44 あなたは、あなたご自身が十分よく知っているように、ひそかに我々を嘲笑しつつ、以上のことをすべて行った。そしてあなたは、あなたの読者たちをひたすら欺くために悔悟を告白する。しかし、たとえあなたの悔悟が誠実なものであるとしても――実際そうあるべきだが――あなたがかつて告白していたこの有害な教えによって多年にわたって迷わされてしまった魂たちはどうなるのか。さらに、あなたが悔悟者、告発者、裁判官となって書いた文書が、あなたの読者たちを再び同じ諸々の教説へと送り返し、それらを読み保持するように仕向けているとすれば、あなたの悔悟によって、いったい誰が自分の諸々の品行を改めるだろうか。しかし、たとえそうでないとしても、あなたはみずから、あなたの悔悟の後で、一切の赦免道を閉ざしてしまったのである。あなたは、オリゲネス自身がそれらの教説を後悔し、当時、ローマの教会の司教をしていたファビアヌスにその旨の文書を送ったと言う。しかし、彼のそうした後悔にもかかわらず、そして、彼が死んで百五十年が経つのに、あなたは彼を法廷に引きずり込み、彼の断罪を求めている。彼は、あなたが書いたように書いた。彼は、あなたが後悔したように後悔した。したがって、あなたも彼もともに、後悔のゆえに赦免されるべきであるか、それとも、もしもあなたが悔悟者に赦免を拒否するなら――わたしはあなたがそうすることを見たくないが――、あなたも彼もともに断罪されるべきかのいずれかである。そのことを例証する福音のたとえ話がある。姦通の現場で捕らえられた女が、ユダヤたちによって我々の主の前に連れてこられた。それは、主が律法に従ってどのような裁きを下すかを彼らが見るためである。慈悲深い主は憐れみを覚えて言った:「あなた方の中で罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」。そのとき、彼らはみな、立ち去ったと言われている。ユダヤ人たちは、不敬で不信仰であったにもかかわらず、彼ら自身の罪の自覚によって恥じ入った[1]。彼らは罪人であったから、罪人たちに公然と刑を執行できなかったのだろう。そして、十字架上の泥棒は、彼と同じく十字架に掛けられた他の泥棒に向かって、「あなたは神を畏れないのか。我々が同じ罰を受けているというのに[2]」。ところが我々は、我々自身が自覚している諸々の事柄を他の人たちの内で断罪する。しかし、我々は、ユダヤ人たちのように恥じ入りもしなければ、泥棒のように宥めすかされることもない。



[1] Cf.Jn.8,3-9.

[2] Lc.23,40.

 

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