第一章

リヨンにおけるキリスト教生活

 

ヴィアトール(Viateur)が生まれた年はいつなのだろうか。それを正確に定めることはむずかしい。しかしこの聖人の生没年を近似的に定めるための幾つかの手がかりがある。

コンスタンチノープル公会議[1]の後、ほどなくして、アキレイアの教会会議が、38193日に開催された。歴史は、ヴィアトールの師事したリヨンの司教、聖ユストがこの教会会議に参加していたことを確証している。聖ユストの生涯(Vita Sancti Justi)は、この教会会議前のヴィアトールを子ども(puer)と呼び、ユストの臨終の際には青年(juvenis)と呼んでいる。この子どもおよび青年という言葉は、ラテン語では、もっと広い意味で使われている。たとえばキケロ[2]は、既に軍団の長になっていた19歳のオクタヴィウス(Octave)少年(puer)と呼んでいる。また、旧約聖書の第二聖典に記載されている三童子(Trium puerorum)の歌は、ダニエルの、燃えさかる炉に投げ込まれた三人の仲間――彼らは、当時バビロニア地方の家令であった――を少年ら(pueri)と呼んでいる[3]。聖ユストと同時代人であった聖アウグスティヌス[4]も、31歳になった自分自身について、「私の思春期は終わり、私は青年時代に入った」と言っている。このようなわけで、リヨン司教座聖堂付属学校の著者であるフォレ(Forest)神父は、聖ヴィアトールの在世年代として、「360年から390年」を提案している。この在世年代は、もっともらしく見え、また、聖人伝執筆者の確証する伝承によく一致する。

とにかく聖ヴィアトールは、4世紀の後半に生きていたのは確実である。彼は、教会の栄光と困難の時代を生きていた。この当時の教会は、ようやく獲得された自由を謳歌するとともに、滅亡寸前の異教の最後の抵抗に遭遇していた。

313年のミラノ勅令[5]の後、教会は、その組織化と発展において幸せな時期を迎えた。すばらしいカトリック典礼が成立したのは、あるいはもっと正確に言って、それが発展したのは、この勅令後であった。祭儀は、何の妨げもなく、白日の下に、自由に行なえることができた。聖職者の増加と、信者からの施し、そして皇帝たちの寄進は、聖務に一層の輝きと荘厳さを増し加えずにはおかなかった。キリスト教が既に移植されていたガリアでは、壮大で豪華な教会堂が次々と建設された。威厳あふれる丸天井の下では、聖職者たちの長い行列が続き、日増しに数を増す信者たちがその行列を囲んでいた。このような聖職者たちに混じって、そして教会の希望と喜びの時期に、ヴィアトールは、リヨンの聖堂の神聖で厳かな影に覆われながら、その青年時代を送っていたのである。

しかし激しい迫害の嵐の後の宗教的な平和は、人々の心を弛緩させる恐れがあった。勝利の確信に満ちた雄々しい殉教者たちの姿は、信者たちの間に、長い間、英雄心を培ってきた。しかし嵐が止んだいま、この英雄心は萎え、枯れ枝のごとくになった。異教は、この機会を利用して、信者の家族の中に浸透し、失われた勢力の幾ばくかを取り戻そうとした。このような弛緩しきった環境では、キリスト教的完徳の実践はますます困難になった。キリスト教的完徳を熱望する人は、多くいた。一時代前であったら、彼らは、喜んで殉教に走っただろう。しかし彼らは、別の方法で神に身を捧げ、別の英雄的行為によって神に栄光を帰す決心をした。

いま指摘した、おそらく剣や火より恐ろしい堕落の危険を避けるために、信者たちは、砂漠に逃れることを決意した。そして彼らは、ローマの円形闘技場に繰り出された野獣を物ともしなかった初期キリスト教の殉教者たちに優るとも劣らぬ勇猛さで、驚異的な禁欲生活に専心することに決めたのである。人々は彼らを、「勝利に満ちた教会の殉教者たち」と呼ぶことができた。若いヴィアトールは、ある日、自分がこの祈りと悔い改めの聖域に惹き付けられているのを感じた。

しかし4世紀の一般的状況が背景をなしているとはいえ、聖ヴィアトールの生涯の少なくとも最初の一幕が演じられる舞台装置が据えられたのは、古代のルグドゥヌム(Lugdunum)であった。おそらく彼は、リヨンに生まれた。そしてその生涯の大部分を確かにそこで過ごした。

この町の地理的な状況と歴史は、その絵のような景観と、その町の果した重要な役割を明らかにしてくれる。この町は、河と谷の交叉点に位置しており、これを征服したローマ人たちの注目を引かざるを得なかった。そこで彼らは、ガリアを貫く四つの大道を建設し、この町で合流させた。アウグストゥス帝[6]は、そこに壮大な水道橋を建設し、贅を尽くした記念碑でその町を飾った。その町はケルト族の中心都市となった。やがてケルト人はリヨン人(Lyonnaise)という名を持つようになった。またその町は、「ガリアのローマ」という異名をで呼ばれるようになった。

この時代、この町は、今日の他の町と同じように、上町と下町の二つの部分に分けられていた。上町は、フルヴィエールの丘を占めていた。強固な楼塔を備えた城壁に囲まれた上町は、まるで難攻不落の城塞であった。内部には、神殿、集会所、官邸などの公共建築物が整然と並んでいた。皇帝たちは、「皇帝の州ガリアを保護する使命を帯びた神々の一団」のために、大理石、黄金、モザイク、列柱、彫像を惜しみなく捧げた。そして城壁づたいの大通りに沿って、公共浴場、劇場、大競技場など、住民の娯楽に資するすべてのものを収容する広大な地所が設けられた。幾つもの狭くて急な道がこれらの建築物を通ってソーヌ川に下り、商店と水運店が軒を並べる港に合流していた。

下町は、ソーヌ川の対岸、つまりソーヌ川とローヌ川が形成する三角形の半島に位置していた。この半島は今日に比べると縦に短かった。なぜなら19世紀に、ソーヌ川とローヌ川の合流点をもっと遠くに移す土木工事が行われたからである。とにかくその下町には、木や煉瓦、石でできた家が密集し、何の町割計画も、調和も、華麗さもなかった。しかし、原色と無造作な外形が織りなす絵のような美しさがあった。

実のところ、ヴィアトールが生きていた時代のリヨンは、その古代の繁栄を失っていた。もはやあちこちの公共広場には、あらゆる国からあらゆる人種が集まってひしめき合うといった光景は見られなかった。かつてリヨンには、深紅のマントを着たローマ人将校、風になびくトゥニカを身にまとったアフリカ人、ギリシア人、アジア人、ユダヤ人、シリア人、長髪のゲルマン人、ブルターニュ人がいた。幾つかの反乱が皇帝たちの怒りを買い、皇帝たちは容赦なくその反乱に報いた。セプティミウス・セヴェルス帝[7]は、町に火を放ち、住民の大多数を殺戮した。3世紀以来、リヨンは、単なる一都市になりはて、その状態は、ブルグンド族がこの町を自分たちの首都とする(478)[8]まで続いた。しかしそれでもリヨンは、その間、町の主要な建物とかつての名声を保っていた。

         

リヨンは結局、「ガリアのローマ」であることをやめるにしても、カトリックという意味では、ますます「ガリアのローマ」になった。スミュルナ出身の司教聖ポテイノス(Pothin)[9]によって、リヨンにキリスト教が伝えられた。この司教は、聖ポリュカルポス[10]の弟子で、またこのポリュカルポスは使徒聖ヨハネの弟子であった。ポテイノスは、ローヌ川とソーヌ川が合流して作り上げるデルタに、最初の礼拝堂を建てた。その場所には、今日、サン・ニジエ教会が建っている。しかし間もなくして、迫害が彼を襲った。

177年、マルクス・アウレリウス帝[11]は、キリスト教徒を皆殺しにする勅令を発した。ポテイノスは、多数の婦人や子どもとともに殉教した。これらの殉教者の中に、ブランディーナ(Blandine)という若くて勇ましい女性の奴隷がいた。彼女の驚嘆すべき殉教を物語る書簡が今日まで残されている[12]。それは、リヨンにとって輝かしい栄光である。しかし過酷な試練は絶えなかった。セプティミウス・セヴェルス帝の迫害のとき、聖エイレナイオス[13]は、幾千ものキリスト者とともに、殉教の苦しみを勇敢に耐えた。

エイレナイオスは、リヨン大司教の称号を得た最初の人物である。彼の指導の下に、リヨンの司教座教会は、「ガリア人たちの大司教教会」という名前を得る誉れに浴した。彼の後継者たちは、住民を福音化し続け、リヨンを西方におけるもっとも重要なキリスト教の勢力地とすることになった。

とはいえ、異教とキリスト教という、当時の世界を二分していた二つの勢力が、ルグドゥヌムを見逃すはずがなかった。当地でも、異教とキリスト教が入り乱れ、互いにその教勢を競い合っていた。異教の神々の中でも、特に、神々の母とされるキュベレー神[14]が、相変わらず人々の人気を博していた。上町にある「神的な光の霊」という異名を持つミトラ神[15]の神殿は、参詣客で賑わっていた。祭儀的な清めという口実の下に、贖罪のために屠られた雄牛の血が祭司と信徒に注がれるタウロボロス(taurobole)[16]という奇妙でむかつく血の洗礼は、知識階級の間でも依然として行われていた。このような慣行は、十字架が移植されてかれこれ200年近くも経つこの町に、依然として、野蛮と迷信が残存していたことをよく示している。したがって当時のリヨンには、青少年たちを誤謬と放蕩に誘うのに必要なすべてのものが揃っていた。

ヴィアトールがこの町にまさに生まれようとしていたとき、ある政治的な事件がこの町の住民を混乱の渦中に陥れねばならなかった。ゲルマン民族出身の兵卒で、ローマ軍の捕虜となったマグネンティウス(Magnence)[17]が、特別の好意によって恩赦を受け、皇帝軍に加えられ、その最高の地位にまで上り詰めることができた。

オータン(Autun)での祝宴の折りに、彼は、痛飲に沸き立つ会食者たちに自分を皇帝と叫ばせた。異教にほだされていた彼は、かつてコンスタンティウス帝[18]がローマのクリア会員たちの顰蹙を買いながらその議場の片隅に投げ捨てたヴィクトリア神の祭壇を再建することを約束した。ところがコンスタンティウス帝に追われ、二つの闘いに敗れたマグネンティウスは、ルグドゥヌムの要塞に逃れ、この町からの支持を要求した。しかし部下の兵士たちに裏切られた彼は、自分の年老いた母や兄弟、そして自分について来た親族や友人を皆殺しにし、みずからも命を絶ったのである。

この痛ましい事件に、リヨンの老司教ヴェリッシムス(Verissimus)が巻き込まれたかどうかは知られていない。しかしこの町の混乱はなかなか収まらず、彼はこの事件後、程なくして死んだことが知られている。

彼の後継者を決める必要が生じた。当時の宗規に従って、人々と聖職者が集まり、ユストゥス(Justus)を選出した。彼は、リヨン南部の、ローヌ川に面した小村ヴィエンヌの教会の司祭であった。ここに初めて、我々が特に関心を持つ人物が登場してくる。なぜなら彼は、ヴィアトールの生涯に深い影響を与えたからである。

ユストゥスあるいはユスト(Just)は、自分の世話に委ねられた信者の責任を取ることになった。幾人かの歴史家たちは、当時の司教座がいわゆるマカベア(Machabées)教会[19]にあったのではないかと思っている。なぜなら聖ユストは、この教会に葬られたからである。しかしこのことは、その決定的な証拠にはならない。マカベア教会には、既に数多くの殉教者の亡骸が安置されていたのであるから、人々が聖ユストの遺骸をそこに納めようと思うのは当然であったろう。どうやら、ラ・ミュールのジャン・マリ(Jean Marie)がその著書リヨン司教区教会史(1661)に載せている伝承を証言として受け入れなければならないように思える。その伝承は、聖ユストの後継者である聖アルビヌス(Albin)[20]に関連して、次のように語っている。「リヨンの大司教座が移されたのは、この聖ステファノ教会だった。この司教座はもともと、数世紀の間、聖使徒聖四十八殉教者教会――この教会は、司教座が聖ステファノ教会に移された後、聖ニジエ教会と呼ばれるようになった――に置かれていた。そしてその司教座は、後に、聖ステファノ教会に隣接して建てられた洗礼者聖ヨハネ教会に移された」。したがって聖ポテイノスから聖アルビヌスまで、司教座は、場所を変えなかったわけである。幾多の迫害が終わった後、信者たちは、古くからの地味な礼拝堂を、トゥールのグレゴリウス[21]に言わせれば「驚くほど広大な大教会堂」に建て替えた。そして新司教がその職務を果し、同じくヴィアトールも読師としての役務を果すことになるのは、この大教会堂だった。

ユストゥスは、350年から381年まで、30年以上もの間、司教区を管理した。彼は、異教を再興しようとした背教者ユリアヌス帝[22]およびアリウス派の異端との闘いを続けなければならなかった。しかし彼が、アリウス主義の扇動者たちに対して開かれたアキレイア教会会議に、司教職にある同僚たちによって派遣されるに値する人物であったとすれば、彼は、教会の人、教会政治に通暁する司教であったように思われる。もちろん彼は、キリストの敵たちを前にして、強硬な政策を取らなかった。むしろ彼は、柔軟な政策にこだわった。この聖人に関する研究書を公刊したカミル・ジェルマン・ド・モントゾン(Camille Germain de Montau- zon)は、次のように書いている。「信仰深く冷静な年代記作者アドンに従って判断する限り、彼は、同時代のポアティエの聖ヒラリウス[23]のように激しやすく戦闘的な高位聖職者ではなかった。むしろ彼は、自分の無数の信者に対して温和で控え目で、そして何よりも慈悲深く優しい高位聖職者であった。」

この神の人こそ、やがて、聖ヴィアトールの指導者、父、模範となるのである。聖ヴィアトールの生涯は、聖ユストの生涯と切り離して考えることはできない。彼の聖性を表す特徴の一つは、自分の教会的長上への不変の従順だった。歴史は、ユストとヴィアトールの二人の名前を切り離すことはできないだろう。いわんや信者が、その追憶と崇敬においてこの二人の名を切り離すことはなかった。

 



[1] 381年に開催された全教会会議(2回公会議)。この会議で、キリストをいわば父なる神によって造られた神であるとするアリウス派が断罪され、父なる神と子なる神(キリスト)の同一実体説が正統教義として最終的に確立された。

[2] BC106~BC43 ローマの弁論家政治家哲学者。彼の残した言説は、古典期のラテン語の完成された姿を示しているとされる。ギリシア哲学(ストア学派やエピクロス学派)の学説や概念をラテン世界に伝えたことでも知られる。

[3] ダニエル書3,51~90、あるいは旧約聖書続編ダニエル書補遺アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌28~67を参照せよ。

[4] 354~430 北アフリカのヒッポの司教。彼の劇的な生涯は、有名。その思想は、中世に決定的な影響を与えた。著書に、告白神の国などがある。

[5] ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝(280~337)がその政敵リキニウス帝(?~324)と会見して出した勅令。これによってキリスト教は公認され、迫害時に没収された教会財産の返還、聖職者の免税特権、信者間の問題を処理する司教裁判権などが認められた。

[6] BC63~BC14 ローマ帝国初代皇帝(在位BC27~BC14)BC31年のアクティウムの海戦の勝利と翌年のアレクサンドリアの包囲によって、カエサル派の部将アントニウスとエジプトの女王クレオパトラを自殺に追い込んだことでも知られる。

[7] ローマ皇帝。在位193211年。カラカラ帝(マルクス・アウレリウス・セヴェルス・アントニヌス)の父。キリスト教に比較的寛大であったとされるが、202年に、ユダヤ教とキリスト教に対して、改宗勧誘活動を禁止する勅令を出した。これによって、多数の洗礼志願者と教理教育者が殉教した。

[8] ( )は原文のまま。

[9] 87~177 リヨン司教で、マルクス・アウレリウス帝の迫害の時、獄中で死亡したことが、エイレナイオスの作とされる小アジアの諸教会宛の書簡から知られている。エウセビオス教会史V,1,29~31を参照せよ。

[10] 70~156 小アジアのスミュルナの司教。本文に述べられているように、彼は、使徒ヨハネから直接に教えを受けたとされる。

[11] ローマ帝国の五賢帝の最後の皇帝。在位161~180年。何よりも、ストア哲学に傾倒した皇帝として知られ、異民族との戦いの最中に自省録を著した。彼は、キリスト教を東方の蛮族の宗教と見なし、知的反感を抱いていた。

[12] エウセビオス教会史V,1,17~19を参照せよ。

[13] 130頃〜200頃 小アジア出身。青年時代に、使徒ヨハネの弟子とされるスミュルナの司教ポリュカルポスの話を聞いたとされる。177年にポテイノスの後継者としてリヨンの司教となる。セプティミウス・セヴェルス帝のとき殉教したことになっているが、その真偽は定かではない。グノーシス主義の異端と戦うなか、教義の正当性の根拠として司教による使徒の権威の継承とローマ司教の首位権などを主張した。著書に異端反駁という大著がある。2世紀の指導的な神学者。

[14] 古代フリュギア地方(小アジア)の豊穣多産の女神。紀元前5世紀後半にギリシアに伝わり、紀元前3世紀後のローマに伝えられたとされる。

[15] ミトラ神は、小アジアに移植されたゾロアスター教(ペルシア起源)から発展した密儀宗教の祭神。ローマ帝国において1世紀後半から4世紀半ばまで流行したが、キリスト教の普及とともに衰退した。

[16] これはもともとギリシア語で、「雄牛の屠殺」を意味する。

[17] ?~353 ローマの 簒奪 帝。在位350~353年。ゲルマン民族の出身。350年に、アウグストドゥヌム(現在のオータン)で反乱を起こし、コンスタンティヌス帝の第4子コンスタンス帝を殺して、皇帝を僭称したが、351年のムルサの戦いなどでコンスタンティウス2世に敗れ、2年後に、ガリアで自殺した。

[18] 彼は、コンスタンティヌス帝の第3子で、ローマ皇帝(在位337~61)。従弟の(背教者)ユリアヌスと対立した。コンスタンティヌス帝の父コンスタンティウスと区別するために、コンスタンティウス2世と言われる。アリウス派とカトリックの神学論争に熱心に介入したが、その調停に失敗したことでも知られる。

[19] マカベア:セレウコス朝シリアからの独立戦争(マカベア戦争BC168~ 164)を指揮したユダヤ人の祭司ユダスの一族を総称する称号。特に、ユダスの兄弟ヨナタンとシモンが有名。旧約聖書第二聖典(旧約聖書続編)マカバイ記を参照せよ。彼らの信仰的態度は、初代教会に大きな影響を与えた。

[20] ? ~390 聖ユストゥスの後継者としてリヨン司教となり(381)、聖ステファノ教会を建設して、これを司教座にした。

[21] 540~595 トゥールの司教(573以降)、歴史家、聖人。創世記の天地創造から同時代のフランク王国(メロヴィング朝)までを扱うフランク史』全10巻を執筆したことで知られる。

[22] ローマ皇帝。在位361~363。コンスタンティヌス帝の甥。キリスト教の教育を受け、おそらく洗礼を受けたと思われるが、宦官マルドニウスの指導によって異教のギリシア的教養に傾倒、皇帝即位とともに異教祭儀の復興とキリスト教の転覆を図ったが、時代の流れには抗し切れなかった。

[23] 315~367 ガリアのポアティエ出身。同地の司教。アリウス派に反対したことから、「西方のアタナシオス」と呼ばれる。彼の著書三位一体論は、ラテン語による最初の本格的な教理書で、アウグスティヌスに大きな影響を与えた。