36 私は、彼自身の言い回しの一つを使って[1]師に話し掛けたい。なぜあなたは、400年近くも経ってから、そのような諸々の教えを温厚で純朴なラテン人たちに教えるのか。なぜあなたは、使徒たちの諸々の書物の中に誰も見出したことのない新奇な響きの諸々の言葉を不慣れな人たちに諸々の耳に吹き入れるのか。私はあなたに懇願する。どうかローマ人たちの諸々の耳を煩わせるな。使徒が賞賛した(彼らの)信仰[2]を揺るがすな。なぜあなたは、ペトロもパウロも公にする気のなかったことを公にするのか。キリスト教は、それらの事柄なしに実在しなかったのか――私が諸々の翻訳をしたときでなく、私が引用した事柄をあなたが15年程前に書くまで。来るべき世にも上昇と転落があり、ある者たちは前進し、他の者たちは後退するというあなたの教えは、何のためなのか。もしもそれが真実なら、この世で命が生れ、失われるとあなたが言ったことは、何らかの隠された意味を含んでいるのでなければ、真実でない。さらにあなたは、教会は、人間たちばかりでなく、み使いたちと天のすべての力からできた一つの身体として理解されるべきだと教えている。あなたは、『そして彼を全教会に臨む頭にしなさい[3]』という同じ所の段落を注解しつつ、次のように言っている:『教会は、人間たちだけから成り立つのでなく、み使いたちとすべての諸力、そして諸々の理性的な被造物とからも成る』。さらにあなたは、魂たちは前の生活において神を知っていたのであるから、彼らはいま神を知るとしても、神をそれまで知らなかったものとして知るのではなく、あたかも神を忘れていたかのように、神を再び認知するようになる。以下に、同じ書物の段落で使われていた諸々の言葉を載せる:

 『彼が使っている「彼の知識において[4]」という諸々の言葉を、ある人たちは次のことを思い起こすことによって解釈する:すなわち、グノーシス(gnw/sij)とエピグノーシス(evpi,gnwsij)との間には、すなわち、覚知(scientia)と認知(recognitio)との間には違いがある。覚知は、我々が以前は知らなかったが、知り始める諸々の事柄に関係しており、認知は我々が後で思い出す諸々の事柄に関係している。ある人たちが言うには、我々の諸々の魂は、人間の身体の中に投げ落とされ、父(なる神)を忘れた後でも、以前の生活のある種の把握のようなものを持っている。しかしいま我々は、啓示によって彼を知っている。それは、次のように書かれている通りである:「この世の諸々の果ては、主を思い出し、主に立ち帰るだろう[5]」。似たような言葉はたくさんある』。



[1] ヒエロニムス書簡84,8.

[2] Rm.1,8.

[3] Ep.1,22.

[4] Ep.1,17.

[5] Ps.22,28.

 

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