「おん子をとおして」:おん子の足跡をたどって

 

18 おん父へと通じる道であるおん子は(cf.Jn 14:6)、おん父がご自分に与えられたすべての人たちが、ご自分に従うことをかれらの生活の目標のすべてにするように招いている。しかしおん子は、かれらのうちでも、奉献生活に招かれた者たちに、全面的な関与、すなわち、おん子のそばで生活し、おん子の行くところならどこへでも付いて行くために(cf.Rev 14:4)、すべてのものを後に残す(cf.Mt 19:27)全面的な関与を求めている。

「見えない神の似姿」(Col 1:15)であり、おん父の栄光の反映(cf.Heb 1:3)であるイエスのみ顔のなかに、わたしたちは、わたしたちの存在の根本にある永遠で無限の愛の深みを垣間見る。潔くこの愛に捕らえられた者たちは、イエスに従うためにすべてのものを捨て去らずにはいられない(cf.Mk 1:16-20; 2:14; 10:21,28)。かれらは、聖パウロのように、「イエス・キリストを知ることの圧倒的なすばらしさのゆえに」、他のすべてのものを損失だと考える。かれらは、このすばらしさに比べれば、「キリストを得る」ためにすべてのものを「屑」と見なすのもいとわない(Phil 3:8)。かれらは、キリストの思いとキリストの生き方を我がものとし、キリストと一つになることに励む。このようにすべてを捨てて主に従うことは(cf.Lk 18:28)、主が招いてくださったすべての人たちにとって、いかなる時代にあっても価値ある生き方なのである。

キリストが幾人かの者たちに、貞潔で貧しく従順な方としてのご自分の経験を分かち合うように招く福音的勧告は、それを受け入れた者たちのうちに、キリストに全面的に一致しようとする明示的な願いを求め、またそれを明らかにする。奉献生活を営む人たちは、「自分の持ち物を何も持たず、貞潔で従順な」生活をすることによって、イエスを、あらゆる徳が完成をみる模範として表示する。貞潔と清貧そして従順のうちに生きるイエスの生き方は、この地上で福音を生きるもっとも根本的な生き方として現れる。それは、神的な生き方とも呼びうる。なぜならその生き方は、神人イエスが、独り子としてのご自分とおん父、ご自分と聖霊との関係を表現するものとして採用された生き方だからである。このようなわけでキリスト教の伝統は、いつも、奉献生活の客観的な卓越性について語ってきた。

また福音的勧告の実践は、キリストの最初の弟子であったナザレトのマリアの模範に倣いつつキリストの使命を共有するための特別に深く実り豊かな方法であることも否定できない。マリアは、全面的な自己譲渡によって、進んで神のご計画の奉仕にみずからを差し出したのであった。いかなる宣教使命も、受胎告知の時にマリアによって表明された態度をもって開始されるのである。「ご覧ください、わたくしは主のはしためです。あなたのお言葉のとおり、この身になりますように」(Lk 1:38)