第三章

リヨンの聖職者

 

ヴィアトールは、ユストゥスという勝れて賢明な高位聖職者による聖職への呼び掛けの内に、神の意志の現れを認めた。

当時の教会の聖職者の選任は、非常に賢明で、しかも被選出者に名誉あるやり方で行われた。古代の宗規に関する多くの文献によれば、司教は、推薦された部下を叙階する前に、候補者たちに関する可能なあらゆる適任証明を求めた。そして司教は、候補者の学識と品行を証言できる信者と司祭に諮った上で、選出を民に委ねたのである。このようなやり方が、当時、本当の選出であるとされていた。投票によって真価を認められた者のみが受け入れられた。フランス教会典礼定式書も、司教に次のように言わせている。「汝は、汝の兄弟らによって、汝の神の家で読師の職務を果すために選ばれた」。この慣行の痕跡は、司教用定式書(le Pontifical)[1]に今なお残されている。

この時代にあっては、読師の職務は、司祭職に登るための単なる通過点ではなかった。それは、深い学識と著しい聖性を必要とする終身的な地位でもあった。老人から若者に至るすべての者が、読師職に推挙されることを名誉と思っていた。それゆえ、志願者は皆、細心の注意を払って準備をした。

叙階直前の準備は、断食と祈りを含んでいた。儀式は、キリスト者の集会で行われ、彼らの同意が求められた。かなり早い時期に定められたこの祭式は、ほとんど変わっていないように見える。この叙階式を特徴づけるものは、もちろん、司教が叙階志願者に信仰と教義を尋ねた後で、はっきりと澄んだ声で朗読すること、そして言行を一致させてみずからの個人的生活を律することを、叙階志願者に勧告するところにある。次いで司教は、叙階志願者に読誦集(Lectionnaire)を手渡し、あるいはそれに手を触れさせた。この書には、朗読用聖書が含まれていて、新しいレビ人[2]の聖務日課書となるべきものであった。そして司教は、次のような伝統的式文を読み上げた。「この本を受けなさい。そして神のみ言葉の読師となりなさい。もしも汝がこの職務を忠実に、そして有益に果すなら、汝は、主の教えを告げる者たちの報いに与ることになる」。ヴィアトールは、この読師職に就くと、教会の奉仕に決然として向かい、このリヨンにおいて聖職者の生活を始めたのであった。

この若い聖職者の新しい生活をうまく描くには、彼が住んでいた家と身に付けていた衣服について、正しい観念を持つことが大切である。

最初の数世紀の諸教会は、聖堂や祈りの家だけで成り立っているのではなかった。この他にも、キリスト教共同体の各種の奉仕施設や、司教以下の聖職者たちの住居、そして洗礼志願者や回心者たちが出入りする巨大な建造物があった。

したがって神の家(domus Dei)教会の家(domus Ecclesiae)を区別することができる。前者は、祭儀と祈りに特別に充てられた場所であり、後者は、神の家ばかりでなく、司教館、施療院、学校など必要な関連施設をすべて含んでいた。やがて教会の周りには次々と付属建造物が増築され、教会の壁を支えた。たとえば教会の後陣[3]の外壁には、祭具室が増築された。これらの付属設備は、資財が豊富になり、より大きな社会福祉活動が可能となるにつれて、ますます拡張されていった。

          

衣服について言うと、問題はもっと複雑で、より詳しい説明が必要である。

宗教的儀式の場合を除いて、司教以下の聖職者の衣服は、長い間、一般市民の衣服と同じであった。我々は、幾つかの文献によって、そのことをミラノで確認することができる。すなわち聖ユストと同時代人であり、その友人である聖アンブロシウスは、彼の兄弟サテュルスとしばしば間違えられた。それはミラノの人々が、司教と一般人とを容易に区別することができなかったからである。ガリア地方にあるヴィエンヌとナルボンヌのそれぞれの司教に宛てられた428年に溯る教皇チェレスティヌス(Célestin)[4]の書簡は、この最初の証言を確証している。教皇は、その書簡で、帯と小さな外套(pallium)を着用すべきだと思っている幾人かの司牧者たちを揶揄している。彼はその手紙を結ぶに当たって、次のように書いている。「私たちは、私たちの衣服によって人々から区別されるのではなく、私たちの教えによって区別されるべきだ」と。聖職者と信徒の衣服が異なるようになったのは、ゲルマン人の侵入以後のことである。一般の信徒たちは、侵入者の短くて体にぴったりした服を徐々に取り入れるようになったが、聖職者たちは、ローマ人の丈の長い衣服にこだわったのである。やがてこの衣服は、多少手直しされて、聖職者の衣服となった。

当時の衣服は、二つの本質的な部分からなっていた。一つは、トゥニカ(tunica)と呼ばれる貫頭衣で、膝ないしは踵まで垂れた亜麻布製の一種の白い寛衣(robe)[5]である。袖のないものもあれば、袖口を縛ったり、短長狭広さまざまの袖を付けたものもあった。聖職者たちは、袖つきのより質素で地味な衣服を選んだ。袿(habit d’intérieur)[6]である貫頭衣は、通常、肩を境に前後に垂直に落ちる二本の平行する色縞で飾られ、この色縞はたいてい緋色であった。またそれは、首と腕のまわりのところで、一種の刺繍あるいは打ち紐で飾られていた。人々は、この貫頭衣の上に、カズラ(casula)と呼ばれる大きな外套を着た。これは普通、濃い紫や褐色に染色された毛織物であった。この外套は丸型をしていて、教会の鐘の形に影響を与えた。それには、真ん中に首を通す穴がある以外、袖も何もなかった。したがって手を使うときには、裾を腕のところまでたくし上げた。

聖職者と俗人、少なくとも社交界の人々とを分けることのできる唯一の特徴は、髪の毛であった。4世紀の人々の肖像画を見ると、当時の流行は、髪の毛を頭になでつけて毛先を切り、顔の回りで丸めるものであった。教会は、聖職者に、単純さのしるしとしての修道的加冠すなわち剃髪をまだ求めてはいなかったが、短く控え目な頭髪を要求した。髭については、統一はなかった。

厳密な意味での祭服は、もともと、4世紀の一般の平服にすぎなかった。もちろんその後、祭服は著しく変化した。しかしそれでも祭服は、その主要な部分をそのまま残した。実際、アルバ(alba)[7]は、古代の亜麻布製の貫頭衣にすぎなかった。また、ロシェトゥム(rochet)[8]とスルプリ(surplis)[9]は、丈を短くしたアルバに由来し、カズラ(chasuble)[10]と長袍祭服(chape)[11]は、古代のカズラ(casula)の変形である。

当時、厳密な意味で、聖職者用の祭服はあったのだろうか。そのことについては、二流の研究者たちの間では意見が分かれている。ある研究者たちは、宗教的儀式のための特別な祭服が存在していたことを肯定し、他の研究者たちはこれを否定している。しかしこのような見かけ上の不一致は、文献に忠実に耳を傾ければ霧消する。実のところ、この点に関する古代の著作家たちの主張は、ひたすら聖務に際しての着替えに向けられているのである。この着替えから、聖職者が別の性質や形態の衣服を着用していたと結論することはできない。ここから言えるのは、教会の外では用いられなかった清潔な専用服だけである。

我々は、若いヴィアトールがこのような衣服を着て、司教の住居の中を行き来し、また教会ではその読師としての職務を果していた有り様を想像することができるだろう。

しかし彼はどのようにして生計を立てたのだろうか。当時の教会規則では、聖職者は、各自の私有財産とみずからの労働、ないしは信者からの喜捨で生計を立てねばならなかった。教会は、国家からいかなる補助金も与えられていなかった。とはいえ教会は、多くの施し物を受けていた。その一部は、貧者の慰安と祭儀の必要ならびに聖職者の扶養のために、行政官たちが負担したものである。聖キュプリアヌス[12]は、こう言明している。読師たちは、各自の手当て、ないしはキリスト者からの施し物を入れた ( かご ) を受け取ることによって読師職に与ると。古代の習慣は、ローマの風習を真似ていた。

聖ユスト司教は、貧困者に対して特に寛大であったことが知られている。そのため人々は、彼に「貧者の父」という異名を与えた。また彼は、当時とても広く行なわれていた慣行に従って、広大な巡礼者用宿泊施設を経営した。当時の教会法は、聖職者に、信仰に結ばれたすべての旅人を受け入れるように義務づけていたのである。リヨンには多くの旅行者が行き来したことは想像に難くない。なぜなら以前の栄華が消えて久しいとはいえ、この町は依然として、帝国の四筋の大道が交わる交叉点だったからである。したがってリヨンには、常に新しい風聞が流入し、教会の家(domus Ecclesiae)の住人たちの生活と精神に、定めし何らかの影響を与えていたにちがいない。当然、この町に立ち寄った幾人もの通行者たちが、はるかかなたのテバイス(Thébaïde)[13]の砂漠について、有益な報せをもたらしたことだろう。テバイスでは幾多の修道士たちが、絶えざる祈りと驚くべき苦行に献身していたのである。

         

次に我々は、ヴィアトールの日常の仕事がどのようなものであったかを見てみよう。ヴィアトールが、彼の司教の傍らで公私にわたる秘書として働いていたことは明らかである。実際、それは、読師の通常の役務の一つであった。リヨンの聖務日課書は、聖ユストについて語りながら、ヴィアトールを「彼の読師」と呼んでいる。そしてその聖務日課書は、この二人の聖人の関係について示唆に富んだ言葉を残している。「ヴィアトールは、その数々の卓越した徳の故に、彼の司教聖ユストに大いに愛された」。

聖職者の中には、司教の行動の証人、司教の徳の保証者、そして司教の特設の伝令として、司教の私室で日夜を過ごす者もいた。当然、司教たちは、数多くの重要な機会にこれらの同宿者(syncelles)にしばしば諮ったから、彼らは、聖職者の中でも最も優秀で最も口の堅い人物であったにちがいない。ヴィアトールは、司教が密かに司教職を放棄する決断をしたときの、司教の「計画の唯一の聴き役」であったことが知られている。ヴィアトールとユスト司教の親密な関係を示すには、この証言で十分である。このような関係は、もしもヴィアトールが読師としての特別な役務を司教の傍らで粘り強く続けていなかったとすれば、あり得なかったであろう。

これらの詳細は、若きヴィアトールの暮らしと毎日の仕事を我々に明らかにするばかりでなく、神の人・聖ユストが彼に及ぼした知的で、そして何よりも霊的な影響を我々に想像させるのである。聖ユストは、その教えと徳で際立っていたために、リヨンの人たちの信心は、彼をいつも、聖ポテイノスや聖エイレナイオスの上に置いていた。若き聖職者、聖ヴィアトールが、司教聖ユストに傾倒し、最も辛い困難の日にも彼を見捨てようとしなかった理由は、十分にあった。

 



[1] カトリック教会の司教が執行する堅信や叙階などの儀式に関する典礼文と指示が記載された典礼書。

[2] 既出。聖職者一般をさす。

[3] 聖堂内の祭壇のある区画のこと。

[4] 43代教皇。在位422~432。なお使徒聖ペトロを初代教皇とする教皇登位代数の算定は、吉川弘文館歴史手帳2001年度版による。以下同様。

[5] 裾が長く、ゆったりとした感じの衣服。

[6] 表衣の内に着る衣の意味。

[7] 司祭がミサのときに着る白衣。ちなみに、albusはラテン語で、「白色」を意味する形容詞である。

[8] 司教などが着る丈の短い白い祭服。

[9] これも丈の短い白い祭服。

[10] 司祭がミサのときに着る袖なしのガウン。「上祭服」とも訳される。

[11] 祭服の一番上にはおる大きな袖なしのマント。頭巾が付いているものもある。

[12] 200~258頃 アフリカ州カルタゴの首都大司教(249以降)。彼の著書カトリック教会の一致について(251)は、後世の教会論に大きな影響を与えた。

[13] 初期キリスト教徒が隠棲したエジプト南部(ナイル川中流)の地方。