4 教会一致運動のなかで

 

判然と組織化された現象としての教会一致運動が比較的最近のものであるとしても、この運動が回復しようとしている神の民の一致の観念は、聖書に深く基づいている。そのような目標は、主の不断の関心であった(John 10:16; 17:11, 20-23)。それは、信仰と希望と愛における(Eph 4:2-5)、相互の尊重と連帯のおける(1 Cor 12:14-27; Rom 12:4-5)キリスト者たちの一致を目指し、しかし何よりも、ぶどうの木とその枝(John 15:4-5)、頭とその肢体(Eph 1:22-23; 4:12-16)にたとえられる、キリストにおける有機的な一致を目指す。この一致は、父と子が一つであるように完璧であるべきである(John 17:11, 22)。聖書は、この神学的基礎を提供し(Eph 4:4-6; Gal 3:27-28)、最初の使徒的共同体がその具体的な生き生きとしたモデルであることを示す。

教会一致運動の対話が直面する諸問題の大部分は、何らかの意味で、聖書本文の解釈に関係している。諸問題の幾つかは神学的である:終末論、教会の構造、首位権と集団指導制、婚姻と離婚、奉仕的祭司職への女性の登用、等々。他の諸問題は、教会法的法律的性質のものである:それらは、普遍教会と地方諸教会の管理に関わっている。最後に、厳密に聖書的な他の諸問題がある:正典書の目録、幾つかの解釈学的諸問題、等々。

聖書解釈は、それ自体でこれらの諸問題をすべて解決すると主張できないが、教会一致運動の領域で重要な貢献をするように求められている。既に著しい進歩が成し遂げられた。同じ方法や類似の解釈学的観点の採用によって、さまざまなキリスト教告白の解釈者たちは、聖書解釈において注目に値する合意の水準に達した。それは、聖書の数多くのエキュメニカルな翻訳の本文と注、ならびに他の刊行物によって証明されている通りである。

たしかに幾つかの点では、聖書解釈における数々の相違がしばしば刺激的であるとともに、相補的で(他を)豊かにさせるものであることが証明され得ることは明らかである。これらの相違がさまざまの教会共同体の特有の伝統に属する価値を表し、こうしてキリストの神秘の多様な側面の感覚を伝えるときが、そうである。

聖書が信仰規則の共通の基礎なのだから、教会一致運動の至上命令は、すべてのキリスト者が聖霊への従順のもと、愛と誠実さと謙虚さの内に、霊感を受けた聖書を再読するように執拗に招くことである;この至上命令は、すべての人がこれらの文書を沈思し、心の回心と生活の聖性とを達成するためにそれらの本文を生きるように求めている。この心の回心と生活の聖性という二つの特質は、キリスト者の一致を求める祈りに結び付けられるとき、教会一致運動全体の魂を構成する(cf Unitatis Redintegratio, 8)。この目標を達成するには、聖書の既得物をできるだけ多くのキリスト者の手の届くところに置き、エキュメニカルな翻訳を奨励し――というのは、共通の本文を持つことは、共に読み共に理解するのを助けるからである――、さらにエキュメニカルな祈りのグループを奨励し、こうして真正で生き生きとした証によって、多様性のなかの一致の達成に貢献する必要がある(cf Rom 12:4-5)。