絶えずそして称賛に値する勇気を持って与えている証言である。かれらのうちの多くは、困難な状況のなかに生き、迫害と殉教さえ被っている。愛であるお方へのかれらの忠実さは、隠れた生活の控えめな謙虚さのなかに、「キリストの苦しみの欠けたところを」(Col 1:24)自分たちに肉において全うするためにかずかずの苦しみを引き受けることのなかに、神の聖なるみ旨のための無言の犠牲と自己放棄とのうちに、体力と人格的威厳とが衰えても晴朗であり続ける忠実さのうちに、示され確証されている。神への忠実さはまた、隣人への献身を鼓舞する。奉献生活を営む人たちは、自分たちの兄弟姉妹の必要を絶えず執り成すことによって、貧しい人たちや病気の人たちに惜しみなく仕え、他の人たちのかずかずの困難を分かち合い、教会の関心事と試練とに与ることによって、隣人への献身を犠牲を払いつつ生き抜くのである。