第二章

ヴィアトールの少年時代と教育

 

ヴィアトール(Viateur)という名前は――ラテン語でヴィアートル(viator)[1]――旅人、伝令を意味する。ローマ時代には、ヴィアートーレース(viatores)[2]と呼ばれる人たちの団体ないしは同業者組合があった。彼らは、下級官吏、門番あるいは守衛で、属州の政務官や総督の命令に従って様々な任務を果していた。ヴィアトールは、この役人集団と何か特別の関わりを持っていたのであろうか。それとも彼は、この仕事をしていたかもしれない両親からその名前を取ったのだろうか。様々な状況に照らしてみて、おそらく彼は、当時普通に行なわれていた司教の伝令だったのだろうか。いずれにしても彼は、地上における模範的な旅人であったことは言うまでもなく、神のみ言葉の優れた伝令として現れてくる。彼について初めて書き記した伝記作者は、ユストゥスという名前とその名前を持つ司教の性格とみごとな一致を述べた後で[3]、こう付け加えている。「思うに、聖なる司教の足跡を辿っていたこの若い読師が、司教のお供をしてエジプトに行く前に、ヴィアトールと命名されていたのは、同様の摂理によるものであった」。

彼のラテン語名ヴィアトールは、彼がローマ人あるいはローマ系ガリア人[4]の家系に属していたことを想像させる。リヨンでは2世紀以来、ラテン語が常用語であった。また彼の両親が熱心なキリスト信者であったことは疑いない。彼が早くから祭壇の奉仕に関わっていたことが、その証左である。

当時の法律や慣習によれば、一般に富裕な人が聖職に就くことはほとんどなかった。実際、ローマ帝国の勅令は、クリア会(curiales)[5]、都市参事会員(décurions)[6]、および財をなす富裕な人々を聖職から締め出していた。なぜならこの階級の市民は、巨額の税金を支払っており、必要があれば各自の財産を割いて幾つかの公債に応じなければならなかったからである。これに対して聖職者は、様々な特権を享受していた。しかしながら人々は、自分の財産のすべて、あるいは一部を都市議会に提供することによって神と教会に献身することができた。その徳と功績によって全会一致の賛成を得て聖職者となった多くのクリア会員や市民は、この権限を利用したのであった。聖ユストは、同時代のミラノの司教聖アンブロシウス[7]と同様に、高貴な家系に属していた。

他方、この町は帝国の税制によって疲弊し、貧困がはびこっていた。そしてその結果、少なくとも貧困層における民衆教育はほとんど顧みられることがなかった。学校に入ることを許された子どもたちは、相応の報酬を教師に支払わねばならなかった。ヴィアトールが教育を受けることができたということから、彼の家庭が富裕ではなかったにしても、ささやかなゆとりを持っていたと結論することができる。そして実際、ヴィアトールの父は、息子が読み書きを習える年齢に達すると、誠実な教育を施すことのできる教師たちに彼を委ねたのである。

         

当時リヨンには、二種類の学校があった。一つは、俗人によって運営される一般的な公立学校であった。もう一つは、司教座聖堂に付属する学校で、聖職を志す子弟を受け入れた。いずれの学校においても、教師たちの考えは違っていても、教育手順と教育方法は似かよっていた。リヨンの至る所で、ラテン語が日常的な公用語として使われていた。しかしこのラテン語は、キケロ[8]の古典的なラテン語ではなく、むしろ新しい諸観念に適合した通俗的ラテン語であった。

初等学校の教師あるいは下級の文法家は、リッテラートル(litterator)と呼ばれたり、ルーディー・マジステル(ludi magister)ないしはプリームス・マジステル(primus magister)と呼ばれていた[9]。しかし彼らは、概して貧しく、教師の特権もなければ、その資格もなかった。彼らは、間に合わせの場所、単なる中庭、公衆に開かれた柱廊や回廊などで、5歳ないしは6歳までの児童を受け入れた。そして彼らを長椅子や地べたに座らせた。書字台は知られていない。子どもたちは膝の上で書き物をした。

一般に生徒たちは、木製ないしは象牙製の文字を見ながら、アルファベットを学ぶ。若いヴィアトールも、その級友と同じように、カプサ(capsa)という筒型の箱ないしは小箱に、計算用の数え札や蝋の塗られた木製の書字板――これには、時に白墨や石膏が塗られることがあった――を入れて学校に来た。そして教師は、この書字板の上で、先端の尖った金属製の棒を動かしながら、子どもに書き方を教えたのである。後になると、先端を切り落とし二つに裂いた葦筆とインクを使って、パピルスや羊皮紙に字を書くことになる。ヴィアトールは、生徒たちが一斉に同じことを繰り返すというやり方で、計算の初歩と朗読に親しんでいった。

博学な修辞学教師においてと同様に、地味な司教座聖堂付属神学校の校長の許では、教授法はすべて書物に依っていた。書物が真の、そしてほとんど唯一の師であった。また、下級の文法家は、教えるのではなく、読んでいた(paraelegebat)。彼の授業は、朗読された箇所を生徒に説明することであった。

多くの人たちが、この初等教育に満足していた。修辞学者クインティリアヌス(Quintilien)[10]がその弁論術教程(Instruction oratoire)の中で描いている教育計画よれば、勉学を継続できる者は、12歳ないしは13歳で初等学校から文法家(grammaticus)の許に行くことになっていた。文法家は、正確に話をすることを教え、ギリシアやラテンの著作家たちの書物を様々な観点から解説した。ホメロス[11]とヴェルギリウス[12]がその著作家たちの頂点に置かれた。生徒たちは、これらの書物の多くの箇所を暗記し、文章を書くことでそれらを模倣しようと努めた。その上、文法家は、特に演説者を養成することをもくろんでいた。彼は、多くの書物を朗読させ、発音、韻律、曲音、抑揚に注意して、できるだけ印象的な朗読ができるように配慮した。この第二次過程は、読師の職務にとって絶好の準備となった。

公の生活を志す者たちは、15歳ないしは16歳で、雄弁術を教える教師の許で、そのための準備をすることになっていた。雄弁術教師は、叙述、弁駁、称賛、比較、詳述といった雄弁にとって有益な様々なジャンルの著作家たちを模倣させて、意思表示と文学的作文の仕方を修得させた。すべては、演説教育に尽きた。練習の大部分は、架空の討論会に向けられた。そこでの練習の目的は、説得することよりも、気に入られることにあった。ガストン・ボワシエ(Gaston Boissier)の表現によれば、「心地好い話術を披露し、言うに値しないことを繊細に語る」ことができるようになることが重要だったのである。

         

当時のリヨンには、世俗の初等教育と中等教育の他に、教会法が定める学校があった。これは、今日の神学校に相当するもので、当時、「読師養成学校[13]」と言われ、司教座聖堂のすぐ近くで運営されていた。そこでは一般的な学問の諸部門が教授されるとともに、聖職に必要な特別の養成が行われていた。しかしこの「読師養成学校」が既に聖職に就いている人だけを受け入れたのか、それとも聖職志願者をも受け入れたのかは、定かではない。

当然のことながら、読師(lecteur)[14]には、守門(portier)[15]や侍祭(acolyte)[16]、祓魔師(exorciste)[17]の養成よりもはるかに広範な教育が求められた。生徒たちの数は時に極めて多くなり、司教によって指名された指導者の下に、一種の同業者団体、すなわちスコラ(schola)を形成した。司教は、これらのレビ人[18]たちの養成にみずから関わらなかったとはいえ、この学校を厳重に監督した。

読師たちは、その主要な職務上、聖書の朗読箇所を上手に朗読する術を身に付けさせられた。神のみ言葉への当然の敬意もさることながら、この公の朗読が信者の心に及ぼす影響は、たいていの場合、その朗読のされ方に依存していたのは明らかである。既に聖パウロは、弟子のテモテにこう勧めていた。「朗読と激励と教育に専念しなさい。・・・ これらのことを思い巡らしなさい。そしていつもそれらのことに関わっていなさい。それは、あなたの精進が皆に知られるためです。そして粘り強くこれらのことを行ないなさい。なぜならこうすることによってあなたは、あなた自身とあなたの話を聞く人たちとを救うことができるからです[19]」。

これらのことは、聖書の完全な理解を前提にしていた。読師たちにとって最も厄介なことは、当時、句読点がほとんど存在せず、写本に記された単語が互いに分けられていなかったことである。そこから、時として意味の重大な変化が生じた。したがって教師たちの努力は、みごとな朗読ばかりでなく、思想の完全な理解にも向かわざるを得なかった。

読師たちは、一般教養をいささかもないがしろにすることなく、自分の職務を果すための極めて具体的な準備をした。この目的のために読師たちは、読誦集(Lectionnaire)殉教録(Passionnaire)祝福集(Bénédictionnaire) 詩編集(Psautier)を筆写した。読誦集は、聖務のときに会衆に読み聞かせる聖書の抜粋集であり、殉教録は同じく朗読しなければならなかった殉教者行録である。また、祝福集は祝福の諸定式の集成であり、詩編集[20]は信者の集会で聖務を彩るものであった。更にこれに関連して、次の習慣に注目してもよいだろう。この時代の聖職者たちは、後の修道士たちと同様に、長い宵課を毎日唱えるのに本を必要としなくてもよいように、詩編を暗記したのである。

また読師たちは、教会の教父たちの著作を研究した。彼らの権威は、既に、カトリックの世界全体で承認されていた。読師たちは、聖書についての教父たちの注解、教話、論争書、護教書を読んだ。なぜなら、当時、大きな災厄であった異端が至るところから忍び込もうとし、そのため正統な真の教えの防衛に、慧眼の弁護者たちが必要とされたからである。

聖職者たちは聖なる知識を真の源泉から汲み取るとともに、自分たちの身分に合った徳を習得しなければならなかった。

リヨン司教座聖堂付属学校の著者は、この「読師養成学校」が4世紀以来存在したことを証明した後で、こう書いている。「歴史は、我々の古い時代の司教たちの幾人かの弟子の名を留めているが、更に多くの名を忘却の淵に入れている。とにかく歴史が伝えてきたそれらの名を受け取ることにしよう。そしてリヨンの教会の読師であった聖ヴィアトールの天使のような姿を喜んで迎えよう。ヴィエンヌのアドン[21]によって「いとも聖なる若者」と呼ばれたヴィアトールが、聖ユストの目の届くところで、おそらく彼の配慮の下に、多くの聖職者たちの中で育てられ、教育されたと考えるのは、大胆すぎるだろうか。

いや、実のところ、聖ユストが、若いヴィアトールを読師の職務に召したとき、彼のことをとてもよく知っていたのを考慮に入れるなら、そう考えることに何の大胆さもない。聖霊がこの「いとも聖なる若者」を、その貴重な賜物の数々で満たしたとすれば、我々は他方で、彼の許では自然が恩恵の働きにみごとに応えていたと言うことができるのである。なぜなら同じアドンは、「卓越した才能をもった子ども」(puer egregiae indolis)という別の名前でも彼を呼んでいるからである。司教が彼を自分の家に迎え、自分の私的秘書にしたことは、このことで十分であろう。

 



[1] ラテン語のViatorは「ヴィアートル」と発音されるが、フランス語のViateurは、「ヴィアトゥール」と発音される。以下では、特に断りのない限り、両語を「ヴィアトール」と表記する。

[2] viatorの複数形である。

[3] ユストゥス(Justus)は、もともと「正しい、実直な、公平な、穏健な」などという意味を表すラテン語の形容詞で、英語のjustの語源になっている。司教ユストゥスは、その名の示すとおり、ユストゥスなのである。

[4] ローマ帝国の征服(BC2C)からゲルマン人のフランク王国の建国(AD5C)までガリア地方(フランスを中心とする地域)に住んでいた住民(ケルト人)

[5] ローマ共和政期に編成された市民団の最小単位(クリア)に属する成員のこと。富裕な市民階級がクリア会員となり、公職者の選出を始めとする行政一般に関わったが、帝政期には形骸化した。民会とか参事会とも訳される。

[6] 地方都市の市民団の編成単位で、富裕な市民から構成された。都市評議会とも訳される。都市の自治行政に関与した。

[7] 339~397 ローマの名門アウレリウス家の出身。ローマで法律学と修辞学を学んだ。ミラノの執政官を務めていたとき、民衆の推挙でミラノの司教となった。善悪の二元論を掲げるマニ教に悩んでいたアウグスティヌスをキリスト教に導いたことで知られる。

[8] 既出。古典期のラテン語の典型を残したとされる。

[9] Litterator:文字通り「文章屋」、ludi magister:直訳すれば「練習場の教師」、primus magister:「初級教師」。

[10] 35~100 スペイン出身のローマの修辞家。弁論術の教師として名声を博した。彼の著した弁論術教程12巻は、弁論家養成の手引書であり、中世およびルネサンス期の著作家たちに修辞学の古典として受け入れられた。

[11] 紀元前8世紀頃の人。古代ギリシア最古で最大の叙事詩イリアスオデュッセイアを著したとされる。

[12] BC70~BC19 古代ローマ最大の詩人。ローマの建国と使命をうたった叙事詩アエネーイスを書いた。

[13] école de lecteurs

[14] 守門の上位にある下級聖職者(下級聖品第二段)で、その職務は本文に述べられている通り。なおカトリック教会では、中世以来、聖職者は、上級聖職者(司教・司祭・助祭・副助祭)と下級聖職者(侍祭、祓魔師、読師、守門)に分けられていたが、1972年に司教・司祭・助祭の聖職位を除いて、その他の聖職は廃止された。また、今日、聖職位に就いていない修道者や神学生も、便宜上、聖職者に数えられることがある。

[15] 最下位の下級聖職者(下級聖品第一段)で、聖堂の清掃などの雑務に関わった。

[16] 最上位の下級聖職者(下級聖品第四段)で、ミサ聖祭において司教や司祭の補佐(蝋燭の点火、ぶどう酒や水の準備など)をする。今日の「ミサ答え」「侍者」に相当する。

[17] 上記の侍祭に次ぐ下級聖職者(下級聖品第三段)で、悪魔払いをしたり、人物に聖水をかけて清めたりするのをその職務とする。

[18] もともと旧約時代の祭司階級をさす言葉で、ここではカトリック教会の聖職者一般をさしている。

[19] 1テモテ4,13~16

[20] 文字通り、旧約聖書に納められた150篇の宗教詩(賛歌)の集成である。

[21] 既出。9世紀前半のヴィエンヌの大司教。聖人伝や年代記を執筆。