第四章

読師の役務

 

我々は、ヴィアトールの私的生活と呼び得るものを一瞥した。ここでは、彼の典礼上の役務について考えてみよう。

読師は、その肩書が示すように、聖書の管理を職務としていた。これは、平時から、重要な尊ぶべき責任ある職務であった。キリスト教を迫害する行政官たちが司教や助祭に対して聖書の提出を求めたとき、司教や助祭は、こう答えたそうである。「それらは、読師が保管している」と。

殉教者行伝(Actes des Matryrs)によれば、迫害者たちは、聖書を引き渡させるために、しばしば読師たちを探し求めたことが知られている。悲しいことに、臆病な転び信徒(tra- diteur)[1]がいた。しかし裏切りよりも死を選んだ英雄の、何と多かったことか!

読師職に固有な職務として、更にパンや初物の祝福をあげておこう。読師は、この祭儀を果すために、祝福集(Béné- dictionaire)を使用した。

しかし読師に固有の典礼上の役務をもっとよく知るには、当時の教会の聖務がどのようなものであったのかを思い起こす必要がある。

教会の聖務は大きく二つに分けられていた。一つは、その典礼の正規の部分で、ミサ聖祭(cérémonies eucharistiques)という名で知られている。ミサ聖祭は、み言葉の典礼と感謝の典礼を含んでいた[2]。もう一つは、自由祭儀ないしは「非典礼的祭儀[3]」として守られたもので、もっぱら、祈り、詩編の読誦、聖書の朗読、教義の研究にあてられていた。

自由祭儀の要は、徹夜課(Vigile)であった。これがそう呼ばれるようになったのは、それが深夜の零時から三時にかけて[4]行われたからである。徹夜課は、聖務の一部をなしていたが、今日では手直しされて朝課(Matines)になっている。この定時課の最中、読師は、会衆の面前で朗読台[5]に登り、聖書の抜粋の幾つかを読み上げた。この朗読は、詩編の読誦と相前後して交互に行われた。当時、文字を読める人はほとんどおらず、また部厚い聖書を所持している人もいなかったので、詩編の朗唱を会衆全体で行なうことはほとんどできなかった。通常、読師は、単調な調べに乗せて、ある時は単純に、またある時は巧みに、詩編を朗誦した。しかし詩編はいつも、一種の折り返し句の合唱[6]ないしは敬虔な讃美[7]で終わった。Gloria Patri[8]という栄唱は、この種の典型的な例である。

ヴィアトールは、信者に聖書を読み聴かせたが、彼自身も、ダビデがみずからの勝利を祝い、みずからの過失に涙するのを詩編の中に聞き取ったにちがいない。ヨブ記では、神だけが慰めを与えることのできる人間の苦しみの昂揚を読み取ったにちがいない。また宗教的霊魂の力強い解釈者である預言者と太祖たちの言葉を聴いたことであろう。なぜなら教会は、民全体の祈りを代弁する任務を帯びた聖職者たちの口を通して、これらの預言者と太祖から借用した不滅の言葉を語らせたからである。新約聖書の中で、彼は、贖い主の言葉と行いを学んだ。使徒の書簡では、教会の最初の教えを身に着けた。いったい彼は、聖書よりもすぐれた霊性の学校をどこに見出すことができただろうか。また彼は、他者を聖化するとともに、みずからを聖化せずにはおかなかった。

最初、徹夜課は、土曜から日曜にかけての夜中にしか行われなかった。しかしやがて、ミサのように、使徒や殉教者の祝日、断食の斎日すなわち毎週の水曜日と金曜日にも祝われるようになった。

一般に、キリスト者の数が増すにつれて、熱心さは冷めていった。しかしながら4世紀には、苦行者や証聖者、童貞女からなる信徒集団が形成された。彼らは、世俗を離れることなく、一種の公的誓願を立てて、貞潔な生活を保ち、週日に断食を行ない、共同の祈りをすることに専念した。祈りは、三時、六時、九時(朝の九時、正午、夕方の三時)[9]に行われた。

通常、これらの祈りはすべて、自宅で私的に行われるものであったが、やがて教会に取り入れられ、町に散らばって暮らす敬虔な信者たちによって共同で唱えられるようになった。聖職者たちは、この建徳的な信心を促進するために、祈りの指導をするようになった。こうして「典礼外の祈りの」集会[10]が組織された。これらの集会は、一度、聖堂に取り入れられると、もはや聖堂から外に出ることはなかった。町なかで生活していた単独の苦行者や童貞女たちは町から姿を消し、聖堂のある修道院にこもった。やがて祈りの慣行に転機が訪れた。一般信徒たちは、もはやこれらの日課に参加しなくなったが、他方で、これらの日課が継続的に行われることをとても望ましいと思うようになった。こうして聖職者たちが、参事会教会と司教座聖堂で正規の聖務日課を唱える習慣が生まれた。

         

厳密な意味での典礼集会[11]は、当然、荘厳なものであった。司教はそこでミサ聖祭の感謝の典礼(Synaxe)を挙行した。ここでも読師は、重要な役割を果した。我々はこの役割について説明しなければならない。

誰もが知っているように、ミサの原初形態は、近年になってより簡略化された通常ミサのようなものではなく、荘厳ミサであった。それは、人々の参列のもとに助祭と下級聖職者とともに行われた。そして参列した人々は、最初は歓呼によって、後には歌唱によってそのミサ聖祭に参加した。

儀式は、前ミサないしはいわゆる洗礼志願者のミサというものから始まった[12]。この前ミサは、大祭日の前夜に行われる徹夜祭(Vigile)にとてもよく似ていた。司教の随員は、祭具室から内陣まで行列を作って行進した。人々は、その行進の間、入場の詩編汝ら入り給えを歌った。これは今日では短縮化された形で入祭唱(Introït)[13]として残っている。

司教は、「平和が皆さんとともに」という言葉で会衆に挨拶をした。この挨拶の言葉は、太祖の時代から使われたもので、キリスト者は、路上にあっても、この宗教的な願いの言葉で互いに声を掛け合ったのである。この挨拶の直後に、あるいは様々な人や様々な必要のための連祷の後で、読師は三つの朗読箇所を読んだ。最初は、律法書ないしは預言書。次に、使徒の書簡ないしは使徒行録。最後に福音書であった。

我々が今日、昇階唱(graduel)と呼んでいるものはみな、元来、朗読台の上ないしは階段(gradus)の上から歌われる答唱詩編であった。この階段が昇階唱の名の起こりである。他の聖歌は、聖歌隊によって平床で(in plano)歌われた。

必ずしもすべての定時課(heures canoniales)[14]で説教が行われたわけではないが、説教のない荘厳ミサはなかった。司教ユストゥスが司教座聖堂で、福音の朗読後に教話をするときには、会衆のまん中に設えられた司教座に座った。ヴィアトールは、会衆からよく見えるように、司教の前にある朗読台に上り、聖書の一節を読んだ。次に司教は立ち上がり、あるいはしばしば座ったまま、神のみ言葉を説明した。司教は、神のみ言葉を注釈しながら、信ずべき真理を提示し、あるいはキリスト者の日常の振る舞いを導く実践的な指針を与えた。教話は親しみがあって衒いのないもので、どれほど神聖で宗教的な意味に満ちていたことか! 聴衆は好奇と共感に身を震わせながら司教の教話を聞き、情感をあらわにした。時には、質問をし、あるいは異議を唱えるために、説教者の言葉をさえぎることもあった。

説教の後、未信者ならびに様々な段階の洗礼志願者は、退出を求められた。そして聖なる秘儀がキリスト者の会衆の前で行われた。

高位聖職者と同じく、読師たちも、祭壇の傍らでご聖体を拝領した。彼らは、司式者の手に接吻した後、左手の上に右手を置いてキリストのおん体を受けた。これは、聖別されたパンの切れ端の時もあれば、上方に十字架の切り込みのある小さな丸いパンの時もあった。彼らは、うやうやしく聖体を拝領し、助祭によって差し出されたカリスから、尊いおん血を少量口にした。そして彼らの唇がまだ濡れているときに、彼らは指でその唇に触れ、その指を目と額に当ててこれを聖化するのである[15]

リヨンの司教座聖堂では、荘厳ミサが毎朝行なわれた。ヴィアトールは、読師としての務めを果すためにそれに参加した。彼が定時課のすべてに列席していたことを考慮に入れると、彼がどれほど多くの時間を祈りと祭儀に割いていたかが推測できる。

更に彼は、別の仕事もしていた。この仕事は彼の信仰と熱意を奮い起こさせるものであった。彼は、説教によらず、教理の解説や平易な講義によって、洗礼志願者と子どもたちにキリスト教の教理を教えなければならなかったのである。教会の柱廊に座った彼が、信仰の諸真理を知ろうと目を輝かせる人たちに囲まれている情景を思い描くことができるだろう。

4世紀には、洗礼を受けることを熱望する志願者がたくさんいた。読師には、彼らを洗礼に向けて準備させる任務があった。ヴィアトールは、彼らの教育に際して、その時代の慣行と必要に従って、異教の神話と偶像崇拝の誤りを示さなければならなかった。それと同時に彼は、聴き手の知的能力に応じて、十戒と福音の掟、教義と倫理を教えた。

彼は、志願者たちが十分に教理を学習したと判断すると、彼らを司教ないしは司祭に紹介した。そして司教や司祭は、彼らを審査した。彼らが洗礼に相応しいと判断され、受洗の希望を表明したならば、彼らは、「選良者」(élus)ないしは「適格者」(compétents)の学級に移る。そして、回心式や祓魔式を何度も行い、聖書や教会の教父たちから集められた勧めの言葉を聞いて入念な準備をする。こうしてようやく彼らは、復活祭の前夜に洗礼の秘跡を受けることができた。この洗礼の儀式は、復活徹夜課を兼ねていた。これは、終夜行われ、日曜日の明け方、聖体祭儀への全員の参加を持って終わった[16]。ヴィアトールにとってこの儀式は、何と大きな喜びであったろう。彼の宗教的使徒職はこれをもって報われたのである!

読師たちは、教理教育をし、聖書を公に読むことを任務としているため、歴史は彼らを、「聴衆らの博士、司牧者、伝令、キリストの秘義の解釈者」と呼んだ。それゆえ、彼らは、今日に至るまで、司教用定式書(le Pontifical)[17]によって、神のみ言葉を管理する人々に数え入れられている。

 



[1] 初期キリスト教時代に、迫害に耐えかねて聖書や聖器を異教徒に引き渡した信者。

[2] み言葉の典礼:聖書の朗読を中心とするミサ聖祭の前半部。感謝の典礼:聖体拝領を中心とするミサ聖祭の後半部。

[3] cérémonies libres ou "aliturgiques"

[4] pendant la nuit, à la deuxième ou à la troisième veille.

[5] Ambon:これは現在の教会では、説教壇になっている。

[6] いわゆる答唱(antienne)である。

[7] 時節に合わせて作られた短い賛美の言葉である。

[8] Gloria Patri et Filio et Spiritui Sancto. Sicut erat in principio, et nunc, et semper, et in saecula saeculorum. Amen.(栄光は、父と子と聖霊に。始めのように、今も、いつも、世々に。アーメン)の冒頭の二語。

[9] ( )は、原文のまま。

[10] reunions "aliturgiques":ミサ聖祭が行われない日の集会。

[11] reunions liturgiques:ミサ聖祭が行われる日の集会。

[12] l'avant-messe ou messe dite des catéchumènes:今日の言葉で言えば、聖書の朗読と説教を中心として行われるみ言葉の典礼に相当する。

[13] ミサ聖祭の開祭を告げる詩歌(祈り)。主に聖書から取られた。司式者が祭具室から祭壇に到るまでに唱えられる。

[14] 原則として、1日に8回行われる聖務日課(教会の祈り)の旧称。

[15] 自然法則に拘束されない神にとって、小麦からできたパンを「キリストのおん体」、ぶどう酒を「キリストのおん血」にすることは、たやすいことである。

[16] 成人の洗礼志願者が洗礼を受けるまでの過程については、たとえば、ローマの聖ヒッポリュトスの使徒伝承15~21、および、彼とほぼ同時代のカイサレイアの司祭オリゲネスの『ケルソスへの反論』III,51を参照せよ。

[17] 既出。司教が司式する儀式の式次第の書かれた典礼書。