第六章

スケティスの戒律

 

助祭フロールス(Florus)は、その殉教録の中で、92日という日付で、次のように書いている。「ユストゥスは、自分に委ねられた教区民を何年間も指導した後、砂漠に退いた。それは、彼が主に愛着し、主の輝かしい僕マカリオスとパフニュコス(Paphnuce)[1]に師事するためであった」。我々はこの証言から、修道士マカリオスとパフニュコスが、ユストゥスの霊的指導者であることを知る。更に我々は、聖ユストに関して言われることはみな、聖ヴィアトールにも等しく当てはまることを知る。

ヴィアトールは、最良の時機に、しかも厳格さにおいて砂漠で最も卓越した学び舎に入る幸運を得た。当時、その隠修士の一団は、その創設者である聖マカリオスに指導されていて、栄光と聖性の絶頂にあった。

大マカリオスあるいはエジプトのマカリオス[2]――彼を、聖メラニアの命を救ったアレクサンドリアの小マカリオスと混同してはならない――は、「善良なキリスト者の生活を凌駕する修道生活の規則制定者、博士、師父であったが、その凌駕の程度は、善良なキリスト者が他の異教の宗規や道徳を凌駕するのに優るとも劣らなかった」。キリスト者と異教徒は、この隠修士を賛美し、彼が隠棲地において実践していた英雄的な諸徳を褒めそやした。彼の厳格さは極端であった。人々は、「彼ほど人間の自己犠牲を、滅私の剣の下に徹底的に推し進めた人は他にいない」と言うことができた。このような模範を残す彼には、当然、多くの弟子たちを指導する権能があった。ある日、こんなことがあった。エヴァグリオスと呼ばれる彼の弟子の一人が、とても喉が渇いたので、食事の前に少量の水を飲む許可をマカリオスに求めた。しかしマカリオスは、笑みを浮かべながら彼にこう答えた。「我が子よ、日陰にいることで満足しなさい」と。

他方、大修道院長パフニュコスは、カッシアヌス[3]の表現によれば、「その知識の輝きのゆえに、太陽のように輝いていた」。しかし当のカッシアヌスが「キリスト教的完徳を目指してもっと迅速に進歩できるという希望を抱いて、マカリオスの許を訪れたとき、パフニュコスは、既に別の修道院に移って苦行していた」とされている。大修道院長イシドーロスの死後、パフニュコスは、スケティスの中心教会の奉仕に献身していたが、聖堂から8キロほど離れたところにあった修室を決して捨てることはなかったそうである。

         

かくしてヴィアトールは、マカリオスとパフニュコスという二人の聖人を指導者として、隠修生活を修得することになった。ヴィアトールは、彼が従ってきた高名な同伴者ユストと同じように、修練士としてすべての訓練に服さねばならなかった。先ず、この徳の偉大な学び舎の修道組織を知り、その管理の仕組みを理解することが求められた。

砂漠のすべての修道者は、我々が評議会(Conseil)、修道院会議(Chapitre)あるいは長老者会議(Assemblée des Anciens)と呼んでもいいような一種の修道者元老院(sénat monacal)に依存していた。この元老院は、隠棲者たちをそれぞれの地位において完徳へ導く戒律の厳格な遵守を図り、生活に必要な物品や精神衛生に配慮することを職務としていた。

一名の司祭が、大抵は教会で開かれることになっている集会を司会した。そこでは、聖職候補者の選出、慣習法には定められていない断食日の決定、発覚した過失の処罰などの全修道者に共通の霊的利害や事件が審議された。しかし発言権は、年長者たちだけにあった。

修道者たちは、共住修道生活ないしは共同体生活と、隠修生活すなわち修室での単独生活[4]のいずれかを選ぶことができた。当時は、後者の生活が高くもてはやされていた。実際のところ、隠修生活は危険が多く、多大のエネルギーを必要とするが、それにもかかわらずそれは、聖化の効果的な手段であった。

グイユ神父によると、ユストは、通りすがりの人に知られないようにするために、中心教会から離れた粗末な修室を住まいとして選んだ。そしてグイユ神父は、「ヴィアトールは彼の秘密を握っていた」と付け加える。

しかしユストゥスは、ヴィアトールに堅く口止めし、自分から素性を見破られるようなまねを決してしなかった。そしてヴィアトールは、すべてにおいて、自分の師の境遇と立場を我が物とした。ヴィアトールは、師と同じように無名でなければならなかった。リヨンの教会のこの聖なる読師が、ユストゥスを見習って隠棲生活を選び、その師である直属の司教の修室の近くに、自分の修室を得たことは、間違いないだろう。

修室に生活する人たちは、共住修道院に生活する修道士たちの場合と同様に、新来者の養成を担当する経験豊かな長老の指導を受けた。

ヴィアトールは、これからのすべての活動を律する教えとともに、砂漠の習慣の手ほどきを受けた。何よりも彼は、自分の意思の放棄と長上たちの命令への完全な従順を学んだ。完全で無条件の従順が、志願者の第一の義務とされた。そこでの戒律は、修練士たちを幾重にも鍛え上げた。

         

修練期が終了すると、ヴィアトールは、修道家族の一員として入会が認められた。何よりも着衣式が、この儀式の本質的な要素であった。修練士は、長老の手から各自の地位に合った修道服を受ける。そしてこの儀式の仕上げは、頭髪の頂部を剃り落とす剃髪であった。

カッシアヌスは、その共住修道士の掟の中で、修道士の服装について述べている。この服装は聖書の記事に多くを負っている。修道士は、貫頭衣を着て、帯でそのしわを腰に寄せた。エジプトでは、貫頭衣は、通常、白い布でできており、丈は短く、その袖は肘を出ることはなかった。更にその上に、一種のスカプラリオ[5]を着た。これは、肩から前後に垂れ下がり、腕が仕事をし易いようにできていた。隠棲者はまた、太陽の熱から頭と首を守るために、頭巾つきのマントを着用した。隠棲者は、寒い季節には、フランス語でマフォルト(maforte)[6]と呼ばれる首と両肩を覆う小さなマント(pèlerine)を、コート(manteau)の代用として着た。また、しばしば毛をそのまま残した羊皮(mélote)が、上半身を守っていたが、旅にそれを使うことはほとんどなかった。また歩行の際には、通常、杖が使われた。

大部分の修道士は、素足で歩く。しかし荒い地面と気温の急激な変化のために、彼らはしばしば、サンダルを紐で足に結わえて履かなければならなかった。

隠修士は、岩の洞窟か、一日で設らえられる粗末な小屋を住居としていた。そして新しい兄弟に自発的に譲り渡した。すべての財は、主の所有物と見なされ、したがって聖なるものと考えられた。一名の会計係が、全般的な管理を担当した。もちろん、単独で生活する隠修士たちは、許可を得た上で、各自の労働の実りを保持することができた。彼らは、個人的に生計を立てねばならなかったからである。しかし宗規は、何よりも清貧の精神を維持することに気を配った。

食事は、手の込んだものではなかった。そのため、独居修道士は、食事に大して時間をかけなかった。水しか摂らない数週間の特別の断食は別にして、テバイス[7]の規則よりも厳しかったスケティスの規則では、毎日食事を摂ることが許されていが、しかしそれは一日に一度だけで、とても空腹を満たすものではなかった。食事の時間は、土曜日と日曜日と祭日は正午、平日は当時の第九時(今日の午後三時)であった。また断食日には、夕暮れ時にだけ食事が許された。

幾つかの盛儀の時を除いて、献立には、火の通った食べ物は含まれなかった。みじん切りにしたネギの葉や、一種の野生のキャベツ、オリーブの実、湿気を払った塩(du sel frit)、塩漬けにした小魚でも、相当なごちそうであった[8]。苦行者たちの多くは、パンと水で満足した。また彼らは、水以外の飲み物を飲むことができず、それも適度に飲まなければならなかった。スケティスの水は乏しく、また既に述べたように、「塩分を含み、臭いがした」。油の使用はほとんど知られていない。信心深い人たちがぶどう酒を持ってくると、それは、客人と病者に供されることが許された。しかしそれは、大祭の折りに、修道士たちに供されることもあった。

隠修士たちは、睡眠に、夜の3時間か4時間しか当てなかった。彼らは、各自の修室の壁面に背をもたせ掛けることに満足できなければ、地肌の上に直接か、あるいはその上に蓙を敷いて寝た。

         

彼らは、労働と祈りで日中を過ごした。決して無為に過ごしてはならなかった。ある者たちは手仕事に従事し、籠、帯、篩、漁網、綱、特に沼沢の藺草や棕櫚の葉や繊維で編んだ蓙を製造した。彼らは、棕櫚の葉や繊維をたくさん貯蔵していて、使用する前にそれらを水に浸した。

会計係は、大抵の場合、これらの品物をエジプトで販売する任務を負っていた。しかし時折、隠棲者の各々が、各自の品物を背負って市場に運んだ。荷が重過ぎるときは、駱駝を使うことができた。

幾らかの教養がある修道士たちは、聖書の筆写に従事した。ヴィアトールは、リヨンで読師をしていたとき、この高貴な筆写の務めの訓練を受けていたため、その技能を砂漠で役立てずにはおかなかっただろう。この仕事は、幾人もの人たちの生活を支えた。またそれは、機会あるごとに、貧しい教会の必要を満たした。他方、写字生は、この仕事から霊的な糧を得ることができた。聖ヒエロニムス[9]が修道士スルティクス(Rusticus)に宛てた助言によると、「この仕事によって体はその糧を得るとともに、魂もこの仕事によって満ち足りる」のである。

労働の規則はすべての隠棲者を拘束するが、それは、時間の一律な使用を課すものではなかった。手仕事と並んで、祈り、勉学、断食、その他一切の個人的な信心業も仕事の内であった。かなり大きな自由が各修道士に残されていた。

それぞれの仕事には、常に祈りが伴っていた。修道士たちは、詩編ないしは聖書のその他の数節をそらで歌いあるいは朗唱した。また彼らは、朗読を聞くこともあった。当然、リヨンの学校で詩編のすべてを暗記していたヴィアトールは、この信心業に励むのにさしたる困難を感じなかったであろう。

すべての修道士たちは、あるいは、少なくとも文字を読むことのできる修道士たちは、定時課[10]を歌唱しなければならなかった。テバイスの隠棲者たちは、聖務を初めて朗唱した人たちであることが知られている。この聖務が、今日の教会がその聖職者たちに義務づけている聖務日課の起こりとなった。

一日の典礼は、徹夜課あるいは朝課から始まった。これに参加することが義務づけられたすべての者たちを招くために、幾人かの夜勤係が、交代で、星の動きを観測した。それは祈りの時が、星の動きに基づいて調整されていたからである。祈りの時間が来ると、夜勤係たちは、角笛を吹いて、あるいは修室の扉をたたいて、兄弟たちを起こした。共住修道士たちは教会に集まった。隠修士たちは、大抵の場合、何人かずつ集まった。こうして隠棲者たちは、星の光に照らされながら、神への賛歌を歌い上げた。

普段は、一人の独唱者が詩編を唱える。彼が終わりまでくると、司式者の動きに注意深く従っていたその仲間たちは、立ち上がって沈黙の内に祈り、そして、崇拝のためにひれ伏した。次に彼らは、集会祈願のために再び立ち上がった。この時、彼らは、祭壇で歌う司祭と同じように手を広げた。

毎週、土曜日と日曜日、そして祭日に、中央の教会で、独居修道士たちの集会が開かれた。この時、修道士たちは、自分たちの節食を緩和し、すべての手仕事をやめて、信心業に専念した。

このような日には、すべての者が教会で、夜課を最も荘厳に称えた。そして朝になると、聖なるミサが奉げられた。参列者たちは素足でこのミサ聖祭に与った。

このときヴィアトールは、読師の務めを再び引き受け、以前と同じように神への奉仕に参与した。これは彼にとって、ルグドゥヌム(Lugdunum)と、彼が何度もキリスト者の会衆の面前で福音を読み上げた神の家(domus Dei)とを彷彿と思い起こさせる甘美な時であったにちがいない。彼は、リヨンの教会の信者を忘れることができず、彼らのために熱い祈りをいやましにも天に昇らせていたことだろう。

 



[1] 280~335 アントニオスの弟子で、司教。ニカイア公会議に出席して、アタナシオスの同一実体説を支持した。

[2] 300~390頃 カイロ北西のヴァーディー・ナトルーン(既出)で修道生活を送り、その知力や徳、著述、説教で人々の尊敬を集めた。

[3] 360~435 小スキュティア(現ルーマニア)出身の修道者。最初ベツレヘムで修道生活を始め、後にエジプトで本格的な修道生活を行った。415年頃マルセイユの近くに男子と女子の二つの修道院を創設した。共住修道士の掟および八大悪徳の救済および師父たちの教えによって、修道生活の組織と方法を述べ、東方の修道生活を西方に紹介した。ベネディクトの修道会則をはじめ西方の修道院規則に与えた影響は大きい。

[4] la vie cénobitique ou de communauté, et la vie érémitique, c’est-à-dire isolée dans une cellule

[5] 修道士が服の上に着る無袖肩衣。

[6] 裾が肩まで垂れた一種の婦人用頭巾(capeline)である。

[7] 既出。南部エジプトにある同時代の有名な隠棲地。

[8] これらは、通常、病者や賓客に供されたことが知られている。このことについては、次の研究書を参照せよ。Lucian Regnaut (moine de Solesmes), La vie quotidienne des pères du désert en Egypte au IVe siècle, Hachette, 1990, p.87.

[9] 347~419/20 アキレイア出身。ベツレヘムで修道生活をするかたわら東方の文献の翻訳活動を行った。特に、カトリック教会唯一の公認ラテン語訳聖書(ヴルガタ訳)の訳者、オリゲネスの著作のラテン語訳の訳者として知られる。

[10] カトリック信者が定められた時刻に唱える祈りで、聖務日課とも呼ばれる。これは一般に、八定時課、すなわち、朝課(午前三時)、賛課(朝課に続く)、一時課(午前六時)、三時課(午前九時)、六時課(正午)、九時課(午後三時)、晩課(午後六時)、終課(午後九時)に分けられていた。なお聖務日課は、現在の日本のカトリック教会では、「教会の祈り」と呼ばれる。