第五章

砂漠からの呼び声

 

381年の秋、イリリア[1]のアキレイアで有名な教会会議が開催された。それは、ニカイア公会議[2]に従わない司教たちを裁くものであった。ケルト族[3]は、その首都大司教ユストゥスをその教会会議に派遣した。そして彼は、他のすべての司教たちとともにアリウス派に対する破門宣告を行い、異端者たちを追放した。

ユストゥスが教会会議から戻った後、ある悲劇的な事件が起こった。それは、ユストゥスの人生の方向を変えるとともに、ヴィアトール自身をも新たな境運に巻き込まずにはおかなかった。

激しい狂気に襲われたリヨンのある住人が、手に剣を持って街頭に躍り出てきた。彼は、幾人もの通行人を傷つけ、殺害した。しかし憤激した群集が、大挙してこの哀れな男を追跡した。彼はうまく逃げおおせ、危険を前に幾らかの幸運が訪れたのか、教会に逃げ込むことができた。

ところで当時のカトリック教会は、庇護権を持っていた。教会に避難してきた者は、一切の拘束を免れることができたのである。

聖なる場所への敬意から、人々は一旦、足を止めた。しかし激昂は嫌が上にも増し、人々は聖堂に火を点けると脅した。幾人かの信徒から知らせを受けた司教ユストゥスは、聖所の特権を護るために現場に駆けつけ、襲撃者たちの心を落ち着かせようと努めた。群集をなだめて聖所の特権が犯されないようにするために、彼は、町の上役の一人に、この哀れな狂人に危害が加られないように要請し約束させた。こうして彼は、この狂人を監獄に護送するために引き渡した。しかし自分の悪しき本能にしか聞く耳を持たなかった人々は、この哀れな男を捕らえて、街頭に引きずり出し、無慈悲にも殺してしまったのである。

この殺人の責任は、詰めかけた住民と、そしておそらくは、自分の約束を護るために必要な措置を取ることのできなかった町の上役だけにあったと言える。そして司教は、この犯罪に対してまったく潔白であったはずである。ところが司教は、この不幸な出来事を自分の責任であると考え、以後、自分は司教職に不適任であると思うようになった。司教は、贖罪をするためにどこか遠い所に退き、隠棲しようと決心した。

         

しかし実際には、もっと別の深い理由が、司教の心をゆさぶっていたのかもしれない。既に見たように、ユストゥスは、祈りと滅私(mortification)の人であった。おそらくこの事件が突発するはるか以前から、砂漠が彼を引きつけていたのであろう。彼が司教職を引き受けたのも、ひとえに霊魂の救済の望みに促されてのことであったにちがいない。75歳に達した彼は、残された最後の数年を自分のために取っておき、我が身や神のことを沈思しつつ修道院で死の準備をする何がしかの権利があると判断したのではなかろうか。

ローマの殉教録は、彼が、「自分のかけがえのない読師に、この計画を打ち明けた」と我々に言明している。しかし彼は、ただ一人で、闇夜に紛れてこっそりと町を出た。彼は、誰に知られるともなくマルセイユに行き、そこからエジプト行きの船に乗船するつもりだったのである。

なぜヴィアトールは、即座に彼に同伴しなかったのか。司教はこの計画を読師に知らせたが、決行の正確な日時を教えなかったのかもしれない。更にユストは、最も有望で、いつの日か自分の後継者になり得ると考えていたこの若いレビ人を、自分の教会から取り上げるつもりは毛頭なかったのだろう。

しかしヴィアトールは、既にその師からあまりにも大きな影響を受けていて、もはや彼の指導なしに聖なる生活を考えることはできなかった。彼は、師を敬服するだけでは飽き足らず、彼を見習い、彼について行くことに決めた。直ちに彼は出発し、マルセイユで師に追いつき、彼に従って放浪し、彼とともに砂漠で生きようと企てた。

彼よりも一日ないし二日前に出発した司教に追いつくことを考えると、彼の足はおのずから速まらざるを得なかった。疑いもなく司教は、自分を探す人々をかわすために、少なくともアルルまで、ただ一人で、徒歩で旅をしたにちがいない。当時アルルは、河川交通と海上交通の接点となっていた。これに対して、ヴィアトールはまだ若く、その名前はあまり知られていなかったので、司教と同じ懸念を抱くには及ばなかった。彼は、だれかれに遠慮することなくまっしぐらに道を進み、当時あった交通手段を使うことができただろう。おそらく彼は、河川交通を利用したにちがいない。

ともあれ彼は、遠くはなれた寂寥の荒野に向かうために、これから離れようとする美しい母国を、道中、称賛せずにはいられなかったろう。聖人たちは、恩寵の翼に身を委ねさえすればよいのだとよく言われる。しかしそれは間違いである。彼らは、我々と同じ人間であり、同じ好み、同じ望みを持っている。違いは、彼らが、勇気と犠牲によってみずからを制することができたことである。既に挙げた年代記に従うと、360年に生まれたヴィアトールは、この時、21歳になっていた。それは、輝かしい夢と希望に満ちた年齢である。彼の思いは、享楽的な生活のできる「豪奢なヴィエンヌ(Vienne la superbe)」の宮殿、美しいテラス、庭園に、どれほど魅了されたことか!

ヴィアトールは、川岸に段をなす丘陵、富裕なケルト系ガリア人やローマ人たちが田園に建てた広大で豪華な別荘におそらく見とれただろう。田園には、色とりどりの花が咲き広がり、泉水が点在し、共同浴場、優美な柱とギリシア風の彫像で飾られた大理石の柱廊が散見された。

彼はまた、この肥沃な谷の多様な耕地に目を見張ったにちがいない。そこには、多くの果実がたわわに実り、各種の草木と野菜が繁茂していた。「変わることのない瑞々しさをたたえたプラタナス、それは午睡と夏の散歩の喜び。釣り、それは美食家の喜び。桜桃、それは家族の喜び。オリーブの木、それは南仏の喜び。ぶどうの木、それは全フランスの喜び」。

しかしこれらの印象がどれほど強く迫っても、ヴィアトールの決意は揺らがなかった。彼は、川岸で、自分の恩人である司教に追いついた。司教は、この時、当時のガリアにおける地中海側の主要港であったナルボンヌの港からやって来た船の一つに乗船する準備をしていた。この船は、途中、マルセイユに寄港して、それから東方に向かう予定であった。

古い文献が我々に教えるところでは、この時、司教は、彼を見て驚き、リヨンに帰そうと望んだ。しかしヴィアトールは、彼に懇願し、彼の膝にすがりつき、遂に彼から同伴の許可を得た。

         

これ以後、この二人の聖人の生涯は、一つに溶け合った。これまで以上に彼らは、心において、そして神への奉仕の同じ理想において、一つに結ばれることになるのである。

二人はともに、より完全な生活の願望を抱きながら、アレクサンドリア行きの船に乗った。彼らの所持品は、必要最小限の旅費とご聖体であった。当時、長旅をする信者には、ご聖体の携行が許されていた。

しかし彼らは、なぜこれほど遠くまで行こうと思い立ったのか。なぜ彼らは、無名(incognito)を望んで、ガリアのどこかほかの修道院に入ろうとしなかったのか。ガリアには、たとえば聖マルティヌス[4]が、リギュジェ(Ligugé)とマルムーティエ(Marmoutier)とに建てた修道院があった。あるいは彼らは、イスパニアに行くことはできなかったのか。イスパニアは、380年にサラゴサで開かれた教会会議の決議文が修道士の存在を証明しているように、神秘主義の土地であった。イタリアには、聖アタナシオス[5]から修道生活の手ほどきを受けた著名な修道院が幾つかあった。アペニン山脈の森には隠修士(moines)がおり、アキレイアには共住修道士(cénobites)がいた。

しかし、より高い聖性を熱望し、しかも、わずかな名声も避けて、まったく無名の内に生活することを望んでいたユストとヴィアトールは、完徳のもっとも素晴らしい学び舎を擁する国に向かうことにした。それは、修道制の揺籃の地、新しい聖地、すなわち、エジプトである。

実際、エジプトの隠修生活は、当地に住んでいた「修道生活の巨人たち」のあまねき名声によって既に知れ渡っていた。ヨーロッパ全体が、彼らの徳と、彼らの生活の驚嘆すべき特質を話題にしていた。最初にアレクサンドリアの司教聖アタナシオスが、西方に追放された際に[6]、委細な語りによって、あるいは、聖アントニオスの生涯(Vie de Saint Antoine)[7]という伝記によって、エジプトの隠修生活を西方に知らせた。356年に公刊されたこの作品は、二種のラテン語訳によってローマ世界にたちどころに広まり、非常に大きな関心と感化をもたらした[8]

ポンティキアヌス(Potitien)がアウグスティヌスに語った話、すなわち、結婚を間近に控えたトリエル(Trèves)[9]の宮廷の二人の官吏が、それぞれ、この聖アントニオスの生涯』を読んで直ちに回心し、隠者の生活に入ったという話は、よく知られていた。ちなみに、「アウグスティヌスが、砂漠で成し遂げられたこの聖性の奇跡を知って驚いたのもさることながら、修辞学教師アウグスティヌスがこのことを知らなかったのを知ったポティティウスの驚きもまたひとしおだった」と言われている。

エジプトでは、修道生活の三つ主要な中心地が、キリスト教世界の称賛を分け合っていた。テバイスの少し下流のタベンネシ(Thabenne)には、聖パコミオス[10]の弟子たちが生活していた。また、アレクサンドリアからわずか60キロしか離れていないところに位置した一種の修道生活者の町ニトリア(Nitrie)[11]とその周辺にある山や、修室(des Cellules)と呼ばれた荒れ野には、小マカリオスないしはアレクサンドリアのマカリオス(Macaire)[12]に指導された大勢の修道士が溢れていた。最後に、アレクサンドリアから120キロほど離れた下エジプトの西部デルタ地帯にあったスケティス(Scété)は、「砂漠の奇跡、徹底的な滅私(mortification)の学び舎」と呼ばれていた。これらの地は、訪れる人がともすれば方向を見失うほどの広大無辺な隠棲地であった。

聖ヴィアトールと同時代の聖人であるメラニア(Mélanie)は、この砂漠に行く途中、危うく死にかけたと言われる。伝記作者が我々に語るところによると、彼女は、移動性の小さな湖の一つを渡っているとき、葦の茂みに隠れて眠っていた怪物のような大ワニを目覚めさせてしまった。そしてこれらの大ワニは、口を大きく開けて彼女に勢いよく迫ってきた。彼女についてきたエジプト人たちの献身的行為と、有名な独居修道士であるマカリオスの思いがけない助けがなければ、彼女は、命を落としていただろう。マカリオスは、ちょうど近くの岩の上を渡っていて、彼女をうまく助けることができたのである。

         

ユストとヴィアトールは、スケティスの砂漠を選んだ。スケティスの砂漠では、より高度な完徳が実践され、より厳しい窮乏生活が営まれていたのである。他方、海岸から遠く隔たっていたため、近づくことがそう容易でなかったことが、スケティスを人跡まれな地とし、格好の隠棲の地としていた。彼らは、自分たちのこれからの住居に歩みを進めていった。彼らは、おそらくナイル川を溯り、ニトリアを横切って、スケティスにある有名な隠棲地に向かったにちがいない。

この砂漠は、ほとんどエデンの園と見なされていたニトリアの隠棲地と比較して、実際はどのようなものであったのか。聖ユストと聖ニジエ(Saint Just et Saint Nizier)の著者であるイエズス会士グィユ神父は、これについて、古代の著作家たちに依拠しつつ、次のようにその情景を描き出している。「スケティスは、道らしい道のない広大な隠棲地であった。旅人は、星の導きだけが頼りで、道を踏み惑いかねなかった。それは、実りのない不毛の大地で、呪いに打ちのめされていた。すべては、人間を苦しめるためにあるようなものだった。太陽は頭上に燃え盛り、灼熱の砂が足下でうごめき、水は乏しく塩分を含み悪臭がした。目を悦ばせるものは、何もなかった。わずかに水生植物とヤシの茂みだけが、大きな沼沢地の ( へり ) に生えていた。その上、利点の乏しいこの大地は、高額の代価を要求した。沼沢地から、人を激しく刺す羽虫の大軍が立ち上ったのである。このような身の毛もよだつ隠棲地が、幾千ものキリスト者に改悛の情を呼び起こし、イエス・キリストへの愛の故に死の先取りを願うようにさせたのであった」。修道院の門に一人の司祭が立ち、旅人たちに荒々しく声を掛けた。「待て! ここに入っても、外には出られない」。

まさにユストとヴィアトールは、改悛に専念することを願うしがないキリスト者として、この門をたたいたのである。彼らは、特別扱いされることを望まず、自分の名前と肩書を名乗らないように心がけた。彼らは先ず、修道規則に定められたあらゆる試みを受けた。

彼らは、一週間、門のところに留まり続け、長上が自分たちを受け入れてくれるのを待った。彼らの許に修道士たちが派遣されたが、修道士たちは彼らを勇気づけるどころか、逆に戒律の厳しさを強調した。しかし二人の志願者は、入所を嘆願し続けた。遂に大修道院長は、彼らの願いを聞き入れ、彼らのために修道院の門を開けた。二人はともにその門をくぐったが、終生そこから出るつもりはなかった。

 



[1] Illyrie (Autriche)バルカン半島西北部、アドリア海北岸にある。

[2] 325年に、コンスタンティヌス帝が小アジアのニカイアで召集したキリスト教会最初の公会議で、アリウス派の追放などが議決された。

[3] インド・ヨーロッパ語族で、ローマ帝国の支配下に入るまで、ガリア全土(現在のフランスを中心とする地域)、イベリア半島、ブリテン島、アイルランド、さらには北部イタリア、小アジアで独自の文化を開花させていた。ここでは、ガリア地方に居住していたケルト族の末裔の意味で「ケルト族」という語が使われている。既出のローマ系ガリア人と同義。

[4] 315~397 トゥールの司教。パンノニア(現在のハンガリー)出身のローマの軍人であったが、後に回心して修道生活に入り、ポアティエの司教ヒラリウスのもとで聖職者になった。360年頃、ポアティエ近郊のリギュジェにガリア最初の修道院を設立したと言われる。また司教に叙階された同じ年に(372)、マルムーティエに修道院を設立して聖職者の養成を行い、キリスト教の布教活動を盛んに行った。フランク王国の守護聖人。

[5] 296~373 アレクサンドリアの司教。325年のニカイア公会議で、アリウス派に反対して、父なる神と子なる神(キリスト)との同一実体説を擁護し、「正統信仰の父」と呼ばれる。

[6] アタナシオスは、アリウス派に強硬に反対したため、司教在任中に、時の皇帝によってアレクサンドリアを5回追放された。その内の最初の2回の追放先(滞在先)は、トリエル(335~337)とローマ(339~346)である。

[7] アタナシオスの作。アントニオス(251~356)は、エジプトのテバイスで独修の修道生活を開始した修道士で、「(隠修)修道生活の父」と呼ばれている。彼は、アタナシオスと親交があった。

[8] たとえばアウグスティヌスは、その回心の直前に、知人のポンティキアヌスからアントニオスの生涯を語り聞かされている。告白』VIII,6を参照せよ。次の段落の逸話と引用も、この告白』VIII,6による。

[9] フランス国境に近いドイツの町。ローマ帝国の4大分国の首都の一つ。

[10] 290~346 エジプトのテバイスで共住修道生活を創始した。独修生活の物質的精神的不安定さを避けるのが目的。彼の定めた修道規則のラテン語訳が現存し、ヌルシアのベネディクトに大きな影響を与えた。

[11] ナイル・デルタ(カイロ)の北西にある砂漠地帯。ヴァーディー・ナトルーン(Wadi Natrun)とも言われる。

[12] 300~390頃 アントニオスの弟子で、隠修生活(独修修道生活)をナイルのデルタ地帯に広めた。