第八章

聖遺物の誉れとその変遷

 

スケティスの砂漠が、この二人の英雄の遺骸に崇敬を寄せるのに、そう時間はかからなかった。聖務日課書によると、「アンティオクスは、リヨンに戻ると、司教とその忠実な読師の死を同郷の人たちに知らせた」。更に彼は、この二人がエジプトの厳格な隠棲地において実践した生活の聖性と卓越した徳について、同郷の人たちに語り聞かせた。間もなくリヨンの聖職者と市民は、この二人を特別に崇敬するために、彼らの遺骸の移送を要求する声を上げた。

ここで、この時代の諸都市が、聖人たちの遺物、特に特別な称号に値する聖人たちの遺物を所有する栄誉と特典を得ることに、野心を燃やしていたのを思い起こす必要がある。人々は、恵み深い聖人の模範がもたらす功徳、霊的ではあるが現世的でもある恩寵を当てにしていた。神は、これらの恩寵を通して、先人の遺徳をしのぶ人々の熱烈な信心に報いてくださると信じられていたのである。

それゆえキリスト者は、殉教者たちの遺体を、念には念を入れて収集した。その上、テオドシウス法典[1]の規定によって、貴重な聖遺物を保管する教会は、聖職者と同等の権利を有する守衛を置くことができた。歴史家たちは、幾人かの福者の遺骸をめぐって行われた記憶すべき論争を我々に語っている。無数の殉教者たちの遺産を有するリヨンでさえ、その地にある諸教会の間で、聖遺物の争奪戦が行われ、いずれも、歴代の皇帝や地方総督の介入と裁定を仰がなければならないほどであった。

このような事情のもとでは、遺骸の移送の企ては、色々とむずかしい問題を孕んでいたが、遺骸の移送の特命を受けたリヨンの使節は、エジプトに急行した。当然、スケティスの修道士たちは、(神に)選ばれたものと見なされた二人の遺体を手放そうとはしなかった。しかし修道士たちは、遺骸の返還を求めに来た人たちの熱意と真摯な動機に動かされて、この貴重な宝の譲渡に同意した。

         

かくして二人の人物の遺骸は掘り起こされ、リヨンに丁重に運ばれた。二人の遺骸は、彼らの死の翌年(391)84日、人々からの大きな敬意に囲まれて、リヨンに到着した。そしてこれらの遺骸の到着を記念する祭典が、盛大に催された。

二人の遺骸は、少し前に司教アルビヌスによって建てられた新しい司教座聖堂・聖ステファノ教会の中にある聖エウスタコス(Eustache)の祭壇の上に置かれた。しかし本来の安置先は、当時修築中のマカベア教会であった。その後、マカベア教会の修築が一通り終わると、同じ年の92、これらの遺骸は、信者たちの非常に大きな歓喜と信心に囲まれて、マカベア教会に移された。

ここで、聖ヴィアトールの聖遺物とその崇敬の歴史が、エジプトからの帰還から1790年までの間、マカベア教会の歴史と不可分の関係にあったことに注目しておこう。二人の隠棲者の遺骸を納めた墓地を有するこの聖堂は、数多くの奇跡の舞台となった。これによって、この聖堂の守護聖人の変更に説明がつく。この聖堂は後に、聖ユスト教会と呼ばれるようになったのである。

5世紀の終わり頃、ある古文書は、次のように述べている。「リヨンの司教エティエンヌが、他の幾人もの司教に手紙を書いて、間近に迫った聖ユストの祝日を祝いに来るように招いた。この祭日は、当時起こっていた数々の尋常ならざる不思議の故に、非常に多くの人々を引き付けていた」。この時、ブルグンド族の王ゴンドバルト(Gondebaud)の臨席のもと、カトリックの司教たちの会議が開かれた。この会議で司教たちは、アリウス派の指導者たちを論破した。更に司教たちは、この紛争に決着をつけるため、聖ユストの墓前で聖ユストに祈願するように、アリウス派の指導者たちに提案した。もちろんこれらの異端者たちが、この挑戦を受け入れるべくもなかった。

850年頃、司教聖レミ(Remy)[2]――あるいは、その協働司教アウディヌス(Audinus)――は、聖ユスト教会を再建した。彼はこの時、回廊を囲む壁を建設したものと思われる。なぜなら、以前、サラセン人たちがそこを通り過ぎたとき[3]、彼らは、自分たちの背後に、長く点々と続く廃墟を残して行ったからである。

11世紀の終わり頃、大司教ヒュー(Hughes)は、聖ユストの聖堂を、25名の参事会員が住む参事会教会[4]にした。これらの参事会員たちは、男爵の称号を持ち、緋色の法衣を着用し、頭に法冠をかぶり、他の参事会員よりも上席を占めた。

聖ユスト参事会教会は、ますますその重要性を増した。ガリアにおけるもっとも豊かな教会の一つとして、聖ユスト参事会教会は、その近郊にも遠郊にも、多くの土地を所有した。回廊で囲まれたその僧院――あるいは大きな村と言った方がよいかもしれない――は、クリュニーの僧院[5]よりも広大で、まるで要塞の観を呈していた。またそこには、多くの参事会室や集会室、牢獄、施療院、学校、その他必要な施設がすべてそろっていた。すべては、およそ2キロメートルの城壁で囲まれ、22の櫓でその側壁を固めていた。

この要塞のごとき僧院の中心に聖ユスト教会があった。何世紀にも渡ってリヨン司教区は、年に3回ないしは4回、この聖にして栄えある司教をたたえて祝祭を催した。大勢の巡礼者たちがこの町にやって来た。彼らの中には、数多の随員を従えた諸国の王や歴代の教皇がいた。ここでは、聖王ルイ9[6]、善良公フィリップ2[7]、シャルル8[8]とその王妃アンヌ・ド・ブルターニュ[9]を特記しておこう。またフランソワ1[10]は、母堂と后を伴って何度もこの地を訪れている。この后は、夫がイタリアに出征している間、摂政として、この地に宮廷を構えたりした。ルイ10[11]は、そこに幾つかの慈善的な公益施設を設立した。

10人の教皇が聖ユスト教会に立ち寄って、その聖堂に、特別な霊的計らいを与えた。インノケンティウス4[12]は、この教会で公会議を開き、7年間そこに滞在した(1245~1252)[13]。このことは、この名高い僧院をカトリック世界の中心とし、あらゆる国の高位聖職者と外交使節がしばしばそこを訪れた。

この教会で数多くの司教叙階式、14名の枢機卿の任命式、カンタベリーの聖エドモンド(Edmond)[14]の列聖式が行なわれた。また、ベルトラン・ド・ゴート(Bertrand de Goth)が、1305年、フランス国王とアラゴン国王の臨席の下に、教皇に祝聖され、クレメンス5[15]となった。

128787日、リヨン司教座が空位の折りに、この町の被選司教は、聖ユスト教会参事会の同意を得て、ウィーンの大司教ヴァランスのギョーム(Guillaume de Valence)に、この大司教自身が、あるいは代理人を介して、聖ユストと聖ヴィアトールの遺骸を認知して、その改葬に立会い、それらの遺骸を新しい聖堂の中に準備された聖遺物匣(châsses)に安置して下さらないかと懇願した。

大司教はこの願いに応じて、説教者会[16]4名の博士を、小さき兄弟会[17]4名の博士とともに派遣した。彼らは、翌年の829日、墓の開棺を執行した。

この機会に彼らが作成した調書によれば、調査委員たちは、最初の墓の中に、聖ヴィアトールの遺体と、彼に直接関係する文書を発見した。残念なことに、これらの文書は失われてしまい、我々は、この若い聖人の生涯と徳に関する貴重な情報をもはや手にすることができない。

同じ年の92日、二人の聖人の遺骸は、別々の聖遺物匣に納められ、ヴァランスのギョーム自身の手で、新しい聖堂に安置された。

こうして司教の忠実なしもべであった聖ヴィアトールは、居並ぶ著名な高位聖職者たちとともに第一級の座を占め、名声と栄誉を彼らと分かち合うことになった。また、聖ヴィアトールの小聖堂には1名の司祭が配置され、毎週2回のミサの執行が義務づけられた。この当時は、ある「交付金」ないしは基金が存在していて、これによって、この小聖堂で1021日にミサを捧げる司祭には、謝礼金が支払われた。

およそ300年の間、この伝統は保たれた。しかし何たること! 聖ユスト教会は、カルヴァン[18]に買収された妄信的な反教皇派の狂乱の前に、甚大な被害を被り、再三にわたって蹂躪されたのである。

1562429日の夜、裏切りと不意の襲撃によって、リヨンの城門がユグノー[19]の軍勢に開かれた。既に多くの襲撃に耐えていた聖ユスト教会の城砦も、51日、異端者の手に落ちた。彼らは、ユスト教会を取り返しのつかないほど荒らし、この聖堂を飾っていた選りすぐりの宗教芸術を運び出し、聖遺物 ( こう ) を暴いた。リヨンの人々の信仰と感謝と愛情が1000年以上もかけて聖人の墓所の回りに積み重ねてきたすべてのものが、暴徒によって破壊された。幾世代にもわたって崇敬された聖遺物は、踏みにじられ、あるいはソーヌ川に投げ込まれた。そしてこの有名な大教会堂は、火を点けられた。

聖ユストと聖ヴィアトールも、やはりこの残虐な破壊を免れることはできなかった。しかしながらこれによって、彼らの遺骸のすべてがなくなったわけではなかった。司教座聖堂参事会議長のフランソワ・ピュピエ(François Pupier)は、他の参事会員たちの助けを得て、最も貴重な聖遺物の一部を掘り出すことに成功し、それらを牛車に載せ、干し草をかぶせ、町の外に運んでいった。こうして聖ユストの頭部と聖ヴィアトールの体の一部が救われた。そして教会が再建されたとき、これらの遺物は、信者の崇敬のために再び展示されたのであった。

この新しい教会は、リヨンの城壁の内部の、以前の教会の廃虚から少し離れたところに建てられた。1564年に始まったこの教会の建設は、急いで行われた。なぜなら参事会員たちは、異端者たちの破壊を免れたフランシスコ会の教会に、わざわざ聖務を果しに行くという不便な義務を負わされていたからである。新しく成った教会には、多くの信者と巡礼者が非常に頻繁に訪れた。そのため、この教会はすぐに手狭になり、1661年に拡張工事が施され、1747年にようやく竣工した。正面入口の側壁には、次のような銘句が刻まれている。先ずマカベアのために、次に聖ユストのために(Machabaeis primo, deinde sancto Justo)

左側の側廊は、聖ユストの小祭壇に突き当たる。そのステンドグラスには、この司教の生涯の様々な場面が描かれていて、聖ヴィアトールは、この司教の傍らにたたずんでいる。

不幸にも、フランス革命のとき、1562年の恐怖が繰り返された。1790年、手始めに、王の勅令が発せられ、諸教会のすべての銀製品が没収され、国庫に納められた[20]。銀製の聖遺物匣に納められていた遺骸は、このとき、粗末な木製の聖遺物匣に移しかえられねばならなかった。

1793年、リヨンの攻囲戦の後、冒涜行為がまたしても聖ユスト教会を汚した。しかし墓掘りの役務も果していた香部屋係が、幸運にも、聖ユストと聖ヴィアトールの遺骸を持ち出すことができた。彼は後に、これらの遺物を聖職者の手に返した。

しかしながらこの時期から、聖ヴィアトールの遺物は、その名前とともに、聖ユストから切り離された。驚くべきことに、偉大な司教への崇敬は、ほとんどリヨンの地域に限られていたのに対し、謙虚な読師の崇敬は、新たに飛翔して幾つもの大陸に広がり、ほとんど普遍的と言えるほどになっていくのである。

 



[1] Codex Theodosianus 312年以降に発布された勅法を編纂した実務的法令集。438年に東ローマ帝国皇帝テオドシウス2(在位408~450)が公布した。特に同法典IX,17,7――テオドシウス大帝(在位379~395)386年の勅令――は、聖遺物の移転、売買を禁じている。

[2] ?~875 リヨン大司教となり(852)、予定救済説を唱えて断罪されたゴットシャルク(803~869)の処遇をめぐって、ランスの大司教ヒンクマールと争った。

[3] イベリア半島を占拠していたイスラム軍は、ピレネー山脈を越えてフランク王国に侵入、725年にリヨンを襲った。しかし、732年のトゥール・ポアティエ間の戦いなどの敗北によって、ピレネー山脈以南に撤退した。本文の「サラセン」は、イスラム教徒のヨーロッパ側の呼称。

[4] 参事会:聖堂に住む聖職者集団で、一定の規律のもとに共同生活を行い、聖堂内での聖務の執行、聖堂の世俗的業務などに従事した。彼らのいる教会を参事会教会という。

[5] 909~910年に、フランスのアキテーヌ公ギョーム1世によってブルゴーニュのクリュニー荘園内に建設された修道院で、歴代の優れた修道院長の指導のもとに、貧民救済と典礼の重視が人心を集め、空前の発展を遂げた。しかしその広大な大伽藍は、フランス革命期にほとんど売却解体された。

[6] フランス国王。在位1226~70年。モンゴルへのフランシスコ会士ルブルックの派遣、ソルボンヌ神学校の設立、異端征伐(アルビジョア十字軍)、第6回・第7回十字軍の指揮などで、1297年に聖人とされた。

[7] フランス国王。在位1419~67年。王権の伸長に努め、第3回十字軍に参加。

[8] フランス国王。在位1483~98年。フランスの中央集権化を達成したとされる。

[9] 前出のシャルル8世の后。

[10] フランス国王。在位1515~47年。ハプスブルク家と激しく対立しつつ、国内統一と王権の強化に努めた。

[11] フランス国王。在位1314~16年。美男王と呼ばれたフィリップ4(在位1285~1314)の息子。

[12] 180代教皇。在位1243~1254

[13] ( )は原文のまま。

[14] 1180~1240 カンタベリー大司教。スコラ神学の普及、宗規の引き締め、カトリック教会の自律の堅持などに腐心した。

[15] 195代教皇。在位1305~1314

[16] Ordre des Frères Prêchers ドミニコ会と通称される。

[17] Ordre des Frères Mineursフランシスコ会と通称される。

[18] 1509-64 スイスのジュネーヴで宗教改革を断行し、聖書を教義における最高の権威と認め、神の絶対的な主権を強調した。特に、人間の救済予定説に基づく彼の厳格な職業倫理観は、近代資本主義の精神の成立に大いに貢献したとされる。彼の教えに従うプロテスタントをカルヴァン派あるいはユグノーと言う。

[19] カルヴァン派の新教徒の通称。

[20] 17895月ルイ16(在位1774~1792)は、聖職者と貴族に対する課税などを議題にして三部会を招集した。しかし特権階級に圧倒的に有利な議決方法(一身分一票の身分別議決方法)に不満をもつ革命派(主に平民)は、三部会から離脱して独自の国民議会を結成(同年6)、同年7月のバスティーユ牢獄襲撃事以後、国政の実権を得て、ルイ16世に迫り、教会財産の没収を進めた。