神の国に仕える奉献生活

 

105  「宗教がなければ、世界はどうなるのだろう」。 奉献生活は、その有用性についてのすべての皮相的な評価を越えて、まさにそれが無制約の惜しみなさであり愛であるという点で大切である。このとは、儚さの渦中で窒息する危険にさらされている世界にあっては、なおのことそうである。「このような具体的しるしがなければ、教会全体を活気づけている愛は冷め、救いをもたらす福音の逆説は鈍らされ、信仰の『塩』は世俗化を経ている世界のなかでその風味を失う危険があるであろう」。教会と社会それ自体とは、神の愛のために、神と他の人々とに自分自身を全面的に捧げることのできる人々を必要としているのである。

教会は、奉献生活を決して放棄することができない。なぜなら奉献生活は、「花嫁」としての教会の最内奥の本性を雄弁に表しているからである。全世界への福音の宣言は、奉献生活のうちに新鮮な熱意と力とを見出すだろう。神の父親らしい顔と教会の母親らしい顔とを示すことのできる人々が求められている。他の人たちが生命と希望とを持つことができるようにするために、自分たちの生涯を費やす人たちが求められている。教会は、あれこれの高邁な理由のために奉仕に専心することを待たずとも、神の恵みによって変容され、みずからを福音に完全に従わせることをよしとする奉献生活者を必要としているのである。

全教会は、その手中にこの偉大な賜物を見出し、敬意をもって、祈りをもって、そしてその恵みを受け入れることへの明示的な招きをもって、その恵みを促進することに快く専心する。この種の生活の福音的な卓越性を確信する司教と司祭と助祭とは、当然、説教と識別と賢明な霊的指導とをとおして、召し出しの種を見出し激励するように尽力することが大切である。すべての信者は、奉献生活を営む人たちの熱意と愛の能力とが絶えず成長して、今日の社会にキリストのかぐわしい香りを(cf. 2 Cor 2: 15)広めるのに貢献できるよう、かれらのために絶えず祈るように求められている。全教会共同体 司牧者、一般信徒、そして奉献生活者 には、奉献生活に対して、そして新たな召し出しを歓迎しそれを支えることに対して責任があるのである。