「(聖)霊において」:聖霊によって奉献される

 

19 「光り輝く雲がかれらを覆った」(Mt 17:5)。ご変容についての、ある意味深い霊的解釈は、この雲を聖霊の似姿と見ている。

キリスト教生活全体にも言えることであるが、奉献生活への招きは、聖霊の働きに緊密に結びつけられている。あらゆる時代に()霊は、新たな男女がこの要求の多い選択への呼びかけを承認することを可能にしているのである。聖霊の力をとおして、かれらは、ある意味で預言者エレミアの体験を再び生きる。「主よ、あなたがわたくしを惑わされたのです。そしてわたくしは惑わされました」(Jer 20:7)(主の招きに)充全に応える願いを引き起こすのは、()霊である。()霊こそ、この願いの成長を導き、その願いが積極的な応答へと成熟するように助け、その願いが忠実に行動に移されるようにそれを支えるのである。()霊こそ、召された者たちの心を形作り、かれらを貞潔で貧しく従順であったキリストと同じ姿に変えさせ、かれらがキリストの使命を自分のものにするように駆り立てるのである。終わりのない浄化の旅路を()霊によって導かれながら、かれらは日毎にキリストと同じ姿になり、復活した主の特別な現存を歴史のなかで延長するのである。

教会の諸教父は、鋭い洞察力をもって、この霊的な旅路を、filokali,aすなわち神的な美の愛と呼んでいる。この愛は神の慈しみを反映する。聖霊の力によってキリストとの充全なる同化に漸進的に導かれる者たちは、自分たちのうちであの近寄り難い光線を照り返す。かれらは、地上で巡礼を続ける間、光の無尽蔵の源へと邁進する。こうして奉献生活は、花嫁としての教会の特別に深い表現となる。花嫁としての教会は、()霊によって自分の夫に倣うように促され、「(栄光の)輝きのうちに、しみもしわも、そのようなものも何一つなく」かれの前に立ち、「聖なるもの、非の打ちどころのないものとなる」(Eph 5:27)のである。

この同じ霊は、おん父が召された人たちを、人間の生活から遠ざけるどころか、かれらが自分たちの独特な生活様式でかれらの兄弟姉妹に奉仕するように駆り立てる。そしてその同じ霊は、それぞれの修道会に固有のカリスマに従って、教会と世界とのかずかずの必要に応じた特別の任務を引き受けるよう、かれらを鼓舞している。それゆえ、たくさんの異なった形態の奉献生活が生まれた。このようにして教会は、「その子どもらの多様な賜物によって飾られて、夫のために美しくなった花嫁のようになり」(cf.Rev 21:2)、世界のなかでその使命を遂行する上で必要な諸手段を豊かに与えられるのである。