第十章

ヴィアトールの聖性

 

聖人伝執筆者たちの断言するところによると、聖ヴィアトールは、その記念祭がラテン教会において、4世紀の終わり、ないしは5世紀の初めに溯る数少ない証聖者の一人である。実際、彼らの学識あふれる著作に引用された数々の古写本は、この祝福された読師の名が、イタリアで5世紀半ばに編纂されたいわゆるヒエロニムス殉教録の中に既に記載されていたことを証言している[1]。したがってこの殉教録に彼の名が記載されていたということは、彼の遺徳を偲ぶ記念祭がその死後わずかにして始まったことを我々に確信させてくれるのである。

このことは、注目に値する。なぜなら聖人に対する崇敬は、この時期まで、使徒たちと殉教者たち、すなわちイエス・キリストのために拷問の内に信仰を告白し、みずからの血を流した人たちにほとんど限られていたからである。また、キリスト教の祝祭日について扱った教皇シリキウス(Serice)[2]の重要な書簡――タラゴナ(Taraggone)の司教ヒメリウス(Himérius)宛書簡――でも、殉教者でない聖人は、まだ問題にされていなかった。

殉教者でない者が祝祭日から外されていた理由は、ある程度、推測することができる。教会の初めの数世紀には、あるいはもっと正確に言うと、ローマの迫害の時代には、キリスト者たちの殉教が信者の人たちの想像力を独占していたため、人々は、信仰のために死ぬこと以上に偉大なことや称賛に値することを考えることができなかったのである。それゆえ、公然たる証をする輝かしい機会を持つこともなく、人知れず神に仕えていた人々に、あまり注意が向けられなかった。しかし当時の人々は、聖性の本質が殉教にあるのではなく、キリスト教的諸徳の英雄的実践にあることを知っていた。実際、この時代にあってさえ、神は、異論の余地なき奇跡によって、殉教者ではない幾人かの証聖者たちの紛れもない聖性を明らかにしたのである。

ヴィアトールに与えられた数々の称号は、彼と同時代の人たちにとって、疑う余地のないものだった。なぜならこの時代の著作家たちは、彼を「非常に聖なる若者」と呼びながら、これらの称号を臆することなく使い、自分の司教から特別の好意を得ることのできた彼の「傑出した徳」について語っているからである。この時代の著作家たちは、ヴィアトールを聖ユストと同等に扱い、次のように言い切っている。「この聖なる青年は、彼の徳と旅路の両方をともにした」(より幸いな生活)――Sanctus adolescens tam itineris quam virtutis suae particeps(Vita prolixior).

         

実のところ、読者は、聖ヴィアトールの人となりについてもっと詳細に知りたいと思うことだろう。そして、神がどのような賜物を彼に与えたか、そして、彼の取りなしの力がどのような霊験をあらわしたかを本当に知りたく思うだろう。1287年に彼の墓から幾つかの文書が発見された。おそらくこれらの文書は、それらの疑問に明瞭に答えたにちがいない。しかし残念ながら、それらの文書は、不幸にして紛失してしまった。ともあれ彼の類稀な功績は、彼の生涯の一つひとつの場面に十分に現れている。彼の生涯には、我々には完全に見習い切れない多くの徳が存在するのである。

聖ヨゼフについて、我々は何を知っているだろうか。彼の生活についての厳密な意味での歴史的諸事実は、福音書の数行に書かれているにすぎない。それにもかかわらず、彼は、新約の偉大な聖人の一人である。キリスト紀元以来、教会は、彼を、「善良で忠実なしもべ」になりたいと願うすべての信者に、完全な模範として提示してきた。同様に、たとえ我々が、聖ヴィアトールの霊魂の秀でた徳性の幾つかしか知らないとしても、彼の功績は、常に時宜にかなった徳の模範を我々に提供せずにはおかないのである。この徳とは、召命への忠実さ、典礼への愛、キリスト教教義の教育熱、長上への変わらぬ従順と愛着、俗世からの離脱、自己犠牲と改悛の精神などである。このことは、聖ヴィアトールが我々の賞賛を呼び起こし、我々の信心を高めるのに十分ではなかろうか。

神は、死に瀕した聖ユスト司教の予言を実現することによって、この若い青年への愛を表わすのをよしとされた。このことは、神の定めた予定を証する奇跡ではなかろうか。聖遺物として尊ぶために彼らの遺骸を求めたリヨンの市民たちも、砂漠の修道士たちも、このように予言の結末を理解したのだった。

おそらく我々は、ヴィアトールが教会によって正式に列聖されていないことに異議を申し立てることはできないだろう。なぜなら、教会がありうる間違いや乱用を何とか回避するために、列聖手続きを制定する以前に、聖ヨゼフも、他の多くの聖人も、既に祭壇に上げられていたからである。

才知あふれる著作フランス公立図書館所蔵聖務日課写本(Bréviaires manuscrits des bibliothèques publiques de France)の中で、ルロケ(Leroquais)神父は、どのようにしてキリスト者が、墓所に赴いて聖人を記念し、その信心と勇気の生き生きとした模範を求める中で、自然発生的に聖人崇拝を発展させていったかを我々に明らかにしている。民衆の声が司教や教皇を定めたように、どれほど多くの聖人たちが、民衆の声によって聖人として宣言されただろうか。民の声は、神の声なのである(Vox populi, vox Dei)

同じ著者は次のように書いている。「最初の公式の列聖は、ヨハネ15(在位985~996)[3]のときの995年に溯る。それ以前は、すなわち最初の1000年近くは、民衆の証言と賛成が、調査と推挙の代わりをしていた。この手続きは、どれほど大雑把なものであっても、信ずるに値しないほど的外れなものにはならなかった。人々は、良識を持っていて、人間の道徳的価値について思い違いをすることは稀なのである」。

今日でも、列福調査の開始を求める請願者たちが関心を寄せる聖性の名声(fama sanctitatis)は、教会の教導職が主導権を握る以前に、神が信者の心に語りかけていた時代の名残ではなかろうか。

更に、この町に立ち寄って聖ユストとともに聖ヴィアトールを祝った歴代の教皇たちと、リヨンの司教たちとによって、長い間、行われた認証に思いを致すとき、そこに暗黙の列聖以上のものを見ることができる。教会は、聖ヴィアトールの崇敬を聖務日課書とミサ聖祭に組み込むことを許すことによって、彼を記念する祭儀を正式かつ公式に認可した。

他方で、スケティスの砂漠で自分の名前を隠していたこの若者が、1500年後になってほとんど普遍的とでも言っていいような崇敬の対象となったのは、神のご意志を明らかにする並外れた出来事ではなかろうか。

聖ヴィアトールの名声は、偶然のなせる業、運命の気まぐれであると敢えて言うことができるだろうか。木の葉の一枚一枚に襞を与え、花の一つひとつに形と香を与えてくださった創造主は、ご自分のもっとも忠実な僕らに栄光を与える気遣いを、偶然や運に任せるはずがない。

今日、聖ヴィアトールは、彼の英雄的な諸徳がもたらした正当な名声を享受している。そして彼の祭儀を全地に広めるのに貢献することは、神のご計画に与ることなのである。

おそらくあまりにも長いあいだ忘れ去られていた証聖者たちは、今日、彼らにふさわしい栄誉を与えられている。聖書が言明しているように、天において乙女たちは、白百合の冠をかぶり、殉教者たちは、緑の棕櫚の葉を手にしている。そして使徒たちは、預言者ダニエルを通してなされた約束によれば、各自に固有の輝きを身に帯びているのである。「教えを受けた者は、天蓋の火のように輝く。そして人々に正義を教えた者は、とこしえに星のように光り輝くだろう」(ダニエル12,3)



[1] ヒエロニムスの在世年は347~419/420年であるから、この殉教禄は、彼の死後、完成されたことになる。古代キリスト教最大の殉教禄で、1225日の降誕祭から始まって、日々の殉教者(聖人)の名前と墓所、遺物の所在地、崇敬地を記載している。

[2] 38代教皇。在位384~399。彼の手になる教令は、現存する最古の教皇教令で、宗規について扱っている。特に386年にタラゴナ(スペイン北東の地中海に面した町)の司教ヒメリウスに宛てて書かれた教令は、司祭の独身を命じた最初の教令で、非常に重要である。

[3] 137代教皇。( )は原文のまま。