神聖なるものの探求と神の希求とへの応答としての霊性

 

103 男性も女性も含めて、奉献生活を信奉するすべての人たちは、自分たちの生路の選択の本性それ自体によって、神を探求する人たちの特権的な同僚となる。神はいつも人間の心を掻き立て、さまざまな形態の修道主義と霊性とに導いてきた。今日、多くの場所で、生活の宗教的次元を現実的に否定するとは言わないまでも、社会の片隅に追い遣る傾向にある文化的諸勢力に対する一つの応答として、この神探求が執拗に現れている。

奉献生活を営む人たちは、自分たちが自由に引き受けた取り組みを堅実にそして充全に生きるとき、かれらの同時代の人たちのかずかずの憧れに対して一つの回答を与えることができる。そして大抵の場合には錯覚に過ぎず、また救いをもたらすキリストの受肉(cf. 1 Jn 4:2-3)の否定をしばしば伴うかずかずの解答から、同時代の人たちを解放する手助けをすることができる。これらの解答には、たとえば、もろもろの分派によって提出された解答がある。奉献生活を営む人たちは、自分たちの実存全体を清め変容させる個人的共同体的修道主義を実践することによって、自己中心主義と官能主義とへの誘惑に対抗し、神探求の真の本性を証する。かれらは、この神探求を、捉えにくく狡猾な自己追求や覚知主義への飛躍と混同することに対して警鐘を鳴らすのである。奉献生活を営むあらゆる人たちは、現実からの逃避や自己への閉塞を決して含まない内的生活の強化に関わっている。奉献生活を営む人は、教会がその保護者であり解釈者となっているところのみ言葉を従順に聞きながら、他のすべてにまさって愛されるキリストと三位一体の神秘とを、人間の心の根深い憧れに対する応答として、また超越へと誠実に開かれたあらゆる宗教的旅路の究極目標として指し示しているのである。

このようなわけで、奉献生活を営む人たちには、神への渇望と信仰の諸要求を生きたいという願いとに動かされてかれらを頼るすべての人たちを、快く寛大に迎え、かれらに霊的支援を提供すべき義務がある。