全人類と宇宙全体のための典礼

11. 主キリストは典礼体験の中で、聖書における場合とまったく同様に、道を照らし宇宙の透明性を明らかにする光となっています。過去の諸々の出来事はキリストの内に意味と充実を見出し、作られたものはその有るがままの姿を現します:それらは典礼の中で、そのもっとも完全な表現とその充全な目的とを表すのです。それゆえ典礼は、地上における天です;典礼の内で、肉となったみ言葉は、諸秘跡の内に充全に現れる救いの潜在力を物質に刻印するのです:被造物はまさにここで、キリストが被造物にお託しになった力をそれぞれの人に伝えるのです。実際、ヨルダン川に浸った主は、水に、洗礼による再生の洗いになることを許すみ力をお与えになっていたのです。

東方の典礼的な祈りは、このような文脈に、人間の全体を関わらせるのに大きな適性を示しています:神秘は、その内容の崇高さをほめ歌われますが、救われた人間の心の中に神秘が掻き立てる熱い感情の中でもほめ歌われるのです。聖なる行為の中で身体性もまた、賛美へと招かれています。神的調和と変容した人間性の雛形とを表現するための東方のおける用語の一つである美は、至る所に現れています:それは、中央祭壇を取り囲む内陣の様々な形姿、音響、色彩、光、芳香の中に現れています。長く続く祭儀、祈願の連呼、すべてが、人間全体と祝われる神秘との漸進的な同一化を表現しています。こうして教会の祈りは、天の典礼への参与、最終的な至福の先取りとなっているのです。

「脱自」(extase)と内在とにおける理性的な要素と感情的な要素の両面を含めた人間全体の統合的な価値の高揚は、大きな現実性を持っていて、造られた諸事物の意味を理解させてくれる驚嘆すべき学校となっています:造られた諸事物は、絶対者でもなければ、罪と不正の温床なのでもありません。諸事物は典礼のなかで、創造主によって人類に与えられた賜物の固有の本性を開示するのです:「神は、ご自分の作られたすべての物を見た:それはとても善かった」(Gn 1,31)。たとえこれらのすべてが、物質に重くのしかかりその透明性を妨げる罪の惨劇のしるしを残していても、物質は受肉の中で贖われ、神を充全に担うもの、すなわちわたしたちをおん父に関係させることができるものになっているのです:こうした特性は、聖なる諸神秘、教会の諸秘跡の中で最高度に明らかにされています。

キリスト教は、物質や身体性を拒みません。それどころか物質や身体性は、典礼行為の中でその意味を充全に高められているのです。典礼行為の中で人間の体は、それが(聖)霊の神殿であるという内奥の本性を示し、世界の救いのために肉となられた主イエズスと一つに結ばれるに至るのです。しかしこのことは、物質的なものの一切の絶対的な高揚を含んでいるのではありません。なぜならわたしたちは、罪が人間存在の調和の中にもたらした混乱をよく知っているからです。典礼は、体が、十字架の神秘を通して変容(transfiguration)と霊化(pneumatisation)の途上にあることを示しています:タボル山の上でキリストは、これが再び起こるようにと望まれたおん父の望み通りに、ご自分の体を輝かしく示されたのです。

宇宙の実在もまた感謝を奉げるように招かれています。なぜなら宇宙全体も、主キリストを頭としてまとめられるように求められているからです。このような考え方は、被造物、特に人間の身体の尊厳と敬意そして目的についての均衡あるすばらしい教えを表しています。この人間の身体は、一切の二元論と、快楽を目的それ自体として体験する一切の快楽崇拝とを拒むとき、恵みによって光り輝く場となり、したがって完全に人間的となるのです。

自分自身との、そして宇宙との真に有意義な関係――これは利己主義と貪欲によってしばしば歪められています――を求める人たちに対して、典礼は、新しい人間の均衡へと至る道を開示し、造られた世界が有する聖体祭儀的な潜在力を尊重するように招いています;造られた世界は、主の感謝の祭儀の中に、祭壇の生け贄に現存する主のパスカ(過越)の中に取り入れられる定めにあるのです。