変容されたキリストのイコン(似姿)

 

14 奉献生活の福音的な基礎は、イエズスが、その地上でのご生涯の間に、ご自分の幾人かの弟子たちと結ばれた特別の関係のなかに求められる。イエズスは、かれらに、神の国を自分たちの生活のなかに迎え入れるように求めたばかりでなく、さらにすべてを後に残してご自身の生き方に密接に倣い、かれらの生活を神の国の奉仕に当てるようにお求めになった。

洗礼を受けた多くの人たちが、歴史の至るところで、「キリストの似姿」においてそのような生活をするように招かれてきた。しかしこのことは、特別の召命を基礎として、かつ()霊の独特な賜物によって初めて可能になる。なぜならそのような生活のなかでは、洗礼によって開始された奉献は、福音的勧告の受諾をとおしたキリストへの従順という徹底的な応答へと発展するからである。第一の本質的な福音的勧告は、天の国のための貞潔の神聖な絆である。「キリストへの従順」というこの特別の道は  その起源にはいつもおん父の主導権があるが  本質的なキリスト論的聖霊論的意味を有している;それは、特に鮮明な仕方でキリスト教生活の三位一体的本性を表現し、教会全体が向かっている終末論的完成をある特定の仕方で先取りする。

福音のなかで、キリストのみ言葉と行いとの多くが、この特別な召命の意味に光を当てている。しかしその召命の本質的な特徴の全般的な描写を見るには、ご変容の神秘におけるキリストの輝くみ顔に、わたしたちの眼差しを向けるのが特によい。古代の全霊的伝統は、観想生活を「山上での」キリストの祈りに結びつけるとき、キリストのこの輝くみ顔の「イコン」(似姿)に言及する。奉献生活の「活動的な」次元でさえ、ある意味でこれに含むことができる。というのは、ご変容は、キリストの栄光の啓示であるばかりでなく、キリストの十字架を正視するための準備でもあるからである。ご変容は、「登山」と「下山」の両方を伴っている。主とのこの親密さを楽しんだ弟子たちは、しばしの間、三位一体の生命の輝きと諸聖人との交わりの輝きとに包まれ、いわば永遠の地平の虜になった。しかしかれらは直ちに、みすぼらしい人間本性をお取りになった「イエズスしか」見ることのできない日常の現実へと連れ戻された。そしてかれらは、(涙の)谷へと戻り、キリストとともに神のご計画の労苦を分かち合い、十字架の道行きを勇気をもって辿り始めるように招かれたのである。