第七章

帰天

 

こうして、ユストとヴィアトールがこの驚くべき戒律に従って生活しているうちに、数年が過ぎた。老人の傑出した品格を疑うものは誰もいなかった。皆が彼の徳を賞賛した。そしてヴィアトールは他の誰よりも、この老人と接触する機会に恵まれていた。

しかしながら神のみ摂理は、この司教とその弟子が死ぬ前に、彼らの善き模範を後世に残すことをお望みになり、彼らの匿名(incognito)の帳を取り払われた。以下では、聖ユストの生涯に即してその経緯を述べることにしよう。

修道生活の驚異をこの目で見てみたいという好奇心や願望に駆られて、あるいは、みずからも修道生活を営みたいという志を立てて、多くの旅行者と巡礼者が、エジプトの隠棲地に詰めかけた。ある日、修道士たちの全体集会の折りに、新しく加わった一人のケルト系ガリア人――彼も修道士であったと信じるに足る十分な理由がある。なぜなら古代の文書は、彼に「兄弟」という名前を与えていたからである――が、一群の修道士たちの中に、独居修道士の修道服に身をやつしたリヨンの司教を見つけた。この新来のガリア人は、聖なる高位聖職者が自分の心に呼び起こした深い敬意の念を抑えきれず、やにわに司教の前に跪き、彼の手に接吻した。

教会の中に大きな動揺が走った。参列者の全員が、この新来の同僚のそばに駆け寄り、このような敬礼のわけを知ろうとした。この新来のケルト系ガリア人は、ガリア地方の至るところで敬愛されている聖なる司教ユストを会衆の中に見つけたこと、そしてルグドゥヌム(Lugdunum)の人々は、彼の謎の出発を悲しんでいると告げた。

動揺は、驚きに変わった。皆がこの神の人の謙遜さに感心した。人々は、高位聖職者である司教の品格を見抜けず、それを尊ばなかったことを侘びた。長老たちは、この司教を一般の会衆の中に置いたこと、また、時として末席に着かせたことをしきりに侘びた。

そして、リヨンの人々がヴィアトールをその早熟の徳の故に賞賛したように、今度は、スケティスの修道士たちが、最も厳しい隠棲に至るまで司教に忠実に従ったヴィアトールをほめたたえた。

この日以来、この二人の聖人への敬意が高まって、彼らに修道院の母屋の使用を許すほどになったが、それでも彼らは、祈りと回心の生活をやめることはなかった。

         

この喜ばしい発見の知らせは、間もなく地中海を渡り、リヨンの町に届いた。住民たちは、自分たちの司牧者である敬愛すべき司教とその読師が遠くスケティスの砂漠に身を隠してい生きていることを、驚きと歓喜をもって知った。

この二人が姿を消して以来、リヨンの聖職者と住民は、彼らのあり得る境遇と隠棲の地の憶測に明け暮れていた。しかしこの知らせは、リヨンの人たちに大きな感銘を引き起こすとともに、この二人に今すぐ会いたいという願望と希望を生み出した。

その知らせを聞いたアンティオクス(Antiochus)という名のリヨンの司祭は、自分のかつての司教に対する感謝と愛情の念に駆られ――更に、この町の住民の委託を受けたとも思われる――、海を渡ってエジプトに赴き、ユストとヴィアトールに、信者の人々からの愛情と悲嘆と願望を伝え、できることなら彼ら二人を祖国に連れ戻そうと決心した。ある古代の文献が言明しているところによると、この司祭は、厳格な徳に秀でた人物であった。後に彼は、みずからの徳の故に、リヨンの首座大司教座に登り、聖ユストから数えて三番目の後継者となった。もちろん彼は、その偉大な司教ユストの弟子であり、心酔者である。

神は、アンティオクスのこうした企てをユストゥスに知らせるのをよしとされた。ユストゥスは、アンティオクスの旅行を予言し、その海上と陸上での旅程を逐一告げて、こう言った。「私たちの親愛なる息子が、今日、しかじかの場所にいる」と。更に彼は、アンティオクスの到着の日を前もって特定した。そしてこの出来事は、みごとに的中した。

アンティオクスは、聖なる司教ユストが自分の信者のもとに戻り、司牧者を失った教会を再び治める決心をしてくれるように、あらゆる手段を講じた。しかし彼の努力は無駄であった。ユストとヴィアトールは、砂漠で死ぬことを決意していたのである。砂漠は彼らにとって、いまや、天に昇る控え室のようなものだった。他方、アンティオクスは、彼らの言葉の崇高さと英知、完成の域に達した彼らの生活にすっかり驚かされ、また、彼らの神々しい美しさに夢中になって、そのまま彼らと一緒にその地に残ることにしてしまった。彼は、少なくとも二人の聖なる人物の死まで、そこに滞在したと思われる。

ユストとヴィアトールの死は、あまり長く人を待たせなかったにちがいない。実のところ、ユストとヴィアトールが砂漠でどれくらいの間生きていたかについては、それを教える確実な資料はない。我々が知っている古代の伝記は、「数年」と言っている。一般的に認められている伝承では、彼らの死は390年ということになっている。また、今日まで伝えられている古代の諸文献は、彼らの死の詳細を感動的に物語っている。

         

ここ数年来の過酷な修行と、そしておそらくは長年の勤労生活の苦労がたたってか、ユストは、その地上の遍歴の終わりに近づいていた。ヴィアトールは、彼に対して、息子のように献身的な心遣いを増していった。その点でヴィアトールは、体調の思わしくない兄弟に配慮するように修道士たちに命じる砂漠の規則にいささかも違反していなかったと言える。厳格な苦行といえども、慈善の余地は残していたのである。数々の修室の中心には、医薬院があった。そこでは、病人たちに食べ物が供され、医師たちがたびたび往来して、病人たちに無償で医療を施した。

臨終の時が近づくと、当然、人々は、体の世話を怠りなくするともに、更にそれ以上に霊魂を気遣い、霊魂が至高の裁判官()の畏怖すべき審判を受けることができるようにした。

しかし聖なる司教が砂漠に来たのは、まさに死の準備をするためであった。いつも彼は死のことを考え、自分の最愛の弟子に死のことについて語っていた。司教の存在全体は、創造主との決定的な一致を熱望していたのである。

この時代の諸種の年代記は、修道士たちが粗末な筵に横たわり、兄弟たちの祈りに支えられながら、亡くなる様子を我々に伝えている。我々は、尊ぶべき老人が、ヴィアトールの腕に抱かれながら、ゆっくりと末期を迎える姿を思い描くことができる。

臨終の徴候がやつれた顔に現れたとき、老人の預言的精神は、神的な輝きでその顔を再び照らした。老人は、息を引き取る前に、絶え絶えになった声で、司祭アンティオクスが、リヨンの司教になることを予言した。周知のように、このことは、後に実現した。

ヴィアトールの方はどうかというと、彼は、愛情のこもった看護にもかかわらず、みずからの魂の父として敬う師の命を長らえさせることができなかった無念さをかみ締めながら、師の最期に居合わせていた。ヴィアトールは、父親を失った孤児になろうとするまさにその時に、目に涙をいっぱいためながら、悲痛な叫び声を上げた。「父よ、なぜ私をお見捨てになるのですか! これから誰に私を託そうとするのですか」。――いまわの老人は、彼にこう答えた。「我が子よ、まるですべての慰めがあなたから奪われるかのように、心配する必要はない。あなたも、間もなく、私の行くところについて来るだろう」。老人は、主のもとに眠りに就いた。それは、1014日であった。

ヴィアトールは、取り返しのつかない喪失によって悲嘆に暮れたけれども、天での間近な再会の保証に励まされ、司教の亡骸に恭しく最後の務めを果した。彼はもう一度、司教の手と額と唇に口づけをした。司教の手は、これまで何度も彼を祝福し、聖体を与えた手であった。その額は、司教冠を取り去られていたが、知恵の霊が嬉々として安らっていた。そしてその唇は、彼に、掟を守り、福音的勧告に従うように教えた唇であった。次に彼は、兄弟たちの助けを借りて、この聖人の亡骸を埋葬した。彼はこの時、司教と天の高みで再会することしか考えていなかった。

故人の予言は、実現した。古代の聖者伝作者ペトルス・デ・ナーターリブス(Petrus de Natalibus)の証言を信じるとすれば、ヴィアトールは、その師が亡くなってから7日後に、すなわち3901021日に死んだ。この日は、教会の言葉を使えば、天における彼の誕生の日である。

ユストとヴィアトールの亡骸は、並んで埋葬されている。修道士たちは、信心と心と運命において、生涯にわたってこれほどまで緊密に結びついた二人を、決して別々に埋葬しようとは思わなかった。この二人の亡骸は大地の懐に隠されてしまったとはいえ、彼らの徳の証人たちが、彼らの記憶を忘れることはなかった。そして神も、彼らの業に応じてそれぞれに報い、彼らに栄光をお授けになるのである。