第九章

修道会の守護聖人

 

聖ヴィアトールの遺骸がフランスに戻ってからおよそ1500年後、彼の名は、ルイ・マリ・ジョゼフ・ケルブ神父によってヴールに創立された修道会に与えられることになった。

ルイ・ケルブは、1793年、フランス革命の嵐の吹きすさぶリヨンで、仕立て屋の息子として生まれ、サン・ニジエの聖歌隊養成所(一種の小神学校)で、最初の教育を受けた。次に彼は、サン・イレネ大神学校に進学し、神学の勉強を継続した。この時の同僚には、後にマリスト会[1]を創立したジャン・クロード・コラン(Jean-Claude Colin)とマルセラン・シャンパニャ(Marcellin Champagnat)がいた。また彼は、後にヌヴェールの司教となるドミニック・デュフェトル(Dominique Dufêtre)、および、後にボルドーの大司教兼枢機卿として生涯を終えることになるフェルディナン・ドネ(Ferdinand Donnet)とも友情で結ばれた。やがて彼は、アルス(Ars)の主任司祭・聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ(Jean- Marie Vianney)[2]の傍らで、副助祭に任命され[3]1816年には、司祭に叙階された。そして、後にメッス(Metz)の司教となるベッソン(Besson)神父の指導するサン・ニジエ教会の助任司祭に任命された。

これらの俊友に啓発されて、この若い聖職者の才能は、容易にそして充全に開花した。1821年には、彼は、司教区当局によって、満28歳にして、トゥールのサン・マルタン宣教団(mission de Saint-Martin)の長上に内定した。しかし彼は、この栄誉を丁重に辞した。この翌年の1822年には、彼は、リヨンに隣接する小教区であるヴールの主任司祭に任命された。ここには、信仰弘布会(Propagation de la Foi)の創立者であるポーリンヌ・ジャリコ(Pauline Jaricot)[4]女史が住んでいた。ケルブ神父が教師として、また必要とあらば香部屋係として聖職者に協働できる教理教育者会(missio- naires catéchistes)を設立する考えを抱いたのは、この地であった。

この種の事業は、この地域の実情からして、どうしても必要だった。革命は、すべての慈善団体を破壊してしまったのである。総裁政府(Directoire)[5]は、再建計画を声高に宣言したものの、その約束はほとんど守られなかった。やがて統領政府(Consulat)とナポレオンの第一帝政[6]は、大学を創設することに同意した。しかし復古王政[7]は、教育体系の改善を望みながら、そのせっかくのよい計画を高額な有償教育で台無しにしてしまった。

この頃、農村部の困窮はひどかった。教師は極端に不足し、教育計画は混乱した。そしてその当然の結果として、子どもたちの無知が到来した。これが、信仰と風紀に有害な影響を及ぼしたことは、言うまでもない。

こうした危惧すべき状況は、司教たちの指導の下に、フランスにおける教育の自由を取り戻そうと企てていたカトリック者たちの憂慮をますますつのらせた。この自由獲得闘争は長く、そして困難なものであった。なぜなら彼らは、根深い偏見と如何ともしがたい無理解に突き当たっていたからである。モンタランベール(Montalembert)[8]とラコルデール(Lacordaire)[9]は、その輝かしい雄弁によってこの教育の自由の要求を支持した。

このような輝かしい声援と並んで、国政の混乱に苦しむ善良な市民のもっと控え目な声、一家の父の不満の声があった。父親たちは、子どもを抱きかかえながら、主任司祭ないしは市長のところに行き、自分たちの苦情を述べ、正当な裁定を求めた。

         

ケルブ神父が、単式誓願[10]の修道者と、熱心な信者たち――彼らは、いわゆる第三会[11]を構成する――とからなる修道会を設立しようという最初の計画を練っていたとき、彼が耳にしたのは、何よりもこのような人々の声であった。しかし司教区当局は、彼のこのような考えに困惑し、等質の単式誓願の会員だけからなる宣教会(congrégation)が望ましいと、彼に告げた。

1830110日、国王の勅令は、この新しい団体を認可した。翌年の1831年の123日、リヨンの大司教は、教会法に従って、その団体を修道会として認可した。更に数年後の1838年、ローマ教皇庁は、司教・修道者聖省教令によって、この会を最終的に承認した。

もちろん信心深いケルブ神父が、この修道会の設立に当たって、この会の事業を導き保護するのにふさわしい守護聖人を選ぶのを忘れるはずはなかった。

年若きケルブ神父は、その最初の任務の一つとして、彼自身も最初の教育を受けたサン・ニジエの聖職者養成学校の教壇に立っていた。そして1817年から1822年まで、同じ小教区の助任司祭を勤めた。その点で彼は、まったくの在家時代から、このリヨン第一の教会の輝かしい歴史を知っていたと言える。この教会は、かつて聖ユストが、その献身的な読師ヴィアトールの補佐を得て、奉仕職を果した由緒ある司教座聖堂であった。ケルブ神父は、司教に雄々しく従ったこの若い聖職者ヴィアトールの遠い昔の記憶を、幾度もよみがえらせたにちがいない。また、ヴィアトールが熱心なカテキスト(教理教育者)として、キリスト教の教えを小さな子どもたちに教えるために、教会の柱廊を行き来している姿をしばしば思い浮かべたことだろう。

結局のところ、ケルブ神父は何を望んでいたのだろうか。それは、祭儀と教育を補佐することのできる新しいヴィアトールたち(Viateurs)を小教区の聖職者に提供することではなかったのか。ケルブ神父の構想とヴィアトールとの間に密接な関係があるのは、一目瞭然だった。この栄えある読師ヴィアトールの記憶がケルブ神父の脳裏に浮かんだのは、まったく自然なことであろう。こうして彼は、小教区の聖職者から構成される自分の会を、聖ヴィアトール教理教育者会(Catéchistes de Saint-Viateur)、あるいは、聖ヴィアトール聖職者会(Clercs de Saint-Viateur)と名づけ、この後者の名称を常用したのである。

         

  ケルブ神父は、在俗司祭(Recteurs temporels)の会議の折りに、この名称の選択をみずからボナル(Bonald)司教の前で説明している。彼は言う。「この謙虚な読師は、その役務によって、子どもたちに信仰の初歩を教えること、そして他の下級聖職者と力を合わせながら、祭壇の奉仕によって厳かなミサ聖祭に慎ましく貢献することに専念いたしました。これが、リヨンの司教聖ユストの監督と指導の下に聖ヴィアトールが行なったことでございます。そしてわたくしどもの教理教育者会(société de Catéchistes)は、彼の名前を取って、彼の保護下に置かれております。この守護聖人の貴重な遺物――この遺物は、最初、プロテスタントの人たちによる破壊を免れました。そしてフランス革命の際には、当時、聖ユスト教会の管理者でありましたが、後にリヨンの大司教教会の聖歌隊長としてお亡くなりになったヴィル(Vire)神父さまのご配慮によって、革命の動乱から免れたものでございます――が、同じ教会の香部屋係であるカロン(Caron)神父さまのご厚意で、わたくしどもに譲られたばかりであります」。

リヨンの町がヴィアトールにいつも捧げていた祭儀も、創立者の精神に影響を及ぼさずにはおかなかった。宗教的な英雄であるばかりか、民族的な英雄でもあったこの聖人をたたえることは、この地方の伝統であった。その生涯の詳細はよく知られていなくとも、この聖人がこれほどの長期にわたって博してきた人気は、この聖人の頭上に輝かしい光輪を添えていた。人々の注意を引きつけ、このような人気を正当化するには、この聖人の遺した数々の徳の模範を偲ぶだけで十分だったのである。

またこの聖人の模範は、ケルブ神父が自分の会の会憲を起草する際に、絶えずその心によぎっていた。この守護聖人の生涯に合わせて、彼は、自分の共同体の目標を定めた。彼は会憲の第1条で次のように書いている。「教理教育者会(l'institut des Catéchistes)の目的は、会員各自の聖化、公私の如何を問わないキリスト教教義の教育、および、聖なるトレント公会議の意向(25総会17)[12]に即した聖なる祭壇の奉仕である」。

ケルブ神父は、生活規則においても、この若い聖人の模範に鼓舞されて、聖書とトレント公会議の公教要理[13]、および、キリストにならいて[14]の朗読を会員たちに義務づけた[15]

         

教会法と国法に従って組織された聖ヴィアトール修道会は、いまや、「汝等は育ち、増えよ」という教皇グレゴリウス16[16]の祈願どおり、急速に発展していくことになった。会員たちは、「子どもたちが私のところに来るのを許しなさい」というイエスの言葉をみずからの標語とし、それを至る所で実現するように努めた。このようにして、聖ヴィアトールの名前と祭儀は広がっていき、信者の人たち、特に子どもたちの信心を高めることになった。

ヴィアトール会は、この会にあまり好意的でない政治家たちが引き起こした困難にもかかわらず、フランスの幾つもの司教区に広がり、青少年のキリスト教教育に熱心に取り組むことができた。

オルレアンの司教デュパンル(Dupanloup)は、ヴィアトール会の働きを、「我々の時代において、キリスト教的にもっとも人望の厚い事業の一つである」と評してくださった。1901年の追放令[17]が出たときには、ヴィアトール会は既に繁栄の絶頂にあった。多くの優れた会員が、国外追放の道を選ばねばならなかった。ある者たちは、スペインに向かい、そこに幾つかの学校を建てた。これらの学校は発展していった。また他の者たちはベルギーに向かった。そこ(ブリュッセル郊外のジェットJette)には、現在、ヴィアトール会の本部が置かれている[18]

しかしながら聖ヴィアトールへの信心をフランス国外にもたらすのに、このような嘆かわしい事態を待つ必要はなかった。1841年、幾人かの部下が、(アメリカ合衆国の)ミズーリに派遣された。残念ながらこの事業は成功しなかったが、1865年にイリノイで再開されて、大きな成功を収めた。アメリカ管区には、幾つもの施設があるが、その内の主要なものは、シカゴ郊外のブルボネ(Bourbonnais)にある聖ヴィアトール学院(St.Viator College)である。また、同会のE.-L.リヴァール(Rivard)神父は、この会の守護聖人が、この大共和国において、もっとよく知られるようにと、聖ヴィアトールとヴィアトール会士たちという一冊の本を著した。

しかし聖ヴィアトールの名とその事業がさらに広まったのは、カナダである。1847年、モントリオールの司教ブルジェ(Bourget)は、アンデュストゥリ(Industrie)に設立されたばかりの学校(現在のジョリエット学院)の管理のために、ヴィアトール会の3人の修道者を招聘した。1855年、当時、ヴールにあった同会の本部に立ち寄ったブルジェ司教は、レイノ(Reynaud)神父のリヨンの聖人伝(Hagiologium Lugdunense)と、リヨンの聖務日課書、および聖人伝執筆者たち(Bollandistes)を研究して、聖ヴィアトールの生涯という短編ではあるが興味深い文書を執筆した。

ブルジェ司教は、カナダのヴィアトール会管区長エティエンヌ・シャパニュール神父にこの小冊子を送りながら、こう書いている。「私たちは、聖ヴィアトールへの信心をこの司教区に是が非でも広めねばなりません。・・・ 私は空いている時間を使って、この聖人の伝記を書き記すために必要な歴史的資料を集めなければならないと思っています」。同時にモントリオールの司教は、次のような教書を発した。今後、「証聖者・聖ヴィアトールの祝日が、毎年1021日に、8日間にわたる第一級の復誦祝日[19]として祝われなければならない」。

ヴィアトール会士たちは、カナダで大変な勢いで広がり、幾つかの小学校と中学校、および幾つもの小教区を管理するようになった。彼らは、カナダに到着すると、先ず、聾唖学校を設立した。後ほど、より完全なキリスト教的生活を送りたいと願う聾唖者たちの要望に応えて、モントリオール聾唖学校は、一つの信心会(Association Religieuse)を併設した。彼らは、聖ヴィアトール信徒献身者(Oblats de Saint-Viateur)という名でこの信心会に加入を認められた。

なおカナダ管区は、アメリカのシカゴ管区の参加を得つつ、ケベック外国宣教会の神父たちと協力して、極東の満州で宣教活動を開始した[20]

ヴィアトール会士たちが行く先々で、聖ヴィアトールの祭儀を導入し、それを盛んにしたことを示すには、以上で十分であろう。多くの教会堂でも、モントリオールやシカゴの巨大な大聖堂でも、聖ヴィアトールの彫像が立てられた。そして多くの信者が、その彫像の前に跪いている。毎年1021日の聖ヴィアトールの祝日になると、幾千もの子どもたちが彼のために賛歌を歌い、説教者たちは聖ヴィアトールの数々の模範的な功績と徳をたたえている

 



[1] 聖母マリアの徳に倣いつつ、あらゆる使徒職、特に教育使徒職に献身する修道会(Marist Fathers)として、1816年にフランスのベレイ(Belley)――リヨンの西40キロほどのところに位置する町――で、ジャン・クロード神父によって創立され、更に1817年、マルセラン・シャンパニャ神父によって増強された(Marist Brothers)。マリスト会は、南太平洋地域の教育宣教で目覚しい成果を上げている。

[2] 1786~1859 フランスのリヨン近郊に生まれた。フランス革命の困難に耐えながら、1815年に助祭に、そして同じ年に司祭に叙階され、1818年、アルスの主任司祭に任命された。優れた聴罪司祭として知られ、毎年多数の巡礼者が彼の許を訪れた。彼は、毎日12~15時間も、告解室にこもって、人々の告白を聞いたという。1925531日に列聖。教区司祭の守護聖人。

[3] ケルブ神父は、1815623日、グルノーブルの司教シモンの司式で副助祭に任命されたが、この同じ式で、上記のヴィアンネは助祭に叙階されたのである。

[4] 1799~1862 フランスのリヨン出身の女性実業家で、1822年に、アメリカのルイジアナの宣教活動を財政的に支援するために、信仰弘布会という一般信徒組織を創立した。この会の本部は、1922年に、教皇ピウス11世によってフランスからローマに移された。

[5] 1795年に成立したフランス政府(1795~1799)。都市のブルジョワ階級(商工業者)の要求を優先したため、農民層の反発と軍部の台頭を招いた。

[6] コルシカ島の貧乏貴族出身のナポレオン・ボナパルト(1769~1821)は、フランス革命の混乱の中、砲兵将校として頭角をあらわし、179911月、総裁政府を打倒して、統領政府を樹立した(1799~1804)。統領政府は、3人の統領からなっていたが、事実上、ナポレオン(第一統領)の独裁政権であった。やがてナポレオンは、国民投票によって皇帝に即位し、フランス革命後の第一共和政に代わって、第一帝政(1804~1814)を誕生させた。

[7] ロシア遠征などの失敗で退位したナポレオンに代わって、ルイ16世の弟ルイ18(在位1814~1824)1814年に復活させたブルボン王朝の政治をさす。彼の在位中、ナポレオンの百日天下なるものもあった。

[8] 1810~1870 フランスの政治家。本文にあるとおり、カトリックの信仰教育の回復のために信仰の自由を主張した。

[9] 1802~1861 フランスの著名なカトリック司祭(後にドミニコ会士)。友人のモンタランベールらとともに、教会の自由と再建のために奮闘した。

[10] カトリック教会では、清貧・貞潔・従順の三つの誓願を宣立することによって法的な修道者として公式に認知されるが、この誓願のうち清貧の誓願に関して、私有財産の放棄を無条件に誓う誓願を荘厳誓願、一定の条件のもとに財産の私有が認められる誓願を単式請願という。

[11] 誓願を宣立した修道者の団体である修道会の使命に協賛し、各自の生活が許す限りでその活動に協力する在俗信徒の団体。

[12] ( )は原文のまま。トレント公会議(1543~63)の第25総会は、宗教改革によって攻撃された「聖人の取り次ぎ」「聖遺物および聖画像の崇敬」を擁護する教令を出している。

[13] トレント公会議の要請に基づいて、教皇ピウス5(在位1566~1572)が編纂を命じたカトリック教会の総合的教理書。1566年初版。ローマ公教要理とも言われる。なお、今日のヴィアトール会では、第二バチカン公会議(1962~1965)の教えに基づいて新たに編纂されカトリック教会のカテキズム(1992年初版)を読むことが強く勧められている。

[14] 1427年頃の信心書。外面的なものを蔑み、ただキリストの教えに従えと説く。ドイツのトマス・ア・ケンピス(1379~1471)の作とする説が有力。カトリック、プロテスタントを問わず、多くの人に愛読されてきた。

[15] ケルブ神父の生涯と題する故ピエール・ロベールの著作がある。彼は、聖ヴィアトール修道会の総長であった。このみごとな本は670頁からなり、1922年に出版された(原注)

[16] 254代教皇。在位1831~1846

[17] 国家と教会の分離を図る団体法。

[18] もちろんこれは、1937年の本書執筆当時のことである。現在はローマに本部が置かれている。

[19] sous le titre de fête double de première classe avec octave:祝日当日から数えて8日間、すなわち翌週の同曜日まで、詩編を唱える際、その前後にその時々の時節に適した短い唱句――交誦(antienne)――を付けて祝われる祝日。通常、交誦は、詩編の冒頭で一回唱えられるだけである(単誦)

[20] ヴィアトール会ジョリエット管区とモントリオール管区(ともにカナダ)は、本部の要請を受けて、1930年、合同で、旧満州中部の四平街に、ヴィアトール学園(暁東中学・高等学校)を建てることを決定し、1931年以降、総計24名の宣教師を現地に派遣した。しかし1946年、国共内戦の戦禍を受けて校舎がほぼ全壊したのを契機に、撤退した。1932年の学校設立から撤退までの在校生と卒業生の総数は、3000人あまりと報告されている。