序文

 

ヴィアトール会士エリ・トレジエール(Elie Trézières)神父は、本会の守護聖人聖ヴィアトールの伝記を作成するために、多くの覚え書きをしたためた。しかし、1933109日に彼を襲った突然の死は、その計画の実現を彼に許さなかった。

ヴィアトール会当局は、これらの資料を私に委ね、この若い聖人ヴィアトールの伝記を作成する命令を下した。聖ヴィアトールの模範は、多くの人々に知ってもらうに値する。彼は、霊魂の聖化、特に青少年の教化に貢献することができた。私は本書の公刊に責任を持つとともに、今は亡きトレジエール神父に哀悼の意を表しつつ、彼の功績をたたえたいと思う。私は、遺された資料を基に、正確なものとは言えないが――完璧な伝記を作成するのに充分な資料がまだそろっていない――一つの伝記を作成した。しかしそれでもそれは、歴史的な人物像を描き出している。

たしかに聖ヴィアトールの事績を我々に教えてくれる真正の文献は極めて少ない。しかしこの敬虔な読師[1]は、我々によく知られている司教聖ユストと緊密な関係を持って生きていた。何よりもこの間接的な手段によって、我々は、聖ヴィアトールを知ることができる。

1880年、イエス会士グイユ(Gouilloud)神父は、『リヨンの二人の偉大な司教、聖ユストと聖ニジエ』と題する著書を公刊した。彼はその際、聖ユストと同時代の人物の手になる『聖ユストの生涯』(Vita Sancti Justi)という伝記を、その歴史的価値を吟味しつつ、利用した。この著書は、作者不詳のまま我々に伝えられているが、通例、殉教録者アドン(Adon)[2]の手に帰されている。この『聖ユストの生涯』の写本には、『略伝』(Vita brevior)と『詳伝』(Vita prolixior)の二種がある。

ところでこの伝記は、聖ヴィアトールの生涯に二つの大きな転機があったことを我々に教えるとともに、彼の性格と徳に関する評価さえ我々に提供してくれる。ローマの殉教録の諸資料とリヨンの聖務日課書[3]に含まれる諸資料をこれに加えれば、我々はおそらく、聖ヴィアトールのとても地味ではあるが非常に有益な生涯を再構成するのに必要な資料を手にすることになろう。

リヨンの教会の歴史を明らかにする数多くの学問的な研究や4世紀の教会史の諸書を参照すれば、この聖人を特定の歴史的状況に位置づけるのは、かなり容易になる。

ヴィアトールの人物像を明らかにするには、他の人物の場合以上に、歴史的枠組みが必要である。ヴィアトールは、孤高の生活を送った人ではない。彼は、突飛で並外れた方法で完徳の域に達した人ではなかった。砂漠の隠修士たちの実践を「普通の手段」と呼ぶことができるなら、ヴィアトールは、カトリック教会が提供する普通の手段を利用したにすぎない。もちろん彼は、リヨンにいただけではなかった。彼は、エジプトにも行った。エジプトは当時、律修生活の組織、すなわち教会史でおなじみの修道生活の共同体の一大中心地だったのである。

柱頭行者聖シメオンや、我々に多少とも近いヌルシアの聖ベネディクト[4]についてなら、彼らを理解するのに、彼らの生きた環境を思い起こす必要はあまりないだろう。なぜなら彼らは、自分たちの環境を後にして、いわば同時代の社会の周縁に生きたからである。

聖ヴィアトールも、当時の典礼生活と隠修生活に参加し、それらに親しく関わった。それゆえ当時の風紀や戒律、雰囲気は、彼の人となりについて、そして彼の成し遂げたことについて、多くのことを我々に明らかにしてくれよう。そして、彼がいつも自分の司教に同伴していたという事実は、数多くの有益な情報を提供してくれるにちがいない。おそらく最初の伝記作者たちは、細部を描くのに苦労はしなかっただろう。なぜなら彼らの目には、物事は明白であり、言うに及ばなかったからである。

この時代の環境を描き出すのに役立つ著作家たちの書誌学的な研究は、ここでは、退屈であるとは言わないまでも、余計である。読者は望むなら、4世紀の典礼生活や修道生活を扱った定評ある書物を紐解きさえすればよい。我々の目標は、学問的な著作を書くことではなく、神の謙虚で忠実なしもべの輪郭を単に浮き彫りにすることなのである。

聖ヴィアトールは、我々の時代から見るとかなり今日的な人のように見えることに注目したい。今からおよそ半世紀前に盛んになってきた典礼運動は、信者の人たちに宗教的祭儀への積極的な参加を促した。キリストの民は、ミサ聖祭に単に居合わせるだけではもはや満足せず、司祭とともに、司祭のすべての言葉に合わせて、そして司祭のすべての祈りと一つになりながら、ミサ聖祭を祝おうと望んでいる。リヨンの敬虔なる読師ヴィアトールは、この道のはるか昔の先駆者であり、この点で、今でも、我々の導師となることができるだろう。

教皇ピウス11世聖下は、カトリック・アクション[5]を再興した。この運動は成功を収め、絶えず成長し続けている。教皇は、一般信徒の協働者たちに、アッシジの聖フランシスコを守護聖人として与えた。彼は、司祭ではなかった。聖ヴィアトールもこの点で、聖フランシスコに似ている。彼も聖職位階に就いてはいなかった。しかしながら聖ヴィアトールは、誰よりもよく教会の位階的使徒職に参加することができた。彼は、隠修生活に身を投じる前に、何年もの間、自分の教区長に献身していたのである。

若者たちは、聖ヨハネ・ベルヒマンス[6]、聖アロイジオ・ゴンザガ[7]、聖スタニスラオ・コスカ[8]に並ぶこの生き生きとした模範を観想することで益を得ることだろう。聖ヴィアトールの彫像は、左手には福音書を、右手には百合を持ち、目を天に上げている。この彫像は、青少年に素晴らしく似つかわしい彼の三つの徳、すなわち神のみ言葉を研究する彼の熱意、彼の品行の天使的純粋さ、そして天の事柄に向けられた彼の信心を象徴している。

天の幸いを享受する聖人たちに、我々の真摯な祈願をしばしば向けることがよいことであるとすれば、聖人たちの現世での生涯を熟慮することは、なお一層益のあることであろう。天においては、彼らは我々の保護者であるが、地においては彼らは我々の模範なのである。また読者は、卓越した聖性の理想のために地上の野心を犠牲にすることのできたこの若い勇士の歴史に、心を動かされるにちがいない。彼とともに生きることによって、彼のように生きることができますように

Paul-Émile Farley.

 



[1] 教会の各種の儀礼、特にミサ聖祭において、聖書の朗読を担当する聖職者。なお、以下の脚注は、特に断りのないかぎり、すべて訳注である。

[2] 9世紀前半のヴィエンヌの大司教で、聖人伝や年代記を執筆したことで知られる。

[3] キリスト信者が、毎日、唱える「教会の祈り」に相当する。

[4] 480~550頃 イタリア中部のヌルシアの名門出身。古都ローマの退廃を嘆いて隠修士となり、529年頃、モンテカシノに移り、生涯そこを離れなかった。彼がモンテカシノで執筆した唯一の著作戒律(540)は、ヨーロッパの修道生活に甚大な影響を与えた。彼は、西欧の修道生活の父として敬われている。

[5] カトリックの信仰生活を擁護することを目的とした信徒組織で、広義には既に古代から、教会当局の賛同の下、自発的に存在したと言えるが、教皇ピウス11(在位1922~39)によって組織化され、各種の信徒会として教会当局の管理下に置かれた。

[6] 1599~1621 Jean Berchmansベルギー出身のイエス会士。細部に到るまでの厳格で英雄的な会則遵守と快活な社交性で知られ、多くの青年の模範になった。1888年に列聖。ミサの侍者の守護聖人。

[7] 1568~1591 Louis de Gonzagueイタリア出身のイエス会士。服従と謙虚、隣人愛をもって知られ、青少年の模範とされた。1726年に列聖。若い学生の守護聖人。

[8] 1550~1568 Stanislas de Kostkaポーランド出身のイエス会士。純潔や聖母への信心などで秀でた。1726年に列聖。学生・病者・臨終者の守護聖人。